6、カールヴァキーの病の原因
(助けて!)
声無き声で叫ぶ。
意識だけが体を離れようとしている。
抜け出たら最後、二度と戻れないような気がする。
(誰か! 助けて! アショーカ!)
「ミトラ!!!」
突然大声で名を呼ばれ、腕を掴まれた。
その途端、意識は体に納まり、夢から覚めたように現実に戻る。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
目の前に心配するスシーマの顔が見えた。
「井戸が……」
ミトラは傍らの石組みの囲いを見下ろした。
「井戸? ああ、小さな井戸のようだな。
地面に石を組んであるだけだ」
「でも、深く掘られていて……」
「何を言ってるのだ。掘ってなどない。
ただの井戸の模倣だ」
「でも……」
ミトラはもう一度覗き込んで声を失った。
あれほど底なしに深かったはずなのに、すぐ下に地面が見えている。
「昔の子供が井戸を模倣して遊んだのだろう。
子供にしてはよく出来ているがな」
「そんな…」
記憶が混濁する。
そして夢から覚める瞬間のように、すべてが忘却の彼方に忘れ去られる。
「急に姿が見えなくなるから心配したぞ。私から離れるな!」
「ご、ごめんなさい……」
すっかり我に返って辺りを見回す。
ユリたちが洞窟のずっと向こうに見える。
一人でずいぶん奥に入り込んだらしい。
「次の予定があるから残念だがゲルに戻ろう。
心残りなら、また来ればいい」
「そ、そうですね」
最後にチラリと井戸を見やったが、その目にはもう何の感慨も無かった。
◆◆
はっと、アショーカは南の空を見やった。
「どうかした? アショーカ?」
隣りを歩くヒジムは、少し身長差が広がった主君を見上げる。
「いや、今ミトラに呼ばれたような気がしたのだが……」
しきりに首を傾げる。
「いくら何でも、まだパータリプトラには着かないでしょ」
「あいつめ、また余計なトラブルに巻き込まれてないだろうな」
「さあね。ミトラの事だから、スシーマ王子も苦労してるだろうさ」
ヒジムはほくそ笑む。
「くそっ! 本当なら今頃ミトラを連れてタキシラに戻ってるはずなのに」
「アッサカの報告じゃあアショーカが迎えに来なくて随分落ち込んでるらしいから、花束でも用意して感動的な再会を演出しなよね」
「俺が来ない事に落ち込んでるんじゃないだろう?
すぐにタキシラに戻れない事に落ち込んでるんだろう。
さすがの俺様もそれぐらい分かってる」
自惚れても後でがっかりするだけだ。
「どうだかね。僕もミトラの気持ちまでは分からないよ」
ヒジムは肩をすくめる。
「まあ、でも花束ぐらいであいつが喜ぶのなら渡してやらん事もない。
ミトラが度肝を抜くぐらいでかい花束を用意しておけ」
「はいはい」
ヒジムは素直じゃない主がおかしくなった。
アショーカとヒジムは西宮殿のミカエルの屋敷に来ていた。
ビンドゥサーラ王が会議で王宮に行っている間にカールヴァキーを見舞うのが日課だった。
「母上、入るぞ!」
入り口でアショーカの姿を見止めた宦官の衛兵達は、慌てて奥へ知らせる。
すぐにドタドタという足音が響き、デビが赤子二人を両手に抱き上げたまま出迎えた。
「アショーカ様! ようこそ!
すぐにお席のご用意を!」
はち切れんばかりの笑顔だ。
「よいよい。カールヴァキーを見舞うだけだ。
いつも通りでよい」
毎度の事ながら、嬉しい気持ちが隠しきれないデビが、心から可愛いと思う。
すました貴族の姫より、よほど愛らしいと思うのだが、他の男達は自分より大柄なデビに脅威こそ感じるものの、可愛いとは思わないらしい。
「アショーカ様……。
私のためにご足労頂き申し訳ございません…」
デビの後ろで、か細い声が聞こえた。
突然の来訪にもきちんと黒髪を束ね、ヴェールを被っているカールヴァキーが、侍女に支えられながら出迎えに来ていた。
「バカもん! なぜお前まで出迎えておるのだ!
お前はしばらく安静にせよと医師から言われておるのだろう!
何のための見舞いだ! すぐに寝所に戻れ!」
「も、申し訳ございません……」
大声で怒鳴られ、儚げで美しい深窓の姫は青ざめる。
「ああ、俺が連れて行く。かせ!」
支える侍女を押しのけ、カールヴァキーを抱き上げる。
「きゃっ! 畏れ多い事にございます。
どうか下ろして下さいませ」
純情なカールヴァキーは真っ赤になって顔を隠す。
「病が悪化したらどうするのだ!
よいから大人しく抱かれていろ!」
アショーカはズカズカと屋敷を進み、奥の寝所に抱いていった。
「やれやれ。病人の心臓の負担を考えなよね」
ヒジムは心臓が飛び出るほど動揺しているカールヴァキーを見て、ため息をつきながら後に続いた。
アショーカは壊れ物のように、寝具の中に、そっとカールヴァキーを下ろす。
「重うございましたでしょう。申し訳ございません」
「俺様を非力と言うか! お前など藁よりも軽い」
アショーカはニッと笑った。
カールヴァキーは照れて顔まで布団を被ってしまった。
「アショーカ様は以前、この私でも軽々持ち上げられましたわ。
安心なさいませ」
デビがニコニコと、寝具を整えて甲斐甲斐しく世話をしている。
たぶん日ごろから、こうやって助け合っているのだろう。
この二人は本当に仲がいい。
「兄上さまあ! お待ちしてましたあ!」
甲高い声で部屋に飛び込んで来たのは、年の離れた弟、ティッサだった。
この所毎日のように来るアショーカを心待ちにしている一人だ。
「これ、ティッサ。
アショーカはカールヴァキーの見舞いに来ているのですよ。
邪魔をしてはいけませんよ」
後ろからは、母ミカエルが優しく嗜める。
この屋敷はいつも賑やかで温かい。
ヒジムですら居心地が良かった。
ビンドゥサーラ王が居ついてしまうのも無理はないだろう。
「ティッサ、今日は少し母上達に話がある。
しばし乳母と共に席を外してくれ」
アショーカが言うと、ティッサはもう泣きそうになっている。
「その代わり明日はそなたに剣を教えてやろう。約束だ」
幼い顔が、すぐに笑顔に戻る。
「本当ですか? 絶対ですよ兄上」
ティッサは物分りよく頭を下げて出て行った。
人払いをして母と側室達、そしてヒジムだけになるとアショーカは早速切り出した。
「先日申していたカールヴァキーの病の発端について、もう一度詳しく話して欲しいのだ」
カールヴァキーは困ったようにデビとミカエルを順に見た。
「私が説明致しますわ」
口を開いたのはデビだった。
「カールヴァキー様が病になられる前に、私達は共にこの西宮殿の森にキノコ採りに行ったのでございます。雨の後でずいぶん豊作で、つい夢中になってはぐれてしまったのです。
侍女と宦官で一帯を探しましたら、森の中に倒れているカールヴァキー様を発見したのです。
すっかり顔色を失い、虫の息のカールヴァキー様を見た時は動転致しました。
すべては私がはぐれてしまったから……。
私のせいでございます」
デビは思い出して、さめざめと泣き出した。
「デビ、お前を責めるつもりなどない。
俺の騎士団を追い出したクソ親父が悪い。
俺の騎士団がいればこんな事にはならなかった。
気にするな。
それよりその時、他に気付いた事はなかったか?
カールヴァキーは何か覚えてないのか?」
カールヴァキーは必死で記憶を辿ってみるが、よく思い出せないのだ。
「すべて靄がかかったようにはっきりせず……。
ただ……妖精のような美しい方にお会いしたような……。
長い長い黒髪に……少女のような細面の美しい姫に……」
次話タイトルは「西宮殿の森の妖精」です




