3、スシーマ王子のお召し
スシーマ一行は、翌日ウッジャインの民の見送りを受けながら、長い行列を作ってパータリプトラへと旅立った。
途中の城下の大通りでアショーカの側室デビの父親、商人ボパルが元気そうに手を振っているのが見えたが、大衆に紛れて会話を交わす事も出来ないのがミトラは残念だった。
マンドサウル前太守に捕えられていたが、無事助けられたとは聞いていた。
だが、直接無事な姿を見られたのは嬉しかった。
シェイハンの元マギ大官は精神を病み、話せる状態ではないと、会う事は叶わなかった。
医療院で療養させているらしいが、回復は難しいだろうとの診立てだ。
スシーマは先だっての混乱の中、直接話したらしいが、支離滅裂で話すほどの事はなかったと、ミトラに何も伝える事は無かった。
ミトラ自身もさほど聞きたいとも思っていなかった。
正確には、聞きたくなかった。
ソーマを飲んだ後の事は正直、何も覚えていない。
その間にミトラが示した奇跡は、自分の意志ではない。
自分を乗っ取られたような恐ろしさがミトラを戦慄させた。
もう二度と、アショーカの忠告通りソーマは飲まないし、スシーマの言う通り全知全能になどなるつもりはない。
そんな不安定な奇跡で国を治めてはならない。
それが前聖大師様の命懸けの教訓のように思えるのだ。
一行は、東周りの街道を進み、ボパールを経てヴィンドヤ山の南を迂回してヴァラナシへと向かう事になった。
せっかくなので鉄鉱石の鉱山の視察とビンベトカの岩絵を観光して、聖地ヴァラナシの寺院に立ち寄りながらの旅となった。
◇ ◇
「スシーマ王子め。
堅物と聞いていたが、存外好色な男だったのだな」
ナルマダは従者ナギと共に父が用意した豪華な馬車に乗って行列の後列についた。
スシーマ王子は行列の真ん中に位置する、ゲル馬車と呼ばれる大きな円柱状の馬車にいると聞いた。
話し相手にと請われたはずなのに、一日目は呼ばれる事も無く終わってしまった。
怪訝に思っていたナルマダは、夜になってからのゲル馬車へのお召しにすべてを悟った。
宦官のナギはアヴァンティ王から渡されていた煌びやかな赤いサリーとヴェールを着付け、額と腕と胸元を大粒の宝石で飾り立てた。
「アヴァンティ国の姫を遊び女のごとく旅に同行させるとは傲慢な」
悔しそうに唇を噛みしめナルマダは俯いた。
その手が震えている。
怒りもあるだろうが、気は強くとも十七の少女だ。
怖いのだ。
「大丈夫でございますか? ナルマダ様」
ナギはいたわるように、その手をとった。
「娼婦にすらなる覚悟だったのだ。
王子の遊び女ぐらいどうって事はない。
でも、キスなどしなければ良かった。
ふしだらの噂がたてば、もう縁談の話など無くなって、そなたと静かに暮らせると思ったのに……。
考えが甘かった」
王子相手はやりすぎだった。
危うくナギは手打ちにされる所だったのだ。
そう考えれば、この身を捧げる事で助かるのならよしとしなければ仕方ない。
「このまま二人で逃げようか……」
ナルマダは熱い目でナギを見下ろす。
しかし、ナギの答えはいつも決まっていた。
「私は宦官。姫様を幸せにする事も出来ません。
この身のすべてはあなた様に捧げますが、あなた様の尊き身は、私ごときに委ねてはなりません」
すべてを悟った穏やかな黒目は、若くして白髪になるほどの苦労にも負けなかった証のように澄んでいる。
「宦官だから何だと言うのだ。
私はそなたさえいれば他に何もいらぬのに」
ナルマダの熱いラブコールは、いつもさらりとかわされてしまう。
「さあ参りましょう。スシーマ王子がお待ちです。
むっつりスケベかもしれませんが、見た所噂通り麗しく聡明そうな王子でございました。
ナルマダ様にお似合いでございます」
ふくれっ面のままスシーマ王子のいるゲル馬車に向かうと、外で側近がニコニコと待ち構えていた。
その姿にぎょっとした。
そういえば昨日も王子の側にいたような気がする。
飾りターバンか何かかと思っていたが、それは間近で見ると、紛れもなく蛇だ。
「な、な、蛇……蛇が……!」
ナルマダは思わず蛇を指差した。
頭の蛇達は「失礼な!」とでも言いたそうに、シャーッと舌を出して威嚇する。
「きゃああ!」
ナルマダは思わずそばのナギに抱きついた。
「こら! ヴリトラ、マナヒー、姫を驚かしてはダメだろう!」
側近は三日月の目を細めたまま蛇に注意すると「すみません」と丁寧に頭を下げた。
頭の蛇にはペットのごとく名前まであるようだ。
これが側近中の側近とは、スシーマ王子とは噂に聞くより変人らしい。
ナルマダは深呼吸すると、覚悟を決めて側近の勧めるままにゲルに上った。
俯いたまま入り口の厚手の垂れ布の中に進み出ると、深々とひれ伏す。
「こ、此度はお召し頂き恐悦至極にございます。
今宵は誠心誠意仕えさせて頂きます」
むかつくけれど、体の震えが止まらない。
弱みなど見せたくないのに怖くてたまらない。
振り向いてナギの胸に駆け込んで逃げ出したい。
しかし、緊張に震えるナルマダに掛けられたのは、ことのほか明るい声だった。
「そう畏まらずともよい。
こちらへ来て座れ。従者も共に入ってよいぞ」
「え?!」
まさか従者の前で情事を行う趣味かと青ざめたナルマダは、顔を上げて中の様子に驚いた。
王子だけでなく、もう一人小柄な姫と、その従者と思われる今しがた人を殺してきたに違いないという目付きの男がいる。
「まさか……乱交趣味が……」
覚悟していただけに、そこから離れられない。
「ははは。夜に呼び出したから勘違いさせたようだな。
昼はこちらの姫と話があったため時間がとれず失礼した。
アヴァンティ王の姫君を手篭めにする事はないゆえ安心するがよいぞ」
「そ、そうでございましたか…」
ナルマダは一気に緊張が解けて脱力した。
背後からは、さっきの蛇男と共にナギがゲルの中に招き入れられてきた。
「実はそなたを気に入って旅の話し相手に所望したのは私ではない。
こちらの姫君だ」
スシーマ王子は目の前に座る、小柄なヴェールの姫を手の平で示した。
「姫君が?」
そういえば忘れていたが、若い翠目の姫だった。
「今朝のアヴァンティ王の様子から見て、こちらが翠目の姫だとは告げておらぬようだが、そなたは口の堅い姫と信じてよいだろうか?」
「え?」
別に意図があって黙ってた訳ではない。
それ所ではなかっただけだ。
「伝者の話によると、危うくそちらの従者が手打ちにされる所だったらしいな」
スシーマはチラリと白髪の男を見た。
聡い王子にすべて見通されている気がする。
「そちらの従者を救ったのは、この姫だ。
手打ちとまでは思ってなかったが、そなたの身を案じて旅への同行を願ったのは、この姫の懇願があっての事だ。恩義を感じてくれるかな」
「わ、私に何をせよと……」
きな臭い雰囲気に再び緊張が高まる。
「簡単な事だ。こちらの姫の正体を黙っていて欲しい」
「正体……」
ごくりとナルマダは唾を飲み込んだ。
「否か応か? すぐに答えよ」
優しげに問いかけながら断ったら切り捨てられそうな迫力だ。
「決して口外致しませぬ」
ナルマダの額に冷や汗が流れた。
「そちらの従者は?」
ナギはすぐさまひれ伏した。
「ナルマダ様の仰せのままに」
スシーマ王子は納得したように頷いた。
これが大国の王子の威厳かとナルマダは息を呑む。
「ではミトラ、ヴェールをはずすがいい」
スシーマ王子の了解を得て小柄な姫がヴェールを外した。
「あ!」
ナルマダの口から驚きの声が洩れる。
月色の直毛、深い深い翠の瞳…。
日を浴びた事もないような透明な肌。
噂に聞いた事がある。
この珍しい容姿は……。
「シェイハンのアサンディーミトラです。ナルマダ殿」
その声は鼻にかかるハスキーな低音なのに、甘く心地いい。
「シェイハンの……。
確か一度婚約されて破棄されたと伺いましたが…」
もはやヒンドゥで知らない姫などいない。
「婚約は一旦解消しているが、私は諦めた訳ではない。
今は事情があって、パータリプトラへご同行願っている。
別に後ろめたい事もないのだが、姫の素性がバレると外野がうるさいのでな。
刺客もゾロゾロついてくる。
なるべく秘密にしていたいのだ」
確かに、この姫がシェイハンの姫だと知っていたら、我が父など刺客を送り込んでもおかしくなかったとナルマダは理解出来た。
「しかし、そのような秘密をアヴァンティ国の私になぜ……?」
「私もそう申したのだが、ミトラがいたくそなたを気に入ってな。
話がしたいと申すのだ。
ミトラは同年代の姫君とあまり話した事がないゆえ、珍しいのであろう」
どうやらスシーマ王子はこの姫に弱いらしいと、すぐに分かった。
「それにそなたは父君と違って、私との結婚を望んでおられぬのだろう?」
ナルマダは、はっとして、どこまでも見透かしている聡い王子を見つめた。
「私としては、そういう姫の方が信用出来る」
確かにこのヒンドゥで、スシーマ王子との結婚を望まぬ姫君を探す方が大変だろう。
「この一行にはコーサラのユリも後方についてきているが、ミトラの話し相手ならば、そなたの方が適任と思ったのだが、どうであろうか?」
コーサラのユリ姫がスシーマ王子に執心しているのも有名な話だ。
「私ごときでよろしければ、喜んで姫のお側にはべらせて頂きます」
娼婦になるより、スシーマ王子の遊び女になるより、一番いいに決まっている。
ナルマダは即効で受け入れた。
次話タイトルは「パータリプトラのアショーカ王子」です




