25 王女ルジアナの願い
その前日にさかのぼる。
「どうかした? アショーカ?」
タキシラの太守室では、久しぶりにアショーカと三人の側近が顔を揃えていた。
額の印を押さえて考え込むアショーカに、トムデクが心配そうに尋ねた。
「いや、何故だかミトラの身が急に心配になったのだ。
兄上と五麟がいれば大丈夫と思うのだが……なぜか嫌な予感がする」
「気のせいでしょう。
アッサカからは無事にウッジャインの宮殿に入り、五麟が堅固に警備をしていると報告がきています」
サヒンダがあっさり退ける。
「ただ、ウソンの動きが気になるけどね。
アッサカの報告ではやっぱりあいつ、三人の武官を従えてミトラの周りをウロウロしてるらしい。
どっかの国の王子じゃないかな」
ヒジムが眉間を寄せる。
「アッサカにはウソンに集中するように命じている。
ミトラは兄上の元にいればとりあえずは命の危機はないだろうからな。
俺が迎えに行くまで兄上に守らせるさ」
一旦話が収まった所で、サヒンダが本題に戻す。
「ところでこの忙しい時に我らを集めて一体何の用だ? ヒジム」
いかにも迷惑そうだ。
「うん。聞いてるとは思うけどルジアの事なんだ」
ヒジムはおずおずと切り出す。
「ああ、男のフリをして騎士団に入り込んだ女だな?
それなら騎士団追放で話は終わったんだろう?」
サヒンダはさっさと自分の仕事に戻りたくて仕方ないのだ。
「そうなんだけどさ……。
僕も鉱山の事ですっかり諦めて国へ帰るだろうと思ったんだけど……。
アショーカにお願いがあるらしくてさ……」
「俺に?」
アショーカは怪訝な顔をする。
「ルジア! 入って!」
ヒジムが扉の外に声をかけると、ルジアがゆっくりと部屋に入った。
騎士団の服は脱ぎ捨て、質のいいサリーを着ている。
貴族の娘らしい豪華な衣装と、場に応じた宝石に気品が漂う。
大粒の黒目と長くウエーブのきいた黒髪。
一つ一つはとても美しいが残念な事にすべてが大柄過ぎてあらゆる美徳を打ち消してしまう。
騎士団の衣装の時は、周りの大男達に囲まれ大柄にも思えなかったはずが、女物のサリーを着ると途端に巨人のように見えてしまう。
大男が女装しているようにしか見えない。
アショーカの前まで進むと、ひざまずき拝礼した。
「挨拶はよい。おもてを上げよ」
好奇の目で見られているだろう自分にルジアはおずおずと顔を上げた。
しかし意外にもアショーカ王子も、側近達も、さほど違和感を感じた風でもなく平然としている。
ルジアにも劣らぬ大柄の側室のデビを見慣れているアショーカ達にとっては、別段驚くほどの事ではないのだ。
「俺に願い事とはなんだ?
いや、まず、そなたは何者だ。本名を申せ」
「はい。私はカシミールのウラシャ国王が王女ルジアナと申します」
その言葉にヒジム以外の一同は驚きの表情を浮かべた。
「なに? カシミールの王女と申すか?」
「はい。幼き頃より兄達について武芸を嗜み、大柄で力も強い私は兄達をも凌ぐ剣技を身につけてしまいました」
「う、うむ。確かに剣技は優れている」
「女でも立派に剣士として活躍されているヒジム様を見て、私も騎士団に入りたいと、アショーカ様を謀った事、どうぞお許し下さい。
決して他意のなかった事を信じて下さいませ」
ルジアナは頭を下げる。
「おお。それは信じている。
そうでなければこのヒジムがあそこまで庇わんからな」
「しかしヒジム、カシミールの王女と知ってたのか?
万一鉱山で命を落としてたら政治問題になってたぞ」
サヒンダがギロリと睨みつける。
「万一命を落とす事があれば誰にも気付かれぬよう闇に葬ると約しておりました」
ルジアナは平然と答える。
「お前は王女に何という約束をさせるのだ」
アショーカが呆れてヒジムを叱る。
「どうかヒジム様を責めないで下さい。
すべては私の我儘だったのです。
今回の事で思い知りました。
どれほど剣技に優れようと、力が強かろうと、しょせんは女。
命あるものを切り刻む恐ろしさに身が凍りました」
「そうであろう。
女の身でさぞ恐ろしい思いをしただろう。
国に帰ってゆっくり休むがいい。
騎士団を護衛につけてカシミールまで送らせよう」
アショーカはうなずく。
「一度は私もそう思いました」
「ん?」
一同は首を傾げる。
「されどアショーカ様に九死を救って頂いたあの時、死を覚悟した一瞬、私は騎士団に入った事も、闇に葬られて屍となる事も少しも後悔致しませんでした」
ヒジムは聞きながらポリポリと頭を掻く。
「ただ一つ悔やんだのは、私がヒジム様に何の恩返しも出来なかった事。
もっとヒジム様の役に立って死にたかったという事」
アショーカは不穏な顔でヒジムを見る。
どうやら何度か聞かされていたらしく、モテる男は困るといった風情で頷いている。
「私はこれからもヒジム様のおそばで、ヒジム様のお役に立つ人間になりたいのです」
「いや、だが……騎士団は女は……」
「女性部隊を作ると聞きました」
アショーカの言葉を遮るようにルジアナが声を上げる。
「どうか私を女性部隊に入れて下さい。
戦のように攻撃重視の任務には向かなくとも、刺客の刃を防ぐ剣ならば、どんな女性にも負けません。
きっとお役に立ってみせます」
みな唖然とする。
「いや、待て。肝心の事を忘れておるぞ。
そなたはカシミールの王女だ。
女性部隊なんぞに入れたと分かると、ウラシャ国王に恨まれる。
それは出来ぬぞ」
「良家の子女が宮殿の高級女官を経験する事はよくあります。
特に私のように婚期を逃した女には絶好の就職先です」
「いや待て待て。
そなたはまだ婚期を逃したというほどの年でもなかろう。
大体高級女官と女性部隊では聞こえが違うぞ」
「では高級女官という事で私を雇って下さいませ。
父をどうか一緒に説得して下さい」
「な、なぜ俺がそなたの父上を説得せねばならん。
簡単ではないのだぞ」
「そうですよ。
説得するならご自分でなさい。
アショーカ様を巻き込むのはやめて頂こう」
主君命のサヒンダが口を挟む。
「実は私はもはや結婚する事も出来ぬ身なのでございます」
「結婚出来ない? なぜだ?」
アショーカの問いにルジアナはぽっと頬を赤らめる。
「実は、さるお方にこの身を穢されてしまったのでございます」
驚くべき告白に一同は言葉を失った。
「け、穢されたって……何を……」
人一倍心の優しいトムデクが気の毒そうに尋ねる。
「あろうことか、王女の私の胸を四度も触ったのでございます」
「よ、四度も? なんて不埒な!」
トムデクは親身になって憤る。
「王女のそなたの胸を四度も触るとは、けしからんヤツだな。
その男に責任をとらせればよいではないか。
そなたの身分に見合う相手ではないのか?」
「いえ、申し分のない身分のお方でございます」
ルジアナが答えるとヒジムが堪えきれずに笑い出した。
「おい、何を笑っておるのだヒジム。
お前その相手を知っておるのか?」
「うん。よく知ってるよ」
ヒジムは肩を震わせて笑い続ける。
「笑い事ではない。
知ってるならその者を連れて来い!
俺が責任をとらせてやるっ!!」
「では責任を取って頂けますか?」
「おう、もちろん……ん?」
アショーカは怪訝な顔でルジアナを見る。
「な、何の話だ?
なぜ俺が責任を取るのだ」
「だってルジアナの胸を触ったでしょ?」
ヒジムが笑いながら言う。
「はあっ? 知らんぞ、俺は!」
呆れたように見つめるサヒンダとトムデクにアショーカは必死で首を振る。
「騎士団の訓練の時、わざわざルジアナの胸を叩いて行ったでしょ? 四回も!」
「はあああ?
あ……そ、そういえば……」
アショーカはふと先日の出来事を思い出した。
「触ったのですか?」
サヒンダが猛吹雪の雪山のような冷たさで問いかける。
「いや、それは男だと思っていたから……。
やましい思いなどこれっぽっちも……」
アショーカはしどろもどろになる。
「僕もしっかり見てたからね。証言するよ」
ヒジムがたたみかける。
「何やってんですかっ! あなたはっ!!」
サヒンダの手厳しい叱責が飛ぶ。
「いや悪気は無かったのだ。
すまぬ、ルジアナ。
王女と知っていればそんな事……」
「おまけに僕が止めなければルジアナの頭を剣でカチ割るとこだったしね」
ヒジムに言われ、アショーカは蒼白になる。
「いや、すまぬ。
そなたの気が済むように償いはするから許してくれ」
ルジアナは本当にヒジムの言ってた通りだと可笑しくなった。
泣いて頼めば側室にだってしてくれるだろう。
ヒンドゥ中の男達が敬遠する自分にも、変わらぬ懐の深さ。
ヒジムの役にも立ちたいが、この主君の下で働きたい。
今諦めたら一生後悔する。
「結婚などという畏れ多い事を望んではおりません。
どうか、私と一緒に父を説得して下さいませ」
アショーカはチラリとサヒンダを見た。
また厄介事を増やしてくれたとばかり呆れ果ててこちらを見ている。
「私は知りませんよ。自分で始末をつけて下さい」
そうは言っても結局手伝う事になるだろう。
サヒンダはもう一度ため息をついた。
「わ、分かった。
ウラシャ国王には早馬を送り、ここに来て頂こう」
「ありがとうございます」
微笑むルジアナにヒジムがうまくいったねと片目を瞑った。




