4、パータリプトラのアショーカ王子
「きゃああああ!」
「早く隠れて!」
「目を合わせてはダメよ!」
パータリプトラの王宮から西へ1クローシャの場所に建つ、焼き煉瓦と巨木で重厚に造られた趣味のいい城の一室で、女達の悲鳴が響き渡る。
一番上客用の東の部屋は風通しが良く、広々として調度も行き届いている。
とても居心地のいい部屋だが、ただ一点、女達のかしましい声だけが余計だった。
開放的な部屋は扉がなく、更紗の垂れ布だけで遮られているため、覗こうと思えば簡単に覗けてしまう。
怪しい男なら衛兵が追い払うだろうが、女、まして城主の娘姫とあらば、衛兵も強く咎める事が出来ずにいた。
女達の視線の先には、わざと、背を向ける側の三人掛けの椅子に座る黒髪の男がいた。
柔らかそうに跳ねる髪から、大粒のラピスラズリの耳飾りが肩まで届いている。
後ろに垂らした青いターバンは椅子の背に長くひだを揺らし、男は腕を組んだまま、イライラを鎮めるように目を瞑っている。
「あの方が本当にアショーカ王子様ですの?」
「チャンダ(暴虐の)アショーカと呼ばれていると聞いてましたから、どんな大男かと思ったけれど……」
「思ったよりも普通の背丈の、細身の方ですのね」
「でも、お兄様の話では無類の女好きらしいから、みんな気をつけましょう」
「決して目を合わせてはダメだとお父様にも注意されましたわ」
「目が合っただけで赤子が出来るそうよ」
「きゃあああ恐ろしい!」
全部聞こえている。
アショーカはたまらず、キッと後ろの女達を睨み付けた。
その途端「きゃああああ!!!」という悲鳴が上がり、女達がヴェールを引っ張って一斉に目を隠した。
まるで痴漢のような扱いだ。
そんなに恐ろしいなら近付かなければいいのに、珍しい来客に、入れ替わり立ち替わり、四六時中覗きにやってくる。
「おい、ヒジム!
あの女達を二度とここに近付けない程度に脅してこい!」
アショーカは、長い黒髪を頭上に束ねた、背の高い少女のような容姿の側近に命じた。
壁際に背をもたせ、さっきから愉快そうにニヤニヤしている。
「嫌だよ、自分ですれば?
サヒンダの妹君達だよ?
僕の方が身分は下だし出来ないよ」
そう。
ここはサヒンダの実家の城だった。
王宮の近くに城を持ち、代々多くの最高顧問官を輩出する名家だった。
引退した父が屋敷を守り、長子のルヒンダはビンドゥサーラ王の側近として仕えている。
「あいつは俺の事を家族にどのように話しているのだ!
目が合っただけで子供など出来る訳がないだろう!
だいたい無類の女好きとは嘘もいいところだ!」
「その年で妻が三人もいる男が言っても説得力ないよね」
なぜサヒンダの城にいるかと言うと、三日前にさかのぼる。
パータリプトラについたその足で西宮殿のミカエルの城に入ったアショーカは、少しやつれてはいたものの、一時よりは回復して起き上がれる程度になっていたカールヴァキーに安心した。
しかしそれと同時に、アショーカが暮らしていた本殿にビンドゥサーラ王が居座ってしまっている事を聞いて、顔を合わせる前に王宮を出て、近くのサヒンダの城に身を寄せる事にしたのだ。
ビンドゥサーラ王は自分がいないのをいいことに、母ミカエルの元に通いつめ、ついには西宮殿に住み着いてしまったらしい。
おまけに妻子の警備に残していたアショーカの騎士団も、いつの間にか解散されて、追い払われていた。
もともと王宮はすべて王の持ち物ゆえ文句を言う事も出来ず、アショーカ達が追い出される形になってしまったのだ。
行き場を無くした騎士団達は、大半がこのサヒンダの城に泣きついて滞留していた。
その知らせとアショーカの到着が入れ違いになってしまったらしい。
王に解雇された騎士団達は突然現れた主君の姿に涙を流して喜んだが、アショーカは思うように見舞いにも行けず、どんどん過ぎ行く日々に、全力で不機嫌だった。
ミトラの事はアッサカから五日遅れぐらいで報告が届いているが、おそらくは今頃パータリプトラに向かって出発しているはずだ。
東回りの街道らしいので、一人ミトラの元へ向かったイスラーフィルは西の街道からずっと追いかけて行く事になる。
下手をすればパータリプトラでようやく追いつくぐらいかもしれない。
東回りの街道ならばパータリプトラには十日ぐらいで到着するだろう。
しかしサヒンダの実家に居候の身としてはミトラを連れてくるわけにもいかない。
ましてミトラが西宮殿のビンドゥサーラ王に見つかれば、どのような政治的思惑に利用されるかわからない。
今しばらくスシーマに預ける以外方法がなかった。
一刻も早くミトラを奪い返してタキシラに戻るのが一番いいが、その前に解決しなければならない問題が持ち上がっていた。
それは、アショーカが一番苦手な類の問題で、考えただけで気が重くなる。
ずっと避けてきたが、今度こそは覚悟を決めて対峙せねばならぬ事……。
「しかし、あのクソ親父め。
まだ母上に執心しておったか。エロじじいめ」
「なんだかんだ言ってビンドゥサーラ王は昔からミカエル様にベタ惚れだからね。
だから問題児のアショーカだって殺されずに済んでるんでしょ?
ミカエル様の息子じゃなかったら、とっくに死罪か牢にいれられてるよ」
「ふん。愚王のくせに女の趣味だけはいい」
「でも西宮殿に近付けないのは痛いね。
早くなんとかしないと、カールヴァキー様の命が危ない。
今度こそ覚悟を決めてよね、アショーカ!」
ヒジムは念を押す。
「分かってる。
カールヴァキーに危害を加えるならば、さすがに黙ってはおけぬ。
かわいそうだが、しかるべき対応をせねばならぬ」
「かわいそうなんて言ってる場合じゃないでしょ?
ほんと女に甘いんだから」
「分かった、分かった」
アショーカがすくっと立ち上がると、途端に「きゃあああ!」という悲鳴が上がった。
そうだったと部屋の外を睨みつけると、女達がヴェールの前に両手を重ねて顔を隠していた。
本気で子供が出来ると思っているらしい。
「こらっ!! お前達、こんな所で何をしている!
王子様に失礼であろう!」
その時、廊下から叱責がとび、女達がクモの子を散らすように逃げていった。
「これは失礼を致しました、アショーカ王子。
我が妹達が粗相を致しましたか?」
入ってきたのはサヒンダによく似たカーキ色の瞳の、腰までの灰色の髪を背で束ねた青年だった。
長子ルヒンダだ。
サヒンダより五才ほど年上だったはずだ。
「いや、突然転がり込んで来たのは俺の方だ。気にせずともよい」
あれだけ腹を立ててても結局女に甘いのだとヒジムは肩をすくめた。
「恐れ入ります。
……して、我が愚弟の方は王子様のお役に立っておりますか?
あれは腹を立てると、少々口が悪くなるゆえ心配致しております」
「うむ。少々ではないぞ。
罵詈雑言を浴びせられる日々だ」
ルヒンダが青ざめる。
「さ、さようでございましたか。
書簡にてきつく注意しておきます」
神妙に頭を下げた。
「やめてくれ。
そんな事をされたら恐ろしくてタキシラに帰れなくなる」
「なんというご無礼を……」
呆気にとられるルヒンダに、ヒジムは腹を抱えて笑っている。
「それで、くそ親父のスケジュールは分かったか?」
王の側近であるルヒンダに当面の公式の予定を調べてもらっていた。
「はい。ホーリーの祭りに参加されるため七日後にヴァラナシへ出発される予定でございます。
滞在期間は三日。
それ以外は午前の会議の後は西宮殿で過ごされるものと思われます」
「ホーリーか。もうそんな時期であったか」
春の訪れを寿ぐ大きな祭りだ。
三月の満月の日に行われる。
お互いに色粉を付けあって騒ぐ、春を感じる色鮮やかな祭りだった。
「よし。その三日ですべて片付けるぞ。
ルヒンダ殿、王宮の近くの森で廃墟になっている城はないか?」
アショーカに尋ねられ、ルヒンダはしばし考えこんだ。
「ビハールの森の中に焼き煉瓦のバラモン僧の僧院だった建物がありますが…」
「ではそこを七日で綺麗に修復して人が住めるようにしてくれ。
なるべく不便の無いよう整えろ。金に糸目はつけぬ。
ヒマにしている俺の騎士団を使ってくれていいぞ」
「西宮殿に住めぬゆえ、そちらに居を移されるつもりでございますか?」
「まあそんな所だ。
俺が快適に過ごせるぐらいには整えてくれ」
「この城にいて下さって構いませんよ。
いつでも歓迎致します」
「いつもという訳にもいかぬだろう。
まあ、とりあえず頼んだ」
「は、はい。畏まりました」
本来ビンドゥサーラ王の側近であるルヒンダは、敵対してもおかしくない立場であったが、重大な機密に該当しない情報と、出来る限りの支援を約束してくれた。
ルヒンダは、昔から、やんちゃな弟のようなアショーカが気に入っていた。
長子でなければ、本当はアショーカのような主君に仕えたかったと今でも残念だった。
主君に振り回されている弟が、時に気の毒で、時に羨ましくてたまらなかったのだ。
だから、ほんのひと時、手足となって働くのが嬉しかった。
無茶で面倒な頼み事も、この王子のためなら少しも苦にならないのが不思議だった。
次話タイトルは「ビンベトカの岩絵」です




