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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第五章 パータリプトラ 後宮編
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5、ビンベトカの岩絵

                    

 ボパールから少し南へ逸れた所にビンベトカの岩絵はあった。


 森の中に突如現れる岩山に、植物の色粉で描かれた太古の昔の絵が散見出来る。


「何千年もの昔には、この地のすぐ近くまで海であったらしい」

 スシーマはヴェールを纏ったミトラとナルマダとユリの三人を引き連れ、壁画を案内する。

 前にも一度来た事があった。


「何千年というとマハーバーラタやリグ・ヴェーダに語られる神話の時代か?」

 ミトラはヴェールから覗く翠の目を真ん丸くして尋ねた。


「それは数百年だ。もっと古い。

 インダスの謎の文明が栄えるよりも、もっと前だ」


「古代インダスよりも前……」

 途方も無い神世かみよの世代だ。


「これは神々が描いたのかもしれぬな」

 しきりに感心するミトラに、ナルマダとユリはさっぱり共感出来なかった。

 岩の中に描かれた、ただの象や鹿の絵だ。

 あまり上手でもない。


「海がここまで干上がったというのは、井戸で汲み上げ過ぎて水が減ったのだろうか?

 それとも大地は少しずつ天に近付いていってるのか?」


 想像もしていなかった質問に、スシーマは視野が広がる思いがした。


「なるほど。そんな考え方もあるのだな。

 大地が天に近付くか…」


「バカな事に感心しないで下さい、兄上。

 そんなわけないでしょう」

 後ろから護衛がてらついてきたパトナが、すぐに却下する。


「お前は頭が固いな。

 物事はもっと柔軟に考えねば新たな発見はないぞ。

 世界にはまだまだ解明されない謎がたくさんある」


「でも井戸で汲み上げ過ぎて海の水が減るというのはないでしょう」

 尊敬する兄がミトラの意見にばかり感心するのが気に食わなかった。


「湖が干上がった話はよく聞くがな。

 ミトラ、海の水は人が飲んだぐらいでは無くならぬらしいぞ。

 海は大地よりも広いというからな」


「ではもう一つ不思議なのだが、この色粉はそんな大昔から何故消えずに残っているのでしょう?

 特別な粉でも使っているのでしょうか?」


「よい事に気付いた。そうなのだ。

 消えないという事は、衣服につくと汚れがとれないという欠点でもあるが、大事なものを後世まで残すという利点もある。

 マガダの染色房でもその研究を行っているのだ」


「それはどのような研究なのでしょうか? 是非私にも……」


 ナルマダとユリは次々質問するミトラを一歩引いて見ていた。

 ヒンドゥの姫達には自分の意見というものがない。

 そういう教育を受けているからだ。


 矜持きょうじの高いヒンドゥの男は、女に言い負かされたり、女に劣ると露見する事が我慢ならない。

 だから賢明な姫は決して出しゃばらないし、男にへりくだり、知識をひけらかす事はない。


 並の男なら豊富な知識を思うままに口にするミトラを、疎ましく感じる事だろう。


(シェイハンの姫ったらバカな人ね。

 スシーマ様と意見を交わそうとするなんて)


 そのうち腹を立てて怒り出すだろう。

 そう思っていたナルマダとユリは、むしろ上機嫌にミトラとの会話を楽しむスシーマに裏切られたような気がしていた。


 父も教育係の女官達も、目の前のミトラのような態度を、高貴な男に決してしてはいけないタブーだと教えてきた。

 これでは話が違う。


 すっかり盛り上がるスシーマとミトラを尻目に、ナルマダとユリはお互い顔を見合わせた。

 アヴァンティ国の王女だというナルマダをユリは警戒していた。

 スシーマの妃候補と思われるナルマダは、強力なライバルだ。


 しかしナルマダの思惑は違っていた。


 ナルマダは父の教えに当てはまらない王子の存在に目の前が明るくなる気がしていた。

 勝ち気で聡明なナルマダは、女の意見をまともに聞く貴族の男など存在しないと思っていた。

 だから自分と対等に話す従者のナギが、色恋抜きにしても、かけがえがなかった。


 男の付属物のように生きるヒンドゥ女になりたくなかった。

 だから結婚などせず、ナギと生きていきたかったのだ。

 その理想を生きるようなミトラとスシーマが素直に好ましかった。


 そして、少しも男に媚びず、思った事を口にするミトラに自分と同類の匂いを感じていた。


「シェイハンの姫君は、前から思ってましたけど慎ましさが足りないわね」

 だから、負け惜しみのようなユリの非難の言葉にも同調するつもりもなかった。


「あら、私はいいと思うわ。

 女だからって何でも我慢すればいいってもんじゃないわ」


「まあ、本気で言ってるの?」

 ユリはナルマダも同意するものだと思っていただけに驚いた。


 変わり者の姫二人に囲まれ、少数派になる自分が理不尽だ。


「ユリ殿は間違ってませんよ。

 私はあのように、をわきまえず出しゃばる女性は嫌いです。

 ヒンドゥ貴族のほとんどがそうですよ。

 兄上が変なだけです」


 一つ年下のパトナはいつもユリの味方だ。

 守ろうとしてくれるのは嬉しいが、大多数の男がユリを選んだとしても、ただ一人スシーマがミトラを選ぶというなら、ユリは負けなのだ。


 世界中を敵に回してもスシーマ一人の愛だけが欲しいのだから……。


 六年前のスシーマを思い出させる面影のパトナだが、しょせんは六年前だ。

 今のユリには男として幼く、どこまでいってもその距離は縮まらない。


 そしてミトラと二人で壁画を辿ってどんどん進むスシーマも遠い。


「スシーマ様! どこまで行くのですか?

 私はもう歩けませんわ」


 ヒンドゥ女が唯一自己主張していい言葉。

 愛ゆえの我儘とおねだり。

 誰よりも可愛らしくねてみせる。


 ユリの最大の武器だ。


「疲れたなら先に馬車に帰っているといい。

 私はミトラと、もう少し見て回る」


「スシーマ様!」

 女心の分からないスシーマにユリは心底腹を立てる。


「兄上、いい加減にして下さい。

 この後ヴィンドヤ山の鉱山にも行くのですよ」

 パトナが援護してくれても、まだ名残惜しそうに奥の壁画を見やっている。


「途中の街道で日が暮れてしまったら危険です。

 もう壁画は充分でしょう」


「この奥に一番古い壁画があるのだ。

 一万年前のものとも言われている」


「ただの馬と羊の絵でしょう。

 どれも同じようなもんですよ」


「お前はロマンのないやつだな」


 スシーマとパトナが言い合っている間に、ミトラはふっと呼ばれたような気がして、ほんの少し奥に進んだ。


「……ヤ……。……イト……レイ…。マイ……」


「え?」


 入り組んだ洞窟の窪みに、井戸のようなものが隠れるように掘られていた。

 石を組んで丸く囲ってあるが、井戸というには小ぶりで、小さな桶ぐらいだ。

 膝ぐらいの高さのそれを、ミトラはそっと覗いてみた。


 ひどく深くて底が見えない。


「あ!」


 しかし深い深い奥底に、ぽっとみどりの光が見えた。

 恐ろしく深いのに鮮明に見える翠。


「マイトレーヤ……」

 耳のすぐ側で聞こえた声にビクリと肩を震わす。


「マイトレーヤ?」

 聞いた事がないはずの名に、なぜか懐かしい響きを感じた。


「我が女神……。私の…マイトレーヤ……」


「女神…。マイトレーヤ…。

 誰のこと……?」

 記憶の断片が頭に浮かぶ。


 血まみれのソル。

 衛兵と揉み合う商人達。

 恐怖に震える女達。

 自分を見上げるウソン。


「なに? これは……」

 次々浮かぶ映像の断片に翻弄される。


「私は何を……?」

 ガクリと膝をつく。


(いけない!)


 吹き抜ける記憶の嵐に押し上げられるように意識が体から離れそうになる。


 得体の知れない恐怖に、意識を必死で繋ぎとめる。


(助けて!)


 声無き声で叫ぶ。


 意識だけが体を離れようとしている。

 抜け出たら最後、二度と戻れないような気がする。


(誰か! 助けて! アショーカ!)



次話タイトルは「カールヴァキーの病の原因」です

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