16、皇太子 スシーマ
ミトラはその翌日、皇太子スシーマの宮殿に案内された。
ビンドゥサーラの子供達はみんな母と共に後宮に住んでいて、驚いた事に百人近い王子と姫がいるらしかった。
そして別格扱いのアショーカとスシーマの母だけが独自の宮殿を持っていた。
シリア王女のミカエル様が西宮殿。
バラモンの最高血統のスシーマの母ラージマール様が東宮殿。
この二人だけが他の側室達とは一線を引いている。
本宮殿ほどではないが、広い敷地に南国の木々と池が配された見事な庭園を備えたスシーマの東宮殿は、ヒンドゥ独特の幾何学の彫り物に彩られた柱廊が庭を囲むように立ち並び、ミトラはその奥の開放的で風通しの良い一室に通された。
重厚な絨毯とタペストリーに飾られた廊下から室内に入ると、華美過ぎず、それでいて質の良い籐家具が、適所に置かれていた。
決して豊かさを誇示しない控えめな数の調度は、身を置いて心地いい。
籐で編まれたゆったりと広い椅子に、勧められるままに座ると、目の前の主が座るべき椅子に小さな猿が座っているのに気付いた。
「猿が……」
ミトラの言葉も待たず、案内の女官は猿を見て怯えたように部屋を出て行ってしまった。
白毛に赤い顔をした猿は横柄な態度で小さな腕を組んでいる。
感じは悪いが、どこか愛らしい。
そして、その頭には金の王冠がはまっていた。
「まさか、スシーマ王子…………ではあるまいな」
ミトラは問いかけて、自分で苦笑した。
「そなた、スシーマ王子の代役か。
猿の妃になれと申すか。中々良い考えだ。
そなたならお受けしても良いぞ」
ミトラが答えると、猿が威嚇するように歯茎を出してキーッと鳴き声をあげた。
敵国の巫女姫を侮辱するつもりなのだろう。
ミトラは出る時被せられた暑苦しいヴェールを脱いで、珍しい猿を見つめた。
この間の象といい、この国の動物の瞳には、たまに神が宿るようだ。
不思議な思いで猿を観察する。
猿は時折歯茎を見せて威嚇するものの、飛びかかる事もなく、睨みあったまま、一刻ほどの時を過ごした。
ようやく開いたドアから入って来たのは、しかしスシーマではなかった。
「あれ? え? スシーマ様は?」
「!」
ミトラは振り向いて、しばし呆気にとられた。
男の頭にターバン代わりにのっているモノがゆっくり蠢いている。
青光りをしてとぐろを巻くそれは、一番上で鎌首をもたげて「シャーッ」と二つの頭が威嚇し合っている。
疑いようもなく蛇だ。
見事に形良くおさまっているため、頭から生えているのか、乗っているだけなのか判別出来ない。
「あなたは……シェイハンの巫女姫様?
なんと噂には聞いていましたが見事な月色の髪、翠の瞳。
あ、驚いている場合ではなかった。
まだいらっしゃったんですか?」
どうやらもう用も済んで帰ったものだと思っていたようだ。
頭の蛇も驚いたような表情に見えるのは気のせいか。
その逆三角の鎌首は、猛毒を持つ最強の毒蛇だったはずだ。
絶対頭に乗せたらダメなタイプのヤツだ。
……だが、あえて問い質さない事にした。
導師の話も嘘ばかりではなかったようだ。
ヒンドゥには本当に一つ目の巨人や羽の生えた男もいるのかもしれない。
しかし、この国にどんな奇人がいようと、ミトラには関係のない事だ。
「帰ってよいなら帰るが、スシーマ王子は猿であったという解釈で良いのだな?」
「ああっ!? ハヌマーン!
こんな所で何をしてるんだ!」
男は猿を見て心底驚いているようだが、目は笑っているようにしか見えない。
頭上の凶暴さを相殺するような三日月型の細い目に癒される。
「もう一刻ほども無言で見つめあった」
「なんという失礼を!
またあの堅物は……いや、すぐ呼んで参りますのでお待ち下さい!」
青年武官は猿を置き去りにしたまま、あっという間に行ってしまった。
頭が非常識な割には、人間はまともらしい。
何故か心許せる雰囲気の男だった。
「そなたハヌマーンという名なのか」
ミトラは警戒し続ける猿に振り返った。
「シータ姫を救わんとする猿の将軍か……。
よい名をつけてもらったな」
翠珠の瞳で微笑むミトラに、ハヌマーンはキイと鳴いたが、もう威嚇はしなかった。
「スシーマ様!」
太陽神スーリアを奉った祭壇に向かい、ガヤトリーマントラを唱える男に声をかけたのは、長い黒髪を腰まで垂らした、こぼれ落ちそうな黒目が印象的な少女だった。
魔除けを込めた目の周りの過剰な色墨が、むしろ化粧に不慣れな幼さを露呈している。
ヴェールで目以外を覆っていても、充分美形だと想像がつく容姿だ。
「私の話を聞いてらして?
お父様も今回ばかりはお怒りになってるわ。
スシーマ様がいつまでもはっきりなさらないから、このような事になるのだって」
明るい茶色の髪をゆるく編んで右肩に垂らした背の高い青年は、豊満な体で絡みつく少女にも構わず、あぐらのように足を組んだままマントラを唱え続ける。
「ねえったら。
まさか異国の翠目の女を妃に迎えるつもりじゃないですわよね」
両手を前で合わせて最後の礼を捧げると、ようやく王子は少女を見た。
「何度も言うがユリ、祈りの最中に入ってくるのはやめよ。
そなたでなければ手打ちにされてもおかしくないのだぞ」
見つめられ優しく窘められると、少女はぽっと頬を染めた。
その藍色の深い瞳で見つめられると女達はみな骨抜きになる。
ヒンドゥの色濃い顔立ちの男達の中にあって、全体に少し色素の薄い容貌が、涼やかで女好きのする外見なのだ。
しかもその一見優しげな雰囲気とは裏腹の、ストイックな冷たさが女心を波立たせる。
「だって、ここ以外だと猿が邪魔をするのですもの。
あの無礼な猿ったらこの間も私のお気に入りのサリーを引き裂いてしまったのよ。
注意して下さいな、スシーマ様」
「ハヌマーンは女嫌いだからな」
だからわざと側に置いているのだが、そうとは言わない。
「まだ私は覚えなければいけない事がたくさんあるのだ。
今、妃を迎えても構っている暇がない。
私はバラモンとしての修行を一段落させてから結婚したいんだ」
「そんな事言ってたらユリはお婆さんになっちゃうわ」
化粧はケバくとも、拗ねた顔には幼く無垢な愛らしさが滲み出る。
他の男なら思わず抱きしめてしまう事だろう。
しかしスシーマは容赦がなかった。
「待てないのなら他の殿方の所へ嫁ぐがいい。
そなたの家柄なら選び放題だろう」
スシーマの冷たい言葉を待っていたように、少女の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「ひどい!
私はスシーマ様以外考えた事などないのに!
お父様に言いつけるから!」
だっと走り去る少女を見送って、さきほどの蛇の青年武官が祈祷室に入ってきた。
「罪な男ですね」
青年がにやにや笑うと、スシーマはふんと鼻を鳴らした。
「女というのは本当に面倒だ。
私はしかるべき家柄の、面倒のない女に世継ぎだけ生ませれば良いと思っている。
ユリのように愛情深い女は避けたいのだがな」
「されどユリ様ほど家柄正しき姫はいません。
しかも国でも一・二を争う美少女ではありませんか。羨ましい」
うっかり洩れた本音を感じ取り、頭の蛇がシャーっと威嚇する。
「欲しいならくれてやる。
お前は高慢ちきなバラモン女の扱いに慣れているだろう」
「バラモンがお気に召さないのならクシャトリアの姫でも良いではないですか」
「あの父上が許すと思うか? ナーガ」
スシーマの問いに、ナーガと呼ばれた青年武官は困ったように首を引っ込めた。
「では、シェイハンの巫女姫様になさい。
ハヌマーンに相手をさせるなんて呆れましたよ。
早く行っておあげなさい」
王子の背を押すように、二人は並んで部屋を出た。
「まだ待ってたのか?
ハヌマーンが追い払ったものだと思っていたが」
がっかりしたように呟く。
「そんな事だろうと思いました。
でも一度ご覧になったほうがいいですよ。
見事な月色の髪に翠の瞳の、ちょっと見た事のない美少女です」
ナーガは期待をこめてスシーマを見た。
「どんな容貌であっても興味がない。
しかも巫女姫などという身分の女は考えただけで厄介だ」
「はあーーっ。
それだけの容姿を持ちながらなんと夢のない。
国中の乙女達が聞いたら幻滅しますよ」
ナーガに導かれ、仕方なくスシーマはミトラのいる部屋に向かった。
かなりの頑固者のこの王子は納得しない事は誰の言う事も聞かないが、この腹心の側近、ナーガにだけは弱かった。
物心ついた頃には二匹の蛇に棲みつかれ、追い払っても追い払っても我が家のように頭を占領されてしまった人の良さ。
それとは裏腹に頭も切れれば剣もたつ。
愛嬌のある目元で人を安心させておきながら、その実かなりの策士でもある。
頭の異物以外はすべてにおいて優秀な男だったが、残念な事にその唯一の欠点が、あまりに突出していて、女にモテることも、友達が増える事もなかった。
だが、そういう部分も含めてこの側近を信頼していた。
「身分高き女性の心を牛耳る事は、政治を円滑に進める動力となります。
せっかくの武器を上手に使わなくては」
二匹の蛇が諭すように見下ろすのが少しばかり腹立たしい。
「わかった、わかった。
だから外では親切にしてるではないか」
「ではシェイハンの姫にも親切にして下さい」
ナーガは扉を開いて、ミトラのいる部屋にスシーマを招き入れた。
足音が聞こえていたのか巫女姫は立ち上がってスシーマの方を向いていた。
長い月色の髪にヒンドゥの赤いサリーがよく似合っている。
ヴェールをつける習慣がないのか、男に顔を見られても隠す素振りもない。
思わせぶりに顔を隠す女達に慣れていたスシーマは、むしろその堂々とした態度が新鮮だった。
翠十字を描く額に垂れた大粒のルビーと、翠に輝く瞳に目を奪われる。
「ほう、これは……」
スシーマは、しばし立ち止まった。
「なんと珍しい髪の色だ。
シェイハンというのはギリシャの流れをくむ国だと聞いたが、ギリシャの者はみなそのような容姿なのか?」
スシーマは物珍しそうにミトラの周りをぐるりと回った。
今年二十歳のスシーマから見ると、頭二つ分ほどもミトラは小さかった。
その幼さに、ついうっかりとスシーマは髪を一房、手に取った。
「あ、姫君に失礼ですよ、スシーマ様」
思わずナーガが制止した。
「ああ、すまない」
少々の失礼はスシーマの藍色の瞳で優しく見つめれば、むしろ好意的に受け止められる。
そう思い込んでいた王子は、自分を射るように睨み付ける翠の眼差しに気付いて、はっと手を引っ込めた。
「いや、失礼した。
巫女姫殿には無礼であったか」
殺気に近いほどのミトラの視線にスシーマは軽い驚きを覚えた。
「用件を申されよ」
ミトラは素っ気無く返した。
「ああ、ずいぶん待たせたようで失礼した。
私はマガダの皇太子スシーマだ」
「知っている。
私の名もここにいる理由もご存知のはず。
結論を申されよ」
今だかつて、スシーマは女からこのような扱いを受けた事がなかった。
珍しくむっとした。
「あなたの国の女性は、みなそのように失礼な物言いをするのか?」
スシーマの言葉に、挑むような視線が返る。
「私の国など、もう存在しない。
そうなったのは、そなたの国のせいだ。
私が敬い礼儀を尽くすと思ったのか?」
容赦のない返答にスシーマは言葉を詰まらせた。
ナーガが取り持つように口を挟む。
「巫女姫様、スシーマ王子は今回の計略はご存知なかったのですよ。
すべては王とラーダグプタ殿の策略なのです」
ラーダグプタの名を聞くとミトラの心が疼いた。
「私の敵である事になんの違いもない。
その巫女を妻に娶るという鬼畜の行いに賛同されるのか否か。
申されよ!」
スシーマはひどく悪者になったような気がした。
これほど憎しみを込めた言葉を女から受けた事はない。
「言われなくとも断るつもりでいた。
不愉快だ。出て行くがいい」
スシーマの返答に、ミトラは初めてニコリと艶やかに微笑んだ。
その凄絶な美しさに圧倒される。
「賢明な判断、感謝致します」
両手を前に組んで頭を下げると、巫女姫は振り返りもせずに部屋を出て行った。
しばしナーガとスシーマは呆気にとられて、その後ろ姿をただただ見送った。
そして次の瞬間、ナーガが堪え切れずに笑い出した。
その笑い声に驚いて、椅子で大人しくしていた猿がスシーマの肩に飛び乗って首筋に抱きついた。
「これはこれはスシーマ様が女に辛辣に言いくるめられるのを初めて見ました。
中々に見応えのある……ははは……色男も形無しですね」
ナーガが笑うたび、頭の蛇も活気付く。
「それ以上笑ったら切り捨てるぞナーガ!
それにハヌマーンも何故いつものように追い払わぬのだ。
役立たずめ!」
スシーマは苦々しい顔で忠臣と猿を睨み付けた。
ハヌマーンはキィと一声鳴いて、もう一度スシーマの首に抱きついた。
「ご勘弁を。
しかしどうですか?
自分に少しもなびかない女に出会った感想は?
私などは日常茶飯ですが、案外に興味を持たれたのでは?」
ナーガは湧き出す笑いを飲み込んで尋ねた。
「冗談じゃない。
あのように気位の高い女、ユリよりタチが悪いわ」
スシーマは本気で憤慨しているようだ。
「私は王子がそのように女性に興味を持たれぬのは、いつも追いかけられてばかりだからかと思ったのですが、ちょっと追いかけてみたくなりませんか?」
ナーガは案外相性がいいのではないかと思い始めていた。
「くだらぬ。
あの女といたら私は今に切り捨ててしまうぞ。
二度と会うものか」
「スシーマ様が断ればアショーカ王子に話がいくそうですが。
よろしいのですか?」
「アショーカ? あの乱暴者の遊び人か。
似合いではないか。そうするがいい」
ナーガは呆れたような顔で息を吐いた。
蛇達もそれに倣う。
「良いのですか?
アショーカ王子は近頃ヴァイシャやシュードラの間で非常な人気を得ているそうですよ。
この上、西方で信徒の多いミスラの巫女まで手に入れてしまうと侮れぬ者となるでしょう」
蛇達が本当にいいのかと、シャーっと顔を揃えて舌を出す。
「ふん。所詮はいち王子に過ぎぬ。
そもそもアショーカは父上に嫌われている。
今に失脚するだろう。
私としては反乱討伐の腕は買っているのだがな。
出来れば私の良き駒にしたいのだが」
ナーガはすぐさま首を振った。
蛇達も鎌首を左右に振り回す。
「あの王子を見くびってはなりません。
誰かの駒になどなる男ではありませんよ。
今の内に潰しておくのが得策かと……」
スシーマは驚いたようにナーガを見た。
「そなたにしては珍しく過激な事を申すのだな。
私にはただのうつけ者にしか見えぬが」
「それほど危険だという事です」
「……」
スシーマは、しばし考え込んだ。
「そなたがそこまで言うなら……わかった。
気をつける事にしよう」
次話タイトルは「商人ソグド」です




