15、伝説のシュードラ アッサカ
「何者だ!」
アショーカは跳ね飛んだ体を瞬時に立て直し、面白がっていた従者達が王子を庇うように前に立ちはだかった。
気安い友人から従順な側近へと態度を変える。
気付くと、床に倒されたままのミトラを守るように兵士が立ちふさがっていた。
「シュードラの兵士だな?
王子と知っての無礼かっ!!」
血統の良さそうなサヒンダが断じる。
「……」
兵士は黙ったまま四人を睨み付ける。
背中を向けていても恐ろしいほどの殺気だ。
「切り捨てろ」
アショーカが静かに命令すると、三人の従者はスラリと剣を引き抜いた。
兵士の腰には剣はない。
勝ち目などないはずなのに何故か負けるとは思えない。
トムデクが振り下ろす大剣を、器用にかわしたと思うと、もうその背後にまわっていた。
肘で思いっきり打ちつけられた右手から大剣が落ちる。
さっとその剣を拾うと、切りかかるサヒンダの剣を受け止めた。
大柄なトムデクしか扱い難いはずの大剣を難なく使いこなし、剣舞のように優雅なサヒンダと打ち合う。
サヒンダの生真面目に指南通りの剣は、しかし、武と力に勝る兵士の剣に徐々に形勢を悪くさせ、二十手を越えた所で跳ね上げられた。
待ってましたと切りかかるヒジムに、疲れた様子もなく兵士は剣を重ねる。
身軽なヒジムは、女とは思えぬ剣さばきで前後左右に切り込む。
速い。
しかし兵士は確実にその剣を受け止め、ヒジムを追い込んでいく。
「つ、強い……。
なんだこのシュードラ……」
アショーカの顔に驚きが広がる。
「ヒジム下がれ、俺が相手をする」
アショーカが、スラリと剣を抜いて前に出た。
強いと分かった相手に、従者を引かせて王子自ら出てくるなど、まともな王子ではない。
(本物のバカ王子だな……)
ミトラでさえ、そう思った。
兵士が一歩下がって剣を構え直す。
アショーカと兵士は正面から睨み合った。
その時になって、ようやくミトラは燭台の灯りに照らされた兵士の顔を見る事が出来た。
カアンッッ!!
剣のぶつかる音が部屋中に響き、火花が刹那の光を放つ。
並々ならぬ腕力が、拮抗して重なり合っている。
一見静止しているだけに見える交差する剣に、想像を絶する力が凝縮されている。
二人の男の腕に浮き出る血管がそれを物語っている。
この一撃だけでシュードラの兵士は悟った。
(この王子には勝てない……)
力と技と速さ。
それぞれは、三人の側近が上かもしれない。
だが生死を賭けたなら、きっと誰も勝てない。
命知らずの武神の気配が漂う。
命を惜しむ弱さと隙が微塵も無い。
人生で初めて、負ける予感が頭をよぎる。
刃先を重ねたまま二人は睨み合った。
どちらも引かず均衡を保った剣が真ん中でずっと重なり合っている。
そして、その射殺すような鋭い眼光にミトラは確信した。
「レオン!」
兵士の体がギクリと揺れて、均衡が崩れる。
アショーカの剣がレオンの体を押し沈めていく。
「やめろ! アショーカ王子! レオンを殺したら許さぬ!」
ミトラは出る限りの大声で叫んだ。
「……」
兵士から殺気が消えていくのを見て、アショーカはゆっくり剣を下ろした。
「レオン、無事だったのだな!」
ミトラが駆け寄って、その肩に触れようとした途端、レオンはさっと飛びのいて床にひれ伏した。
「レオン?」
「私のような罪深き者に、その尊いお手を触れてはいけません」
ミトラは驚いた。
「レオン、話せるのか?」
単語を話す所しか聞いた事がなかったのに……。
はっと気付く。
「まさか……。そなたも……導師殿と同じ……」
騙していたのか……?
ミトラの声にならぬ問いに、レオンは更に額を床になすりつけた。
「お許し下さい。
この任務を終えればクシャトリアの階級を頂けると言われ……」
「嘘だろう……レオン?
そなたはいつも命がけで私を守ってくれたではないか。
全部全部私を信じさせるための芝居だったと?
そんな……まさか……」
ミトラはガクリと床に座り込んだ。
「どうかどうかお許しを。
計画の全容を知った時には、もうどうにも出来ず……。
されど……されど、どうかこれだけは信じて下さい。
もしもミトラ様に危害を加えるような命令であれば、私はすべてを捨てて逆らうつもりでいました。
あなた様をしかるべき待遇でこの国に迎えるというラーダグプタ様の言葉を信じて……。 ただそれだけを信じて……」
「それで、どうしてまだシュードラの兵士の服を着てるのだ?」
考え込むように腕を組んで尋ねたのはアショーカだった。
レオンの背中が怒りに震える。
「約束など知らぬと言われました……。
最初からシュードラとの約束など果たすつもりなど……うう……」
怒りを堪えているのか泣いているのか分からない。
「ふん、あの腐れ親父の考えそうな事だ。
あのバラモン狂いのじじいがシュードラの願いなど叶えると思ったのか?
たわけ者が!」
吐き捨てるように憤る。
「そればかりか、任務の間、私の家族を保護すると約束したのに……私の母は飢えて死に、妹達は手篭めにされて打ち捨てられ、弟は行方知れず……もはや守るものもなく……」
「あのじじい……」
ぎりりとアショーカが歯噛みをした。
「この先はミトラ様のためにこの愚かな命を捧げたいと思い、恥をしのんで戻ってきてしまいました。
どうかミトラ様のお気の済むようにこの身を……」
レオンはもう一度深くひれ伏した。
ミトラはため息と共にレオンに一瞥をくれた。
「ならばレオン、そなたに命ずる。
私を殺してくれ。
この身をこの国に置くことは出来ぬ」
ミトラの命令にレオンは顔を上げ、目を見開いた。
おそらく最悪の命令なのだろう。
「ど、どうかそれだけはお許し下さい。それだけは……」
息詰まる沈黙が続いた後、口を開いたのはアショーカだった。
「お前、本当の名はなんという?」
問いかけられ、レオンは青ざめた。
答えようとしないレオンに畳み掛けるようにアショーカは続けた。
「アッサカだな。聞いた事がある。
並外れた剣の腕を持つシュードラの兵士」
「あ……」
先日の衛兵が噂していた伝説の剣士。
シュードラの希望だと言っていた。
てっきり西方の武官の職についているものと信じられていたのに。
「そなた、俺がクシャトリアにしてやろう」
アショーカの言葉に、アッサカは驚いて顔を上げた。
「されど、すぐには無理だ。
今は、あのくそ親父がダルマ(法)を握っている。
俺が王位を奪い、この国のダルマを変えてやる。
だから今は俺の部下になれ。
表向きはシュードラだが、俺の部下は才能ある剣士には騎士を名乗らせている。
俺が作った俺の宮殿の階級だ」
なんて途方もない事を言い出すのかとミトラは思った。
「そなた長子ではないのだろう?
たとえ王が死んでも王位を継ぐのはスシーマ王子ではないのか?」
自分とさほど年も変わらぬバカ王子の戯言だ。
「ならばスシーマを殺す。そうすれば俺が王位継承者だ」
当然のように答える。
「き、兄弟を殺すのか? 血を分けた兄上だろう?」
その発想についていけない。
「そんなものこの国では珍しくもない。
あのじじいの血が通う者などわが身ですら殺したいほどなのに何を躊躇う必要があるか! 兄弟など皆殺しにしてやるわ!」
国が違うと、こうまで思想が違うものなのか。
ミトラには一生理解出来そうにない。
「レオン、いやアッサカ。
このような残酷なバカ王子の部下になどなるな」
ミトラは心を動かされているアッサカを諭す。
しかし更にアショーカは続けた。
「アッサカ。
最初の任務はこの巫女姫を目立たぬように警護する事だ。
放っておけば、この姫は誰彼なく殺してくれと頼むぞ!
この女はお前に殺してくれと命じた。
俺はこの女を決して死なせるなと命じる。
さあ、どっちの部下になる?」
アッサカの心は決まった。
「申し訳ございませんミトラ様……」
「そうと決まれば俺の騎士の制服を与えよう。
食事と寝所もちゃんとあるぞ。
トムデク、ヒジム、しばしこの女を見張っておれ」
言うが早いか、アショーカはアッサカとサヒンダを連れて行ってしまった。
驚くほどのせっかち。
即断即決の男だ。
「なんという無鉄砲な……破天荒な王子だ……」
ミトラの呟きにトムデクとヒジムが笑った。
「この国の王子はみな、あのようなのか?」
ミトラの問いに二人の顔が曇る。
「ふん、他の王子はみなビンドゥサーラ王のバラモン風に吹かれた、つまらぬ王子ばかりだ」
顔に似合わず口の悪いヒジムが答えた。
「やはりバラモン教徒が多いのか?」
確かその司教の血筋が、階級制度の最上位と聞いた。
「前王のチャンドラグプタ王はジャイナの信徒で他の宗教にも寛容だったんだ。
それなのにあの腐れビンドゥサーラ王の治世になってから、バラモン以外はどんどん肩身が狭くなっていく。
いずれ各地で反乱が起きるだろうさ」
頭の上で束ねた美しい黒髪が腰で跳ねている。
妖艶な色気とイタズラ好きの少年が混在したような小悪魔を醸す少女。
「ビンドゥサーラ王だってシュードラの血を引いてるのにね」
トムデクは大柄の上、顔が異常に大きい。
華奢なヒジムの三倍はあるように見えた。
チリチリのくせ毛が頭に兜のように張り付いているのも原因だろう。
獰猛な黒牛のような顔立ちのくせに口調は穏やかだ。
「王はシュードラの血を引いているのか?」
最下位の奴隷階級だ。
「父王のチャンドラグプタ様はシュードラの母から生まれたんだ。
だから本当はバラモン特有の白肌ではなくて浅黒い肌なんだよ」
不気味に白い王の肌を思い出す。
そういえば舌なめずりした肌が剥げて、浅黒い肌が見えていた。
「一日中、女達に白粉をはたかせて過ごしているのさ。
気味の悪いじじいだ」
「バラモンの白肌の女ばかりを側室にして、自分に似た浅黒い肌の子供が生まれたら即座に殺すらしいよ。ひどいよね」
二人は口々に王を詰る。
「でもアショーカ王子は……」
色濃くはないが、浅焼けた肌だ。
「そうさ。
白肌以外で生き残っている王子はアショーカだけさ。
アショーカの母上はシリアの王女だから、さすがに殺せなかったのさ」
「だからあれほど聡明で剣技にも優れたアショーカを毛嫌いしているんだ」
「本来なら正妃の皇子であるアショーカが皇太子殿下になるはずなのにさ」
「なるほどな。されど聡明?
あのバカ王子がか?」
「無茶苦茶な所も多いけど、アショーカは算術の天才だよ。
それにミカエル王妃から西方の学問を教わり、天文学や政治にも明るい。
バカ王子呼ばわりは失礼なんだよ」
ヒジムはトムデクの言葉を聞いて、思い出したようにくくっと笑った。
「でも、女。
あのアショーカに、好き放題に毒ずく様はなかなか小気味が良かった。
女はあまり好きじゃないが、お前は悪くない」
それはヒジムにとっては最上級の褒め言葉らしかった。
次話タイトルは「皇太子スシーマ」です




