10、ナルマダとの別れ
ミトラ達は足場の悪い街道を抜け、聖地ヴァラナシへと近付いていた。
ゲルの馬車は野宿の夜に寝所代わりに組み立てるだけで、日中はもっぱら馬で進んだ。
おかげで思ったよりも早い行程でパータリプトラに着きそうだった。
「ヴァラナシはもうすぐホーリーの祭りがあるのだ。
満月の日だから七日後ぐらいだな」
スシーマは道々、ミトラとナルマダが退屈しない程度の会話をはさんでくれる。
ミトラとナルマダが女同士の会話を楽しむ時は、決して立ち入らず警護するように並走している。
つくづく非の打ち所のない王子だとナルマダは感心した。
「ホーリーの祭りとは春の豊作祈願の祭りであったな。見てみたいな」
「残念だが、今回は諦めてくれ。
そなたはここにいてはいけない人間なのだ。
此度はビンドゥサーラ王が祭りに参加する予定だ。
王はまだそなたの事を呪いをかけた魔女だと思っている」
「ビンドゥサーラ王……」
あの不気味で恐ろしい王を思い出してぞっとする。
「ウッジャインの出発を急いだのも祭りの前にヴァラナシを通り過ぎたかったからだ」
「王に見つかったら私はどうなるのですか?」
ミトラは恐る恐る尋ねる。
「そうだな。牢に入るか私の妃になるかだ。
私は別にそれでも良いがな」
青ざめるミトラを見てスシーマはふっと笑う。
「案ずるな。王といえども高貴な姫のヴェールを剥ぐような真似はさすがにしない。
ナルマダやユリと共に馬車の中にいればバレる事はない」
「では馬での旅もそろそろ終わりですね」
残念そうに隣りのナルマダと目を合わす。
「スシーマ様あああ!!」
しょんぼりするミトラ達と対照的な弾んだ声が背後から近付く。
「ユリ殿?」
後ろからパトナの馬に乗せてもらったユリが現れた。
「そなた、あれほど馬の背にまたがるなどふしだらだと言ってたのに……」
ナルマダが咎める。
「よ、横座りですわ。
ま、またがるなんてはしたないマネしませんわ」
確かに横向きに乗せてもらっている。
馬車に乗ったままでは仲間外れになるのが我慢出来ず、横座りに妥協点を見つけて追いかけてきたのだ。
ミトラより少し背が高いぐらいのパトナには荷が重い。
ユリを落とさないように全身で緊張している。
スシーマはやれやれとため息をついた。
「パトナ、代わろう。その調子では一刻も持たぬぞ」
「だ、大丈夫です! 子供扱いしないで下さい!」
パトナはキッと兄を睨み付けた。
「コーサラの姫を落馬でもさせたら国際問題だぞ」
「そんなヘマはしませんっ! バカにしないで下さい!」
ムキになる所がすでに子供だとナルマダは笑いを堪える。
「バカになどせぬ。
お前は同年代の王子の中でも特に優秀だと聞いている。
あと六年すれば私より逞しくなったとしても、今はまだ十四の肉体なのだ。
仕方がない」
「くっ……」
その六年が埋まらない。
どこまで行っても、この見事な兄に追いつかない。
パトナの気も知らずに、ユリは無邪気に喜んでスシーマの馬に乗り換えた。
こんな事なら、もっと早く馬に乗って出るのだった。
パトナとは比べ物にならぬ力強い腕に抱かれ、ユリは舞い上がった。
隠し切れない喜びで顔を火照らせている。
(乗馬の旅も終わりなのに嬉しそうに。
この姫はこの姫で憎めない人だな)
ナルマダは、さんざん酷い目に合わされていながらも、ミトラがこの姫に好意的なのが分かるような気がした。
好きな人と馬に乗る喜びはナルマダもよく分かる。
背のナギを見つめる目は熱い。
多くの想いが入り乱れる旅は、一方通行でもそれぞれに楽しいものだった。
ミトラも初めて出来たナルマダという同性の友に、アショーカのいない喪失感も薄れ、心地よい旅を楽しんだ。
だからパータリプトラの手前で、ナルマダが話し相手の役割を終え、国に引き返す事になった時は悲痛なほどに寂しがった。
「ナルマダ、また会えるだろうか?
手紙を書いてもいいか?」
「私も書く。タキシラに送ればいいのか?」
会うのはもう難しい。
今までだってアヴァンティ国の奥宮殿から出た事がなかったのだ。
今回の旅は奇跡ほどの出来事だった。
「うん。タキシラに戻ったらすぐに手紙を書く」
手をとりあって名残を惜しんでいるミトラとナルマダにスシーマが割って入った。
「ナルマダ、此度の旅がそなたのおかげで快適であったと、私からよくよく父上殿に感謝を述べておこう。
ミトラに会いたくなったら、私がそなたを召してやろう。
さすればアヴァンティ殿も快く送り出してくれるに違いない」
「本当に!?」
ミトラとナルマダは歓声をあげて喜んだ。
「また会う機会を必ず作ってやる。
その代わり、手紙はお互い一旦私宛に送る事だ。
アヴァンティ殿にミトラの正体を知られてはならない。
ミトラも分かったな?」
「わ、分かりました。ありがとう! スシーマ殿!」
ナーガはその様子を見て、思いがけずよい駒を手に入れたと口元をほころばせた。
ミトラがナルマダに会う為にはスシーマの仲介が絶対不可欠だ。
ナルマダの名を出せば、この恋に疎い姫が、どこにでも駆けつける事だろう。
なんだったらナルマダを側室にでもして後宮に入れてしまったら、手元に置く事も出来る。
そうなればナルマダ会いたさに結婚まで承諾する事だって有り得るかもしれない。
(まあ、そんな事しないでしょうけどね……)
この真面目な王子がそんな理由で側室など娶らないのはナーガにも分かっていた。
だがそれでも大きな駒を手に入れた事には違いない。
次話タイトルは「ビンドゥサーラ王」です




