14、アショーカとミトラ
ミトラはどうやって元の南の宮殿に戻って来たのか覚えていなかった。
思い返してみれば、シェイハンからパータリプトラまでの道中は、あまりにも順調過ぎた。どの宿も待ち構えていたかのように、丁重に出迎えてくれた。
追っ手の姿もなく、流れるようにマガダの王宮に入ってしまっていた。
すべて導師の計画通りだったのだ。
悪夢が信じられず、数々の導師とのやりとりばかりが思い浮かぶ。
くだらぬ嘘には毎日のように騙されたが、人を傷つけるような嘘は一度もつかなかった。
いつもミトラを守ってくれた。
あのすべてが嘘だったというのか?
いや、きっと悪魔に囁かれて正気を失ってるのだ。
しかも聖大師様を……。
イスラーフィルの言う通り、聖大師様のお世話を導師に任せるなんて絶対してはいけない禁忌だったのだ。
イスラーフィルはいつも本当の事しか言わなかった。
それは厳しくとも誠実なものだった。
その真摯な腕から逃れたのはミトラだった。
そしてシェイハンの民を置き去りに、敵地に囚われてしまった。
王家の直系。シェイハンの象徴。
導師の言葉が蘇る。
神殿が燃えた夜見た夢。
妹と自分を呼んだアロン王子。
あれは真実だったのだ。
妹でありながら巫女になる運命の自分を不憫に思い、王子はいつもミトラを気にかけてくれた。
「兄様……」
知っていれば、もっと甘えたかった。
ああ、もし知っていたら巫女になどならないと言ったかもしれない。
だから秘密にしていたのだ。
本当なら好きな人と結婚することも、豊かな自由も謳歌出来る身分であった事を。
しかし今、ミトラの目の前にあるのは、あまりに残酷なもう一つの人生だ。
母国を蹂躙した憎い敵国の妃になれというのか。
そうしてシェイハンの国民の口を噤むのか?
なんと残酷な仕打ち。
許すまじき暴虐の国。
このうえは自ら命を絶って……。
……しかしミスラの寛容な神は、ただ一つ、自死のみを禁じていた。
「ミスラ神よ。なにゆえ自死を禁じますか?
私を穢し貶めたいのですか?
あなたを寛容な神と思っていたは大きな間違いでございました。
死の選択を許さぬとは、最も厳しく無慈悲な掟。
自死を許さぬのなら刺客を寄越して下さいませ。
王が悪魔に囁かれているこのおぞましき国ならば、そこら中に罪を囁く悪魔がいる事でしょう。
国中の悪魔を、さあ、お呼び下さい。
十の妖魔と十の羅刹。
十の邪鬼に十の怪妖。
合わせて五十ぐらいの悪魔なら、私がこの手にひっ捕まえて、あなたの住む天上に連れ帰りましょうや。
さあ、今すぐ連れて来られませ!」
言い切ったミトラの耳に「ふ……」と嗤うような吐息が聞こえた。
「俺が殺してやろうか?」
聞いた事のある声だった。
魔を秘めたような低く響く声に、しっくりおさまるその言葉。
アショーカ王子だった。
黒ずくめの隠密姿が、月明かりを背にテラスの窓に腕を組んだ影を作っている。
「ずいぶん気の強い巫女姫だな。
ついでに言うと、十を四つ合わせると四十だがな」
「!」
計算間違いを指摘され、ミトラはぷいっと視線を帰して祈りの姿勢に戻った。
「兄上も、とんだじゃじゃ馬を娶らねばならぬ。
気の毒な事よ」
からかうように続ける。
「私はミスラの神に嫁ぐ身であった。
他の者に嫁ぐ気はない」
むっとして答えるミトラを嘲るように、眼前に回りこんで視界に割り込む。
「はん、そう言ってられるのも今だけだ。
神の妻だと?
そんなもの幽閉と一緒ではないか。
皇太子殿下に嫁げば綺麗な衣装も高価な宝石も思いのままだ。
本当は心が高鳴っているのだろう。
本心を言ってみろ!」
だんだん声が大きくなってきた。
衛兵達は気づいているのに王子だから知らんぷりなのだろう。
ミトラはチラリと王子を見てから、ふうっとため息を一つついた。
「ミスラの神よ。
私は確かに刺客を請いましたが、何ゆえこのような愚か者を遣わしましたか?
あなた様が私を愛していない事はよく分かりました。
このように遠ざけ、試練をお与えになるのもかまいません。
されど、もう少しマシな刺客を遣わせて下さればよろしいものを……。
この腰抜けバカ王子では我が身に剣を突き立てる勇気もない事でしょう」
わざと煽った。
いつからいたのか王子の側近達が、後ろでぷっと吹き出している。
「だっ、だれが腰抜けバカ王子だ!
女だと思って言わせておけば!
本当に殺してやろうか!」
忍んで来たとも思えぬ五十バカ王子の大声に、床が震える。耳が痛い。
「だったら早く殺せ!
切り捨てるのが怖いのだろう?」
ミトラは更に煽った。
絶好のチャンスを逃してはならない。
死ぬなら早い方がいい。
「怖いだと?
この俺様が女一人切れぬと言うのか!
このなまいきな女!」
どうやら思い通り激怒しているようだ。
しかし王子は片膝をついて、ミトラの眼前に顔を寄せた。
「俺様を侮辱して簡単に死ねると思うなよ。
わが兄上の妃になる前にその身を汚されたなら、高潔な巫女姫はどうするかな?」
王子は愉快そうにミトラの顎をくいっと自分に向けた。
王子の後ろで三人の従者が固唾を呑んで見守っているのが見えた。
「好きにすればいい。
されど気が済んだら切り捨ててから行ってくれ」
もっと抵抗されると思っていた王子は、少しばかり調子が狂った。
こんな無垢な顔をして、案外男慣れしているのかと様子を窺う。
「それはどうしたものか。
その身を汚されて自害するか、そ知らぬ顔で皇太子に嫁いで生き恥を晒すのか、見届けるのも一興だ」
すれた女であるなら、余興程度に遊んでやってもいい。
悠々と微笑む顔が残酷だ。
「自害出来るものなら今ここに生き永らえているものか。
ミスラの神は自死を許さぬ。
だからそなたのような下卑な男に頼んでいる」
ミトラの言葉に、王子の顔色がさっと変わった。
余裕の笑みが掻き消える。
突然の狂気の双眸に睨まれ、背筋に底冷えが走る。
「この女……俺様を下卑な男と言ったか?」
どうやら禁句だったらしい。
王子は手加減もなくミトラの両肩をだんっ! と床に押し倒した。
突然の暴力に驚く。
「もう許せぬ!」
押さえ込まれた両腕は、ミトラの支配を逃れたように動かない。
巫女姫として育ち、初めて受けた男の本気の腕力に戦慄が押し寄せる。
「残念だったな。
お前の出方次第では手出しせずにこのままスシーマの妃におさまれたものを。
この下卑な男がお前を汚辱にまみれて生き永らえさせてやる。
覚悟するがいい」
額のティラカが悪の瞼を開眼し、三つの目で睨みつけられている気がする。
もはや痛みも恐怖も感じないと思っていたはずのミトラは、心底怖いと思った。
死よりも怖いもの。
所詮は十四の娘の覚悟など甘かったのだ。
身を汚す事の本当の意味すら分かってはいない。
それはきっと自分にとって死ぬより辛い事なのだと、この魔の巣くう瞳が語っている。
ミスラの神は自分を地の底まで貶めるつもりなのだ。
「もとより……
人の妻と決まった時点で……この身は堕とされた。
誰にどのように汚されようと大した違いはない」
必死に強がってはみても、計り知れない恐怖がじわりと心を闇に包む。
「スシーマでも俺でも同じだと言うのか」
王子の瞳がティラカと同じ青氷に染まる。
「同じだ。
この身を汚す事でそなたが救われるなら好きにすればよい。
それが神が私に下した使命なのかもしれぬ」
気に入らぬように王子の眉が険に歪む。
「人助けのつもりか? ご立派な巫女姫様。
しかし大層な言葉の割りに震えているようだが?」
獲物を貪る亡者のごとく悦に入る王子の両手には、隠しようもないほどに震えるミトラの恐怖が伝わっていた。
こんな乱暴を、想像した事すらなかったのだろう。
生意気な女を仕留めた満足感に、アショーカはほくそ笑んだ。
しかし、ふと眼下で自分を見つめる翠の双玉に、大粒の涙が溜まっているのに気付いて、訳の分からない衝撃を受けた。
恐怖に震える体が小さな水面を微かに揺らす。
「すまぬ……。
私は若輩ゆえ修行が足りぬようだ。
未知のものを怖いと思う、ただそれだけだ。
好きにするがよい……」
言い切った途端、ミトラの頬をつうっと涙がこぼれた。
思いがけない動揺が、アショーカの体に制裁の杭を打つ。
「バ、バカか?
これから襲おうとしている男に謝ってどうする!」
「バカ……。
そうだな一番大バカなのは私だったのだな。
巫女というだけで人にかしづかれ、賢明な者と驕っていた。
それゆえ導師殿の真意にも気付けず……」
一度軌跡を作った涙は、次から次へとミトラの頬を流れ落ちる。
「おい、泣くな! 気分が萎える!」
アショーカはいらいらと怒鳴りつけた。
「すまぬ……」
「だからっっ! 謝るなっ!」
優位にあるはずのアショーカの方が狼狽が大きい。
「アショーカ、もうやめようよ。
巫女姫様にこんな事して、バチがあたるよ」
たまらず従者の一人が声をかけた。
「うるさい! 黙ってろトムデク!」
従者にかけた怒声に、ミトラがビクリと体を震わす。
その微かな震えに気付いて、王子は押し流されそうな罪悪感の洗礼を浴びる。
「ダメだったら。ミカエル様がお嘆きになるよ。
もう滅茶苦茶なんだから」
トムデクと呼ばれた大柄で色黒の青年が、アショーカの腕を掴んで引き離そうとした。
「好きにさせてやれよトムデク。面白いじゃん」
女の従者がにやにやと笑う。
「ヒジム煽るなよ。
せっかくトムデクのおかげで引き際をつかめそうだったのに。後に引けなくなるだろ?」
もう一人、カーキ色の切れ長の瞳が涼しい貴公子然の青年が、面白そうに口を挟む。
「サヒンダ!
面白がってないで止めてくれよお」
トムデクは半泣きで懇願する。
その時。
すっと部屋に影が走り、アショーカの体が大きな衝撃と共に突き飛ばされた。
次話タイトルは「伝説のシュードラ アッサカ」です




