23 スシーマの弟パトナ
無言の空気を背負ったまま、馬車は進み、一旦止まった。
どうやら、宮殿の門まで着いたらしい。
僅かな小窓に掛けられた更紗の布を上げてパトナが門兵に顔を見せる。
「マガダの王子パトナだ。
しばし夜涼みに出るゆえ通してくれ」
門兵達は心得たとばかり、にやにや笑ってすぐに通してくれた。
色町に繰り出す下卑な男と思われた事が生真面目なパトナの自尊心を砕いた。
苦々しい顔で腕を組んで座り直す。
最悪の気分のまま、ジロジロと自分を見つめ続けているらしい目の前の女に気付いて睨みつける。
「宮殿を出た。
もう小声でならしゃべってもいいぞ。
ラトラーム殿と落ち合う場所まで、まだ少しある。
お前に聞きたい事があったのだ」
パトナの無礼な言葉使いにソルがむっとして睨み返した。
「お前などという呼び方は姫様に失礼でございます。
マガダの王子様とはいえ、礼儀を尽くして下さいませ」
ソルの非難にもパトナは応じるつもりはないらしい。
「遊び女に礼儀を尽くすつもりなどない」
「な! なんて無礼な!
ミトラ様を遊び女と思ってらっしゃるのですか?
巫女姫様ですよ」
「ふん。シェイハンの巫女姫は男をたぶらかすのが得意と聞いた。
言ってみろ女。
どうやって兄上をたぶらかした。
魔力を使ったのか?」
「な! な! な!」
ソルはワナワナと震える。
「ソル、よいから落ち着け。
パトナ殿はスシーマ殿を思うゆえ懸念されておられるのだ」
初めて長い言葉を発したミトラに、パトナは予想外なものを感じた。
声が思ったよりも若い。
妖艶な年増女と思い込んでいたが、自分と同じか、それより幼い声に聞こえる。
「パトナ殿、この度は私の為にこのように手を貸して下さりありがとうございます。
タキシラでスシーマ殿に弟がおられると聞いてからお会いしたかったのです。
出来ればこのような場でなく、ゆっくりお話したかった。
スシーマ殿の弟君ならばきっと良き友になれたと思うと残念だ」
「と、友?」
思いがけない言葉に瞠目する。
そもそもマガダの姫で、男相手に友などと称する女など見た事がない。
「みなは私の事を魔力や神通力のある何者かと思っておられるようだが、残念ながら私は何の力もないのです。
僅かばかりの知恵と血筋でシェイハンを平和に治めたいと、それだけを願っている凡夫なのです。
だからご心配のようにスシーマ殿の妃になるつもりなどありません。
ご安心されよ」
パトナは思いがけないミトラの言葉に何か大きな間違いをしていた事に気付き始めた。
「で、では何故兄上についてウッジャインまで来られたのだ。
タキシラにいれば良かったでしょう」
少し言葉使いを正す。
「スシーマ殿は私がアショーカと共にシリアへ行くと決めた事を心配されたのだ。
タキシラにいればアショーカと一緒にシリアに行く事になると思い、私の身を案じ連れて来られた。
パトナ殿がどのように勘違いなさっているのか知らないが、スシーマ殿はいつも紳士的で、私を巫女姫として礼儀を尽くして接して下さる。
決してあなたの信頼を失うような方ではない。
それを信じてあげて下さい」
「で、でも……兄上はあなたを……」
「私は生まれてからずっと神妻と定められし者なれば、すまぬが何故スシーマ殿が私を妃にと固執されるのか分からぬのだ。
聖大師の神通力を望んでおられるのかと思ったが、それも違うようであるし。
そもそもスシーマ殿は女性の力などに頼るようなお方ではない。
どうやら私の理解力が足りぬらしいのだが、それで誤解を生んでいる」
「誤解……」
「スシーマ殿にも今日の昼に伝えたのだが、私はユリ殿こそスシーマ殿の妃に相応しいと思っている。
パトナ殿からもどうかその事をよくよくお伝え下さい」
深々と頭を下げるミトラをパトナは呆然と見つめる。
そして決心したように手を伸ばした。
「ミトラ殿、失礼致します」
パトナはミトラのヴェールを掴み、バッと取り去った。
「あ……」
驚きの声が漏れる。
ソルが慌てる。
「な、何をなさいますか! パトナ様!」
翠の瞳……。
深く深く誠実だけを讃える無垢な輝き。
透けてしまいそうな白い肌に精巧な鼻と口元。
こぼれる金の髪は天の糸のよう。
これほど穢れのない存在など知らない。
「まさか……」
初めて見る神妻の清らかさに心打たれる。
何一つ疑う事も知らず無垢に微笑む。
「ミトラ様、ヴェールを……」
ソルが差し出す。
「よいのだ、ソル。
人と話をするのにヴェール越しなのはどうも好かぬ。
何故スシーマ殿もアショーカも私にヴェールをつけさせたがるのか、納得出来ぬのだ」
当たり前だ。
ヒンドゥの男なら誰もがこの姫に何重ものヴェールをつけさせるだろう。
パトナは今初めて、すべての合点がいったような気がしていた。
何故兄があれほどこの姫に固執するのか。
何故シリアに行かせたくなかったのか。
姿を見ればすぐに分かったのだ。
なぜもっと早く確認しなかった。
自分は今大変な事をしようとしている。
この穢れのない姫をラトラームに預けようとしている。
その行く末は分かっている。
パトナの額につうっと汗が流れた。
「ミトラ殿! 戻りましょう!」
慌てて立ち上がったパトナは、急に止まった馬車の中でよろめいた。
ガチャリと扉が開き、ラトラームが顔を出す。
そしてヴェールを外して座るミトラを見て、ひゅうと口笛を吹いた。
「これは驚いた。
さすがはスシーマ王子の側女だ。
極上の美姫だな」
ラトラームは値踏みをするように眺め回す。
「ラトラーム殿、この話はなかった事に。
今すぐこの姫を兄上の元に戻す」
パトナの言葉にラトラームばかりかミトラも驚く。
「な、何を言われるのだ。
せっかくここまで苦労して脱出したのに!
私はアショーカの所に帰る。
お願いだ、パトナ殿!」
「そうですとも。
私めがちゃんとアショーカ王子共々タキシラに返して差し上げます」
「嘘をつけ!
本当にタキシラに返すつもりなどないのだろう!」
「滅相も無い。
お約束通りこの姫様をタキシラに帰しますよ。
パトナ様のお役目はここまでです。
さあ、後は私に任せて宮殿にお戻り下さい」
ラトラームは下卑た笑いを浮かべて馬車の外に控える従者達に目配せする。
すぐに屈強な男達が馬車を覗き込み、パトナの腕を掴んで引きずり出した。
その時になってソルは不穏な空気を感じてミトラを背に庇う。
ミトラはまだアショーカがすぐそこにいるのだと疑ってはいない。
「アショーカは? ここには来てないのか?」
「もう少し先の宿におられます。私が案内致しましょう」
ラトラームがパトナの代わりに馬車に乗り込み、すぐに動き出した。
「待てっっ!!」
必死で追いかけようとするパトナを屈強な男達が羽交い絞めにする。
気付いてみると十人近い大男達が馬車を取り囲んでいる。
ただ娼館に売りに行くにしては、大層な行列が付き従っていた。
(何をするつもりだ……)
大男に引きずられながら目を凝らすパトナの視界から、馬車は右に折れて消えていった。
その様子を民家の屋根の上で寝そべりながら見守る男がいた。
「ふーん、家柄の良さそうなお坊ちゃまが、追いすがろうとする馬車か……。
事件の匂いがするな。
いや、巨乳の美姫の匂いか……」
それを聞いて側に控える武官が声を荒げる。
「烏孫様、いいかげんにして下さい。
これ以上妙な事件に関わるのはやめて下さい。
さっさとシェイハンの姫を攫って国に帰りましょう」
「そうですよ。
今日ならスシーマ王子の五麟が手薄と聞いています。
攫うなら今日しかありませんよ」
「うーん、でも俺様の野生の勘ってやつが、あの馬車を追えっていうんだよな。
ほら、俺のこういう勘って外れた事ないの知ってるだろ?」
烏孫はむくりと起き上がって馬車の方角を確認する。
「確かに巨乳の美女を見つける勘だけは、いつも冴え渡っておられますが……」
「それだよ。それ、それ!」
烏孫はタッと土壁の屋根を蹴り上げると、軽い身のこなしで次々と屋根を渡って行く。
それを見て、やれやれと武官達も従った。
そしてその四人の行方を見届け、暗闇を走る数人の影があった。




