9、衛兵隊長イスラーフィルとウソン
「おい! いい加減にしてくれ!
手形はちゃんと見せただろう!」
ヴィンドヤ山の南麓を通り抜ける関所で、イスラーフィルは足止めをくらっていた。
昨日ウッジャインに到着したところで、スシーマ王子一行が入れ違いで、東回りの街道から出発してしまったと聞かされた。
商人ボパルの屋敷で一泊して、ミトラの元気な様子と先日の騒動のあらましを聞いて、少し安心したものの、やはりミトラ本人の顔を見るまで落ち着かない。
一刻も早く追いつきたいとウッジャインに入るまでも夜通し駆けて、無茶な旅を続けてきたが、せっかくの早駆けも関所のたびに足止めを食らい、思うように進まなかった。
タキシラ太守であるアショーカの手形があるというのに、西欧生まれのイスラーフィルの外見のせいで、各所で怪しまれ、尋問を受ける破目に陥る。
「ウッジャインに確認の早馬を出すゆえ、明日もう一度来てくれ」
「はあ? ふざけるな!
何のために俺が寝ずに駆けて来たと思ってるんだ!」
門兵は、掴みかからんばかりになるイスラーフィルにも聞く耳を持たない。
「この先にはヴィンドヤ山の製鉄所がある。
国にとって重要な地ゆえ他の関所より厳しい審査があるのだ。
残念だが諦めるんだな」
「くっそう……」
ウッジャインの太守が捕縛され、不在の影響も大きい。
太守がいれば新たな手形を発行してもらえたはずが、いまだ混乱冷めやらぬ太守殿では手続きに時間がかかると言われ、待ちきれずに飛び出してきた。
◇ ◇
「おいっ!! ふざけるな!
何日待ってると思ってるんだ!」
(あーあ、あっちでも揉めてるな)
同じように怒鳴り散らしている商人とおぼしき一団を遠目に見て、イスラーフィルはもう一度ため息をついた。
(こんな事ならアショーカ王子と一緒にパータリプトラで待った方が良かったな)
マガダの王子という地位は、ヒンドゥでは免罪符のようなものだ。
ましてスシーマ王子とアショーカ王子は、誰もが知る有名人だ。
関所を素通りするに等しいスシーマ王子に追いつくのは至難の技だった。
「くそっ! なんだってんだ!
いつになったらここから出られるんだ!」
さっきの商人の一団が、ぶつくさ文句を言いながら後ろを歩いている。
馬車も持たず、馬四頭の両脇に荷袋が下がっている。
その割りに身なりがいいから、宝飾専門で売りさばく商人だろう。
賄賂もここでは通用しなかったようだ。
知らず聞き耳をたてる。
「よしっ! こうなったら今夜は巨乳美女と朝まで遊び呆けるぞ!」
「おやめ下さい。巨乳の夢は諦めたのではなかったのですか?」
「はんっ! あの貧乳女の事を言ってるのか?
冗談じゃない!
マギだかなんだか訳の分からんものに任命しやがって、誰が使徒だ!
俺様を家来のように言いやがって! 許せん!」
「されど、あの方こそまさしく単干様のおっしゃていた女神様でございます。
あの神々しい輝きをご覧になられたでしょう?
手に入れて損はございません」
「神々しい……」
あの翠の輝きを思い出すたび、気持ちとは裏腹にその恍惚に溺れそうになる。
「わざわざ遠回りをして、こちらの街道を進まれたのも気になっているからでしょう?」
「ふ、ふん! 誰があんな生意気な女……。
今度会ったら震え上がるほど脅してやる!」
「烏孫様!」
老従者は呼びかけて、突然立ち止まった主にぶつかりそうになった。
「どうされましたか?」
瞠目する主の視線を追ってぎょっとする。
ヒンドゥでは珍しい生粋の西欧人の顔立ち。
確かタキシラの衛兵隊長の男だったと思い出す。
「お前……アショーカ王子の騎士団にいた……」
相手も気付いたらしい。
(確かミトラと共にタキシラから消えたとアショーカ王子が警戒していた男だ)
「まずいっ! 逃げろ!!」
言うなり烏孫は踵を返して馬に飛び乗った。
「待てっ!! この野郎!!」
イスラーフィルも馬に飛び乗り、後を追う。
「くそっ! こうなったら山越えするぞ! ついて来い!!」
「待てえええ!!!」
道なき道を行く男達の逃亡劇が始まった。
次話タイトルは「ナルマダとの別れ」です




