31 覚醒
「衛兵! 全員広間に行って加勢しろ!
なんだか分からぬが凄腕の男達が乱入してきた!」
控え室はラトラームを除いて、全員が加勢に向かった。
広間は突然の男達の乱入に騒然としていた。
「ミトラ様!」
アッサカの声が響く。
「おい、貧乳の女! どこだ!」
ウソンの声も聞こえる。
その少し前に、剣を合わせていたアッサカとウソン達は、ミトラが攫われたと駆け込んできたボパルの用心棒達の報告で、一旦停戦して、前から怪しいと睨んでいた、この娼館に攻め込んだのだ。
驚いたのは角端達スシーマの隠密だった。
タキシラで見覚えのあるアッサカとウソンが、宮殿にいるはずのミトラの名を叫んで乱入してきたのだ。
捕り物の仕上げを計算していた角端は、仕方がないと商人の服を脱ぎ捨て、混乱に乗じて外に待機させていたスシーマの衛兵を引き入れ、次々商人を縛り上げる。
アッサカとウソンは邪魔をする用心棒を切り捨て、ミトラの捜索に必死だった。
マンドサウルは何が何だか訳が分からない。
捕えられた商人達もあまりの事に唖然としている。
広間といえどもがに溢れかえり、皆が喧騒と混乱に戸惑っていた。
そして、ミトラを探して、ようやく騒ぎの中心を探し当てたパトナ王子もこの地下の広間に足を踏み入れ、呆然としていた。
「どうなってるんだ……」
ラトラームは控え室から広間の様子を伺って、まずい事になったと蒼白になっていた。
「あれは……スシーマ王子の衛兵か……。
まずいぞ。こっそり逃げ出すか……」
後ずさりをして、控え室から外に抜け出そうとするラトラームは、ふと不思議な光に目が釘付けになった。
「?」
いつの間に気付いたのか、シェイハンの女の目が開いている。
いや、問題はそこではない。
何故だか後光のように女の体全体が翠の光に包まれている。
その神々しさに目を奪われる。
身動き出来ない。
吸いつけられるようにその光から目が離せない。
その視線がゆっくりとラトラームを捉える。
視線が合ったと思った瞬間、がくりとラトラームはその場にくず折れた。
(動くな!)
瞳が命ずる。
絶対的な支配者の目。
何者も逆らえない威圧感。
ラトラームは床に崩れたまま動けなかった。
それからゆっくり女の上半身が起き上がると、その目は側で冷たくなる侍女の姿を捉えた。
翠の光がゆっくりと侍女に流れ、侍女の体も包み込む。
ポワリと温かい光が瞬いたと思うと、確実に死んでいたはずの侍女の瞳がうっすら開いた。
ラトラームは「ひいいい!」と後ずさる。
侍女は自身を包む翠の光を見渡し、やがてその光源となる少女へ目を移した。
「ミトラ……様? ここは……天界……でしょうか」
ソルはそっとミトラに手を伸ばした。
「いつにも増して……ミトラ様が……神々しく……。
ああ……なんと……月神さえも魅入られる……神秘の……瞳」
ミトラは微笑んで握り締めていたソルの手をもう一方の手で包み込む。
「ここは天界ではない。人の世だ」
「でも……私は……死んだのでは……」
「すまぬがソル。
今少し、この悪鬼はびこる愚かな人間世界に留まり、私の側にいてくれぬか?
そなたが必要なのだ」
「ミトラ様……」
「永遠の平和の園から今一度、そなたを呼び戻してしまった。
この苦しみ多い人の世で、もうしばしの間、私と共に生きてくれぬだろうか?」
ソルは涙を浮かべる。
「そのようなお言葉……勿体のうございます。
私のごとき凡夫、何のお役にも立ちませんが、望んで頂けるなら、地獄の果てまでもお供致します」
ミトラは穏やかに微笑んだ。
「感謝する、ソル」
安堵の表情を浮かべたミトラは、つと視線を上げ、隣室から聞こえる喧騒に目を向けた。
「あの騒ぎは?」
ソルも気付いて尋ねる。
「くだらぬ争いが起きているようだ。
私が行かねばなるまい。
そして、そなたの命の糧となる贄を借り受けてこよう」
立ち上がるミトラをソルが引き止める。
「いけませんミトラ様! 危険です!」
しかしミトラは首を振る。
「ミスラの神は古より妻と定めし我が御霊に力を授けて下さった。
今の私に恐れるものなどない」
「ミスラの神が……?」
「そなたの命はまだ仮のもの。
しばしここで待っていてくれ。
愚かな男達の始末をつけてこよう」
「ミトラ様!」
起き上がろうとしたソルだったが、さっきまで息の根を止めていた体は、まだ力が入らず、思うように動かない。
そして二人の会話を聞いていたラトラームも、動くなと命じられたまま動けない。
ただ、感じた事もない畏怖の思いに、ガタガタと体を震わせていた。
広間は数十人が入り乱れる大乱闘になっていた。
角端が商人とマンドサウル太守を縛り上げたものの、太守の配下の兵士や、商人の用心棒が退路を探して奮闘している。
しかし目に見える唯一の退路である、地上への階段は角端の配備したスシーマの衛兵がしっかり守っているため、出口がない。
アッサカとウソンは競りにかけられていたヴェールをつけた女達を一人一人確認しているが、ミトラを見つけられず焦りが募る。
ようやく控え室の存在に気付き、今、まさに駆け込もうとしていた所だった。
しかし向こうから突然開いた扉に現れた、神々しい翠の光に一瞬後ずさる。
「ミトラ様!」
アッサカが真っ先に気付いて驚く。
月色の髪も、華奢な体躯も、紛れもなくミトラのはずなのに何かが違う。
「こちらは危険です! どうかしばしお留まりを……」
言いかけたアッサカは、問題ないという顔で頷くミトラに言葉を失う。
目の前を通り過ぎて行くミトラを呆然と見送る事しか出来なかった。
「おい! シェイハンの女!
そっちは危ないって! 戻れ!」
ウソンが止めようとミトラの腕を掴んだ。
ミトラはゆっくりとウソンを見上げる。
「大丈夫だ。離すがよい、烏孫。
しばしここに控えていよ」
妙な威厳で命じるミトラに、はっとウソンは手を離した。
ミトラはアッサカとウソンとその従者達をゆっくりと見回す。
その目に晒された人々は金縛りにあったように動けなくなる。
その場に立ち竦む。
ミトラは視線を前に戻し、剣を手に暴れる男達の真ん中に進む。
もはや訳が分からなくなってミトラにも切りかかろうとした男達は、その翠の瞳に一睨みされた途端、剣を落とし、床にひれ伏した。
「みな、武器を下ろせ!」
ミトラが命じる。
喧騒の中でミトラの声が届いた者達は、その目に見つめられた途端剣を落とし、ひれ伏す。
「争いをやめよ!」
更に命じる。
剣を落とし、ひれ伏す輪が大きくなる。
「静まるがいい!」
次々輪が大きくなる。
やがてその輪は広間全体に広がり、いつの間にかすべての者が剣を下ろし、立ち竦んでいた。
「あれは……」
パトナは、王子に気付いた衛兵達に守られ、階段脇でその光景を見ていた。
突然床にひれ伏す男達に驚き、その中心に立つ少女の光のオーラに目を凝らす。
さっき会った無垢な少女。
年相応に頼りなげで世間知らずの幼い姫。
それが今、畏怖と威厳に溢れている。
「どうなってるんだ……」
ぽそりと呟いた。
みなが静まるとミトラは再び口を開いた。
「角端、炎駒、罪人に縄をかけるがよい」
角端と炎駒は驚いて顔を上げる。
変装していた自分達に一目で気付いた。
いや、そもそも自分達は秘かにミトラを隠密として見守ってきたが、ミトラはこちらを知るはずがない。
それに、逆らう事を許されぬこの威厳は何だ。
「何をしている。早く縄をかけよ」
もう一度命じられ、あわてて角端と炎駒は縄を手に立ち上がった。
さっきまであれほど抵抗していた商人達は、すでに目に見えぬ縄にかけられたように、身動き一つせず大人しく縄にかかる。
驚くほど楽な捕り物だった。
それからミトラはマンドサウルに命じられ従う衛兵達に目を向ける。
「ウッジャインの衛兵達よ。
マンドサウル太守はスシーマ王子の部下が捕えた。
すでにマンドサウルにはどのような権限もない。
大人しく投降してスシーマ王子に従うがよい」
衛兵達はすでにミトラに逆らうつもりなど毛頭なかった。
素直に拝礼を返した。
そしてミトラは隅に固まる女達を見た。
「攫われ連れて来られた娘達よ。
スシーマ王子が、必ずそなたらの屋敷に返してくれるゆえ、安心するがいい」
ヴェールの娘達は安堵の嗚咽を漏らして、ミトラにひれ伏した。
その間に角端達は主だった罪人達をすべて縛り上げた。
ミトラは平定した広間をゆっくり見回す。
そして最後に背後に控えるウソンに目を止めた。
「烏孫!」




