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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第四章 ウッジャイン 覚醒編
141/222

27 商人ボパルの願い

「え? デビ殿の?」


 あの大柄な姫がどうしてこの小男から生まれたのか?


「疑っておられますな。

 言いたい事は分かります。

 私めはこの通りの小男なれば、大きなものに憧れ続け、息子達にはこの苦労を味あわせたくないと、村一番の大女を妻に迎えましたのです」


「はあ……なるほど……」


「されど息子はみな私に似た小男で、ただ一人の娘だけが大女になってしまいました」


 笑顔で語る男に悲壮感はない。

 体は小さくとも、心の大らかさを感じる。

 デビのあの大らかな性格は間違いなく、この父に似たのだ。


「女としての幸せなど望めぬと覚悟しておりましたが、なんと、なんと。

 世界一の偉大なる殿方を射止めましたのです。

 あの武勇。あの博識。あの正しき心。

 デビめは我が家のほまれです。自慢です」


 屈託なく我が娘を褒め称える男が微笑ましい。

 ミトラはすぐに好感を持った。


「おっとと。姫君、しばしこちらにお隠れを。

 マンドサウル太守めの手の者がいるようでございます。

 見つかってはまずい」

 ボパルは民家の横道にミトラと共に隠れた。


「マンドサウル太守?

 太守殿が悪事を働いているのか?」


 息子のラトラームだけではなかったのだ。


「左様でございます。

 マンドサウル太守が来てからというもの、ウッジャインは色町ばかりが目立つ都市になってしまいました。

 その上、怪しげな薬を手に入れ、どんどん治安が悪化し、悪徳大商人が集まるようになり商売もし辛くなりました」


「では、スシーマ王子のご公務というのは」


「はい。元からの真面目な商人達の訴えを取りまとめ、私めがパータリプトラの王宮に嘆願書を送ったのでございます」


「スシーマ殿はマンドサウル太守が絡んでいると知っておられるだろうか?」


「知っておられるでしょう。

 すでに多くの隠密を動かしておられるご様子。

 そもそも何年も前から何度嘆願書を送っても取り上げてもらえなかったのですが、スシーマ王子が会議に参加されるようになって初めて、王も重い腰を上げて下さったとのこと。

 我が婿殿ほどではございませんが、あの王子も相当の切れ者でございましょう」


 ミトラはうなずいた。


 スシーマを信頼している様子のミトラを見て、ボパルは少し顔を曇らせた。


「巫女姫様。

 私めはあなた様にお会いしたら是非ともお願いしたき事がございました」


 ボパルは狭い横道で深く拝礼する。


「願い?」

 ミトラは首を傾げる。


 ソルはそばで聞いていて、その内容に思い当たった。


 アショーカ王子の側室の父であるなら、当然のように願う事。

 アショーカ王子から身を引いてくれと頼むのだろうと思った。


 ライバルは一人でも少ない方がいい。

 まして寵愛深い姫など邪魔者でしかないはずだ。



「どうかアショーカ様の正妃になって下さいませ」



 しかしボパルの口から出た真逆の言葉にソルは驚いた。


 ミトラも同じだった。


「せ、正妃に? 何故だ?

 普通、側室の女は妃が増える事を喜ばぬと聞くぞ。

 デビ殿が嫌がるのではないのか?」


「いいえ。これはデビがまさに望む事でございます。

 デビだけではございません。

 もう一人の側室、カールヴァキー様も望んでおられると手紙にて聞いております」


「な、何故だ? 解せぬ」


「それは……」


 言いかけた所で、ぎゃああという叫び声にはっと振り返った。


「しまった。見つかったようです。こちらへ!」


 用心棒達が食い止めている間にボパルはミトラとソルを連れて迷路のような脇道を突き進む。


「もうすぐ我が屋敷でございます。

 もう少しだけ頑張って走って下され!」


 右に左に小道を進む。


 小柄な三人には有利な道だ。


「あ! あれに見えるが我が屋敷でございます。

 屋敷にさえ入ってしまえば……」


 息を切らして大通りに飛び出てミトラの手を引くボパルは、進路を遮る人影にはっと息を呑む。


「マンドサウル太守……」


 大きな屋敷の連なる大通りに立ちふさがる大勢の男達。

 一番前にマンドサウル太守と、ウソンに打たれた鼻を、大きな布で痛々しく覆ったラトラームが立っていた。

 その後ろには武装した兵士が十人ほどもいる。

 ウッジャインの衛兵を連れて来たのだ。


 マンドサウルはにやりと目を細める。


「ボパルか。余計な事ばかりしおって。

 ずっと目障りだったのだ。

 さてどうやって始末をつけたものか……」


「く……貴様……」

 ボパルは苦渋に顔を歪める。


「されどアショーカ王子のしゅうとを変死させるのは面倒だな」


 鬼神のごときアショーカの武勇は、ウッジャインでも有名だった。

 恨まれて仕返しでもされたらたまったもんじゃない。


「ソーマで殺すか。

 穏やかな死に顔は病死と区別がつかぬからな。

 よし、縛って連れて行け」

 マンドサウルは衛兵に命じた。


「く! 貴様ら、こんな事をしてただで済むと思うな!

 このお方にもしもの事があれば、アショーカ様が怒りのシヴァ神となって、そなたらを一人残らず成敗するぞ!」


 マンドサウルはミトラを見た。


「ふふふ、なるほど。

 スシーマ王子ばかりかアショーカ王子までご執心の側女そばめか。

 確かに美しい。

 さぞかしいい値がつくことだろう。

 心配には及ばぬ。

 競り落としたならば、明日には幸運な大商人の深い深い檻の中だ。

 誰にも見つける事など出来ない」


 衛兵に手と口を縛り上げられるボパルを横目に、ソルは絶望を浮かべる。



 何とかミトラ様だけでも……。

「に、逃げましょう、ミトラ様。

 私が食い止めますから、どうか脇道を戻りアッサカ様の元へ……」


 ソルはミトラの手を引いて、元の小道へ駆け出した。


 大男なら通れない細道にミトラを押し込む。


「ソル! 早く!」


 気付いた追っ手が背後に迫り来る。


「いいえ!

 私がここで防げば、時間が稼げます。

 どうかミトラ様はお逃げ下さい」


「バカを言うな!

 そなたを置いて行けるか」

 ミトラは手を差し出す。


 しかしソルは首を振って微笑んだ。


「どうか罪悪感など感じないで下さい。

 すべては私のせいなのです。

 私はスシーマ王子の策略に乗ってミトラ様を騙したのです。

 だから私をここに捨て置いて下さい。

 これは私の償いなのです」


「ソル! 何を言って……」


「どけ! 女!」

 追いついたラトラームが叫ぶ。


「早く! 早く逃げて下さい!」

 ソルはぐいぐいとミトラを小道に押し込む。


「おい! この女を切り捨てろ!」

 マンドサウルの命令が聞こえる。


「ソル! 早くっっ!!!」


 ミトラは必死でソルの手を掴む。


 しかしブサリという鈍い音がソルの背中で響いた。




「ソル――――ッ!!!!」





 血しぶきが上がる。

 ぐらりとソルの体が崩れる。



「どうか……ミトラ様……」


 懇願する。


 しかしミトラはその手を離せなかった。


「嫌だ……。嫌だ!! 出来ない……。

 嫌だああ!!!!!」


 ミトラは泣き叫ぶ。




「ああ……私はいつも……役立たずで……」

 

 ソルの苦痛に歪む目に涙が溢れる。


「されど……どうか……これだけは……。

 私はいつも……。

 ミトラ様の幸せだけを願って……。

 愚かな事ばかりを……」



 がくりとソルの頭が垂れた。




「ソル――――ッ!!!」




 ミトラはその手を掴んだまま、ソルを抱きしめた。

 ぬるりと背中に湧き出す血の感触が絶望を告げる。



 ドヤドヤと周りを取り囲む男達が、ミトラの腕を掴み小道から引きずり出した。

 されるがままに引き倒されても、ミトラはソルの体を離さなかった。

 固く結んだ手は、衛兵達がどれほど引き剥がそうとしても弛む事がない。



「ソルに触るなっっ!」


 ミトラはソルを引っ張ろうとする衛兵達を、怒りの月神となって睨む。


「ダ、ダメです、マンドサウル様。

 まるで繋がっているかのように離せません」


 ソルの体を引き離そうとする衛兵達は、激しい非難を向ける翠の視線におののいた。

 天空の女神が天罰を下すがごとくの畏敬と畏怖の瞳。

 我が身の罪の恐ろしさに、それ以上手出し出来ない。



「何をやってるのだ!

 早く死体から離して連れて行くのだ。

 早くしろ!」


「出来ません。出来ません」


 衛兵達はたじたじと後ずさる。


「ちっ! 何だというのだ!

 大商人達が待ってるのだぞ!

 もういい!

 その死体ごと一緒に運べ!」


 そう命じても衛兵達は、もはや自分達を睨みつける翠の瞳に近づけない。


「仕方がない。

 ソーマを飲ませましょう。

 意識を混濁させて連れて行きましょう」

 ラトラームが小瓶を取り出す。



 ミトラの視線に一瞬たじろいだものの、その髪を掴んで後ろに引き顔を上に向かせる。


 僅かに開いた口元に小瓶を差し込む。


 トポトポと口を満たす液体はミトラの抵抗も虚しく、自然の流れのように喉元を過ぎ……。



 ストンと臓腑ぞうふに滲み落ちた。




 !!!





 ほんの一瞬、その場の全員が得体の知れない違和感を感じた。


 ビリリと肌を刺す痺れ。


 大気が痺れた。

 まるで光と音を伴わない雷が天を駆け巡ったような衝撃。




 ミトラは目に見えぬ雷に打たれたように、ビクリと体を震わし……




 ……気を失った……。






 その衝撃は空を走り、遠い遠い空の下、四人の男達にも衝撃を与えた。


 一人はウッジャインのラーダグプタ。


 もう一人はタキシラのイスラーフィル。


 そして遥かな空の下、二人の老傑の老いた身にも、久方ぶりの懐かしい痺れを与えた。




「な、なんだ? 今のは……」


 ラトラームは不審な顔をして、眼下で気を失う少女を見た。


「と、とにかく大商人達を待たせている。

 早くその女を連れて行け!」


 父の命令に、ラトラームは再び侍女と繋がった手を離そうとして、ちっと舌打ちをした。


「さっきより固く結んでる。

 仕方がない。このまま連れて行こう」



 衛兵達は命じられ、恐る恐る気を失う少女と侍女の死体を抱え、大通りを運んだ。


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