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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第五章 パータリプトラ 後宮編
149/222

1、アヴァンティ国のナルマダ姫

 これまでのあらすじ


 シェイハン国の巫女姫としてミスラ神の加護を持つミトラは、インドの大国マガダに侵略され人質となり、王子の一人の妃となる事を命じられた。

自死を禁じられた身で、死に行く道を探す中、アショーカとスシーマという二人の王子と出会い少しずつ心を開くようになったミトラだったが、ミスラの神によって恋愛を封じられ、二人の王子の求婚に戸惑う日々を過ごしていた。

やがてアショーカ王子と共にシリアの立太子式典に行く事を決めたが、ミトラを案じるスシーマによってウッジャインに拉致される。

そこで事件に巻き込まれ封印されていた聖大師の力を目覚めさせた。

謎の遊牧民ウソンを第五のマギに任命し、侍女を生き返らせたミトラだったが、平常に戻った時にはその力も記憶も亡くしてしまっていた。

ミトラを危険に晒してしまった事を深く悔いたスシーマ王子は、ミトラの望み通りアショーカの元に返そうとするが、アショーカは側室の一人が危篤と聞いてパータリプトラの王宮に向かっていた。

そうしてミトラはスシーマ王子と共にパータリプトラの王宮に向かう事になったのだった。



「ナルマダ、準備は出来たか?

 スシーマ王子は明日にはパータリプトラへ発たれるらしい」


 ウッジャインの太守宮殿では、この地を治める部族王アヴァンティが朝から娘ナルマダを急かしていた。


 マウリヤ朝の古代インドに君臨したマガダ国の王家。

 当時のインドは古代の王国によく見られる絶対君主制ではなく、いわゆる共和国制の様相を強く持っていた。


 大小多数の部族国があって、それぞれ王がいた。

 マガダ国王がそれらの王を傘下に治める、部族王制と呼ぶのが正しいかもしれない。


 主要な都市にはマガダ国から派遣された太守の宮殿があり、その周辺国を統治していたが、それぞれの国には独自の統治機構があり、そこにマガダ王が介入する事はほとんど無かった。


「まったく……。こんなに早く解決してしまうとは想定外だった。

 もっと手こずって、私の手助けで恩を売るはずだったというに」


 マウリヤ朝の最高顧問官の一人に名を連ねるアヴァンティ王が、ウッジャイン太守、マンドサウルの行っていた悪事に気付かぬはずは無く、むしろおいしい汁を分け合っていたと考えた方が自然だろう。

 だから上奏が上がっても知らぬフリをしてきた。


「本当は我が宮殿に呼んで、宴会の席でそなたを紹介したかったが、仕方があるまい。

 太守宮殿の顧問官に庭園に誘い出させたゆえ、そなたも偶然を装って庭園に出向くのだ」


 ここにきて正義感の強い皇太子が調べると言い出した時、面倒な事を言い出したと煙たく感じたのは確かだ。

 されど、アヴァンティ王が賛同したのには二つの理由があった。


 一つは、最近増長してきたマンドサウルが目障りだった事。

 一つは、いずれ我が娘を嫁がせようと画策している皇太子に、手柄を立てさせてやるにちょうど良い程度の事案であった事。


 スシーマ王子がウッジャインに入る前には、自分が関わっていた証拠になるものはすべて消し去った。

 後はせいぜい手助けをして恩を売るだけだ。

 計算違いだったのは、自分が恩を売るヒマもないままに、解決してしまった事だ。

 娘を目合わす席を設ける前に、すべてが終わり、パータリプトラへの出発の日時まで決まってしまっていた。


「王子はみどり目の女が好みと聞きましたわ。

 私のこの青い目は好みに合いますかしら」


「翠も青も大して違わんだろう。

 大事なのは色気だ。

 男を陥落させる技は、宦官かんがん達からよく教わったのだろう。

 ここがお前の正念場だぞ。あらゆる手を尽くせ!」


 思っていたよりもずっと聡い皇太子と婚姻関係を結べるかどうかは、今後の自分の立場を大きく左右するに違いない。

 水面下で各部族王の苛烈な駆け引きは、すでに始まっていた。


 コーサラ王が秘蔵の美姫、ユリをウッジャインにまで送り出したのも相当な覚悟だろう。

 敵対国にとられてしまったら、これほど目障りな王子もいないのだ。

 王たるものは現ビンドゥサーラ王のごとく愚鈍なぐらいが丁度いい。


 アヴァンティ王は、清楚な濃紺のサリーを纏う娘に手はずを説明する。

 ナルマダと呼ばれた姫は、ため息を一つついて諦めたように立ち上がった。


「男を陥落させる技ですわね。

 ええ。王国の誰にも負けませんわ。お任せ下さい」

 ヴェールの隙間から覗く勝気な青い目を上げて、ナルマダは颯爽と庭園に向かった。


 ◆    ◆


 果樹がたわわに実る庭園には、薄く水を張った池が階段状に流れ、白蓮の花がまだらに咲き誇っている。

 両脇には原色の花々が色を競い、孔雀と鸚鵡おうむが更なる色を添える。

 腰掛けを配した東屋あずまやは見晴らしが良く、遠くヴィンドヤ山が空を横断している。


「あれが噂に聞くヴィンドヤ山か。さほど高い山ではないのだな」

 ミトラは東屋の木陰から雄大な景色を堪能していた。


「あの山からは多くの良質の鉄鉱石がとれる。

 アヴァンティ国が強国なのは鉄製品を量産出来る、あの山あってこそだ。

 マガダにとっても重要な土地なのだ」

 スシーマは白の更紗さらさに、黒のキトンを肩掛けにして風を受けている。


 ミトラは巫女姫だとバレぬように、あえて白を避けて薄緑のサリーを着付けられた。

 先日の騒動で数人にはバレてしまったが、そのほとんどは捕えられ牢に入っている。

 その他のスシーマの弟パトナやユリとその従者達には厳しい緘口令かんこうれいをしいてはいるが、噂が広まるのも時間の問題だろう。

 一刻も早くこの城を出るに限る。


 本当はアショーカの迎えを待って、タキシラに返すつもりでいたスシーマだったが、アショーカが急遽パータリプトラに向かってしまったため、当初の予定通り、共にパータリプトラに向かう事にした。


 ミトラだけをタキシラに返すのは危険が多く、もう一度送って行くほど、スシーマはヒマな王子ではなかった。


 ミトラは幾度となく懇願した言葉を再び告げてみる。


「やはり私はここに残り、ソルの回復を待って、共にタキシラに戻ってはダメでしょうか」


 ソルは死地で大量に失った血がなかなか元に戻らず、この地でもう少し療養してからタキシラに戻る事になっている。一人置いて行くのが心配だった。


「残念ながらそれは出来ぬ。

 もう充分身に滲みているはずだろうが、そなたは多くの刺客に狙われている。

 王子レベルの護衛なくして行動するは自殺行為だ」


「アッサカがいます。充分用心すれば……」


「タキシラの主力の隠密も、アショーカと共にパータリプトラに向かっている。

 おそらくは、あいつもミトラがパータリプトラに来るものと思って向かったはずだ」

 スシーマはミトラの言葉を遮り畳み掛ける。


 しかしミトラは俯いた。

「……そうでしょうか……」

 自信なげに呟く。


 後から受けた報告によれば、アショーカの側室、カールヴァキーが危篤と聞いて、パータリプトラに向かったらしい。


 それは当然の選択だ。


 いまだ容態の分からぬカールヴァキーの事はミトラも心配だった。

 あの可憐ではかなげな姫が重大な病になったなら何をおいても駆けつけて当然だ。

 そんな事は充分分かっているし、不満を持つつもりもない。


 ただ、迎えに来ないという事実だけが、理屈抜きに寂しかった。


 アッサカはミトラを迎えに来るつもりで必死で公務をこなしていたのだと言ってくれたが、それはミトラを慰めるためのこじつけにしか思えなかった。


 自分の元に向かうためにこれほどの日数がかかったのに、カールヴァキーの為には速攻で動いた。

 それが紛れもない事実であり、現実なのだ。

 自分は妻ではない。

 アショーカを動かす何の権利もないのだ。


 重病のカールヴァキーに対して不謹慎だと思いつつも、無性に羨ましかった。


「妻というのは……結婚するというのは……その地位に就くと同時に、相手に対してもいくらかの権利を得るという事なのですね」

 ミトラは知らず言葉に出していた。


「アショーカを繋ぎとめる権利が欲しいか?」

 スシーマの問いにミトラは考え込む。


「アショーカを繋ぎとめる権利……」


 自分はそれを望んでいるのか……?


「いいえ。私は確かにアショーカと繋がっていたいと思うけれど、それは縛り付けておきたい訳ではない。 

 私は並び立つ者に、必要な者になりたいのです」

 サヒンダ達のように……。


 スシーマはふっと笑った。


 恋というにはまだまだ幼く、翠の封印は固く閉ざされている。

 それでもこの翠の瞳をかげらすアショーカにたまらなく嫉妬する。

 どうすれば自分だけを見てくれるようになるのか。

 どうすればこの瞳を独り占め出来るのか。



「これは、スシーマ王子ではございませんか?」


 唐突に掛けられた声にスシーマとミトラは、はっと顔を上げた。


 突然現れた一団に、少し離れた所にいたアッサカとナーガ達スシーマの側近が、あわてて近付いてきて二人の周りを固める。


 従者を伴う十人ばかりの集団だ。


「アヴァンティ殿。ウッジャインにおいででしたか?」

 スシーマは気付いて、言葉を返す。


 一年のほとんどを最高顧問官として王宮で暮らしていたはずなのに珍しい。


「こたび娘が十七になりまして、たまには誕生日を共に祝ってやろうと戻っておりました。

 おお、ナルマダ。スシーマ王子にお会いするは初めてだったか。ご挨拶せよ」

 アヴァンティはいかにも偶然という口調で娘を紹介した。


「アヴァンティ王が長女、ナルマダでございます。

 お初にお目にかかります」

 濃紺のヴェールから覗く青い瞳は奥行きの深い神秘的な色をしている。


「十七の姫がおられたか。

 秘境の湖のような美しい瞳をしておられる」

 スシーマは慣れたふうに美辞麗句を並べ挨拶を返した。


 アヴァンティ王は満足気に頷いた後、隣りのミトラに目を止めた。


「これは、姫君と散策中でございましたか。失礼を致しました。

 ……して、こちらはどちらの姫でございますかな?」

 油断のない目で値踏みする。


「所用のため同行願った姫だ。

 公式の訪問ではないゆえ名は伏せている」

 ミトラはヴェールを深く被り直し、目を伏せる。

 翠目が少ないヒンドゥでは、それだけで素性がばれてしまうと聞いていた。


「お忍びの姫とは、これはスシーマ王子も隅に置けませんな」

 にやにやと軽口をたたいているが、目は笑っていない。

 質のいい衣装の様子から、高貴な身分の姫だろうと推測する。

 コーサラ王の娘ユリかと思ったが、あの姫はもっと肉感的な体型だ。


「ずいぶん小柄な姫でいらっしゃるが、お年ぐらいは教えて下さるかな?」

 問いかけられ、ミトラは思わず顔を上げたが、それより早くスシーマが眼前に立ち塞がる。


「成人された子もいるご婦人だ。アヴァンティ殿が興味を持つ方ではない」

 咄嗟とっさの嘘だったが、もう少し地味なサリーを着せておけばよかったと後悔した。


 アヴァンティはスシーマのキトンの陰にすっぽり隠れたミトラを覗き込もうとしている。


「それより、アヴァンティ殿にこんな美しい姫がおられたとは知りませんでした。

 先だっての鹿狩りに来られた姫は確か十五の姫でしたね」

 スシーマは話題を変える。


「ああ、ええ、あれはもう嫁ぎ先が決まってしまいまして……」

 ナルマダははっきり言うと、行き遅れている。

 妹達ばかりが、どんどん嫁ぎ先を決めている。

 美しさは申し分のない姫だが、いかんせんヒンドゥ男を敬遠させる性格だった。


「このナルマダは私の秘蔵の美姫でして、出し渋っておるのでございます」

「それはさぞかし美しい方なのでしょう。

 射止める殿方が羨ましい。ではこれで……」

 社交辞令を言って立ち去ろうとするスシーマの手を、細くしなやかな手が引きとめる。


「?」


 スシーマは驚いて振り返る。

 側近は剣の柄を握り緊張する。


 いつの間にか側に立つナルマダは、はらりとヴェールの片側をはずし、勝気な白い顔で微笑むと、間髪入れずスシーマの首筋に両手を回し、その唇を奪った。



次話タイトルは「キスの代償」です

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