11、ビンドゥサーラ王
ミトラがナルマダと別れを惜しみつつパータリプトラの市街地に入った頃、アショーカは、カールヴァキーを見舞い、西宮殿を出た所で一番会いたくない男に出会っていた。
王宮の本宮殿にも繋がる横道は、王の住まいゆえに多くの顧問官や司祭も行き交う。
なるべく人に会わぬように馬で一気に走り抜けてきたアショーカだったが、今回ばかりは馬を降りて拝礼せざるを得ない相手だった。
アショーカに付き従うヒジムと数人の騎士団も慌てて馬を降り、拝礼する。
道々の武官や従者達も道沿いに拝礼して見送っている。
多くの家臣を従え、ゆっくり馬を駆る肥え太った男は、アショーカの前で馬の足を止めた。
「ほう。これは珍しい男に会ったのう。
最近は見かけぬと思ったが……。
そなた、どこぞに居を構えたのではなかったかのう」
顎鬚を撫ぜて、とぼけたように馬上から見下ろす。
「お久しぶりでございます、父上」
ビンドゥサーラ王だった。
「帰ってきたのにワシに挨拶一つ無しとは、大した身分じゃな、そなた」
「妻の危篤ゆえ私用でございます。
お忙しい父上を煩わせまいと失礼を致しました」
「ほうほう、そなたも少しは礼儀をわきまえた言葉を吐けるようになったか」
しおらしく片膝をつく息子に、王は少しばかり小気味良くなった。
「先日はタキシラ太守の任を頂き、まことにありがとうございました」
「おお、そうじゃった。タキシラじゃったな。
あの辺境の地はそなたのように野蛮な男に丁度良い。
北の遊牧の田舎者とさぞ気が合う事だろう」
後ろに控える顧問官がクスリと鼻で笑う。
最高顧問官の一人パンチャーラ王だ。
「定住する屋敷も持たぬ浮浪の民など、血統正しき貴族達には理解が及びませんからな」
最高顧問官の中で誰よりもアショーカに敵意を持つ男だった。
最悪だ。
「危篤の妻とはコルバ隊長の娘御であろう。
カールヴァキーと申したか」
よく知ってるくせに、すっとぼけた野郎だとアショーカは歯噛みをした。
この男が、三十も年の離れたカールヴァキーの美しさを聞きつけ、側室にしようと画策したのは、ほんの三年前の事だ。
成就直前で奪われた恨みを今も深く根に持っている。
「少しずつ回復に向かっております。
ご心配には及びません」
「心配? はっ! 二心を抱くふしだらな女なぞ誰が心配するものか」
苦りきったその顔が、いまだ執着した心を印象付ける。
「お言葉ですがカールヴァキーは誰よりも清らかな女でございます。
我が妻に出来た事を心より幸せに思っております」
アショーカは勝ち気に微笑みを返した。
「くぬぬ。この生意気な若造め……」
王子でなければこの場で手打ちだろう。
「そう怒るな、パンチャーラ。
こやつの女癖の悪さは誰もが知る所だ。
そなた、シェイハンの姫も連れ去ったらしいのう。
呆れ返ったヤツじゃ。
あのスシーマが珍しく腹を立てておった。
あの女をどうするつもりじゃ」
やはり言われたかと、アショーカは冷や汗を浮かべる。
「神の国シェイハンは、あの姫にしか従わぬのです。
逆に言えば彼の姫が命じれば容易にマガダに従います。
ゆえに父上お望みのラピスラズリの鉱山も手中にする事が出来ました。
どうかシェイハンの聖大師としてタキシラに置く事をお許し下さい」
「ほう。純粋に国を治める者として扱うと?
やましい想いは無いと申すのじゃな?」
「神に誓って一切の手出しをしておりません」
まあ一応本当だ。
「これは驚いた。
手の早いそなたが手出ししておらぬか。
だがどこまで信じて良いものか分からぬがな。
お前は昔から神など信じてなかったはずだ」
フンと鼻をならす。
「私とて神妻に手出しするほどの度胸はございません」
恭しく頭を下げる。
「じゃがスシーマが珍しく婚約を口にした女じゃ。
どうしたものかのう。
それにワシに呪を吐いたままじゃ。
一度こちらに呼び戻し、しかるべき罰を与えるべきではないかのう」
「罰……」
アショーカの額に汗が流れる。
青ざめたアショーカを見て、ビンドゥサーラ王が舌なめずりをしてほくそ笑む。
(くそじじいめ!)
腹の底が煮えくり返る。
目まぐるしく言い逃れる口実を探す。
「申し訳ございませんが、残念ながら先約がございます」
「先約じゃと?」
王は怪訝な顔をする。
ヒンドゥに自分より優先される者は存在しない。
「シリアのアンティオコス王でございます」
「シリアの?」
さすがに驚いた。
「今度の乾季に、式典に呼ばれております。
ミスラの巫女姫を是非連れて来るようにと書簡を頂き、つい先日快諾の返事を送った所にございます」
「アンティオコス王か……」
さすがに無下に出来ない相手だ。
「タキシラ太守としてシリアとの友好関係を必ずや磐石なものに致して参ります」
「むうう……」
うまく切り抜けられた。
憎々しげにアショーカを睨む。
「分かっておろうな。
もしシリアとの友好が崩れるような事があれば、タキシラ太守は剥奪、下手を打てば死罪もありえると覚悟するがいい」
言うだけ言って、ぷいっと立ち去った。
パンチャーラも睨んだまま付き従った。
「相変わらず嫌なじいさん達だね」
充分見送ってからヒジムが肩をすくめた。
「首の皮一枚で繋がったってとこか。
もうすぐミトラがパータリプトラに着く。
あの父には絶対見つからぬようにせねばならぬぞ」
「スシーマ王子もその辺は分かってるでしょ?
まあ、東宮殿にいれば大丈夫じゃない?」
「そうだな。腹立たしいが、いましばらく兄上に預かってもらった方がいいだろう」
さっさと妖精退治を済ませ、パータリプトラを出なければ。
すべては明後日、ビンドゥサーラ王がヴァラナシの祭りに旅立ってから一気に片付ける。
王が祭りから戻った時には、到着したミトラと共にタキシラに旅立った後だ。
すべては計画通り進んでいる。
まさか、もうミトラがパータリプトラに到着しているとは知らなかった。
この先に予想外の波乱が待ち構えているとは、まだアショーカは気付くよしも無かった。
次話タイトルは「スシーマの母、ラージマール王妃」です




