13、ビンドゥサーラ王
「あああ……終わりだ。俺はもう三度も王子を逃がしてしまった」
「俺なんか五度目だ」
王子に逃げられた衛兵達はしゃがみこんで口々に嘆いた。
「ミスをしたら死罪なのか? そなたらはクシャトリアであろう?」
確か兵士はヒンドゥの戦闘階級だと導師に教わった。
ミトラの言葉に、衛兵達は月色の髪の見慣れぬ少女をまじまじと見上げた。
「クシャトリアだなんてとんでもない。我々衛兵はシュードラです。
家族は農村で奴隷として働いております。
シュードラの男達は月の半分を兵士や苦役に借り出されるのです」
シュードラとは平民の下の奴隷階級だったはずだ。
よく見ると肌は土埃に汚れて黒ずんでいる。
衛服はシェイハンでは荒縄作りに使うジュードで織られた目の粗い固そうな生地だ。
柔肌だと服ずれするに違いない。
「シュードラといえども自国の民であろう。
先ほどの王子はわが民が死罪になるとわかっていてあのような行動をとるのか?
信じられぬな。民の心も見えぬバカ王子だ」
ミトラの非難にシュードラ達は目を見開いて青ざめた。
「と、とんでもございません。
そのような恐ろしい事、誰かが聞いてたらそれこそ本当に死罪でございます」
どうやら引きとめるために、少々大げさに言ったらしい。
「それにアショーカ王子様は、我々シュードラやヴァイシャ階級にも人気の高い王子様です」
ヴァイシャ階級が確か平民だったはずだ。
「人気が高い? 何故だ? 死罪と言われても見捨てて行く王子だぞ?」
「されど自ら成敗された話は聞きません。
他の王子なら我々を切り捨てて脱走することでしょう」
「なんと無慈悲な。そなたら、それで納得しているのか?」
衛兵達は顔を見合わせ、妙に尊大な物言いの少女に不審を浮かべる。
「納得も何も、これが我々のカルマなのです。受け入れるのみです」
「バカな……」
王子といえども安易に人の命を殺めていいはずがない。
「それでも私達は衛兵の仕事についているだけましです。
取り柄のないシュードラは、もっとひどい苦役についてます。
だから苦役を逃れるため、シュードラの男は剣と槍の稽古をするのです」
「中には剣の腕を認められクシャトリアになれた男もいます」
「そう。伝説のアッサカ様。
馬にも槍にも剣にも優れ、取り立てられて今は西方の都市で武官をしているとの噂です」
衛兵達は目を輝かせる。
「我らはみなアッサカ様に憧れて剣技を磨いているのです」
「しかし、私アグラとこいつハウラは、言葉も話せ、衛兵として役に立つのでアショーカ王子を何度も逃がしていても衛兵に取り立ててもらえますが、他の者達は最悪の場合本当に死罪かもしれません」
「なんという事だ! 反抗しないのか? それを黙って受け入れるのか?」
ミトラが声を荒げても、他の兵士達は顔色も変えず槍を持って立っている。
「お姫様、道行くヤギが殴られたからといって怒って仕返しにきますか?
ラクダが家族を殺されたと言って文句を言いますか?
牛が人間のやり方が気に入らないと言って徒党を組んで反抗しますか?
それと同じなのですよ」
「家畜と同じと申すのか?」
「むしろ家畜のように生きる彼らの方が幸せかもしれません」
ミトラは愕然とした。
かたやこのような立派な宮殿で我儘を尽くす王子がいて、かたや理不尽さを怒る知恵すら持たない奴隷がいる。
これが庶民の現実だ。
「では、こう報告するがよい。
そなたらは脱走しようとした私を取り押さえていて、アショーカ王子を逃したのだ。
王子を逃した代わりに、私の逃亡を全員で阻止した」
「な、何をおっしゃいますか!
大体八人がかりでお姫様のような小さな方を取り押さえていたなど、誰が納得しましょうか」
「魔力を使ったと申せ。
そなたらは魔力で身動きがとれなくなったのだ」
「魔力?」
兵士達は驚いたように顔を見合わせた。
「私は他国の巫女だ。魔力を持つと言っても不思議はない」
「巫女姫様!」
おお! という驚嘆の声が漏れた。
「されどそんな噂が立てば巫女姫様こそ成敗されてしまうのでは……」
「それでよい。私にはもう家族も守りたい者もいない。
嫁ぐべき場所も無くした。
この後は救える命をなるたけ救って死を待つのみだ。
気にせずともよい」
「でも……」兵士達は躊躇した。
「むしろ盛大に魔女の噂を流してくれ。
さすれば活路が見出せるやもしれぬ」
死の活路だ。
生きる活路など今のミトラには不要のものだった。
しかし兵士達はそれならばと早速アショーカ王子逃亡の報告に駆けて行った。
※ ※
ミトラが王の前に召し出されたのは翌日の事だった。
先に身を清めるため湯殿に案内された。
大勢の白装束の女奴隷がやってきて、変わった香りの玉で肌を磨き、香油を塗りつけていったが、みなどこか怯えた様子で、どうやら昨日の魔女騒ぎが広まっているようだった。
ミトラが何を聞いても答えてはくれず、みな黙々とミトラの肌を磨いていく。
旅で汚れた衣装は剥ぎ取られ、代わりにヒンドゥの見事に赤く染め上げられたサリーで体を包まれ、質素な巫女時代につけた事もないような宝石の数々をを至る所に飾り付けられた。
そして翠十字の刻印が輝く額には一際大きなルビーが垂らされた。
(死に行く女を飾り立ててどうするつもりか)
ふ……とミトラは冷めた嗤いを洩らした。
最後に全身を覆う真っ黒のヴェールを被せられた。
ヒンドゥでは高貴な女は人前で素顔を晒さないらしい。
ミトラを迎えに来たのはクシャトリアの武官らしく、なるほど昨日のシュードラの衛兵とは身なりが違っていた。
綿織りの、身に合った動き易そうな生成りの上下にオレンジのマント、そして黄色のターバンを大粒の宝石で留めている。
クシャトリア階級の制服らしい。
魔女の噂が効いたのか、二十人ほどの武官に囲まれ、輿に押し込められて本殿へ赴いた。
石化したような硬い木柱の連なる壮大な宮殿に入ると、すぐに大きな石彫りの扉が目にはいった。
神話をモチーフにしたらしい美しい彫刻が扉一面に施されている。
兵士が重そうに扉を左右に開くと、長いペルシャ織りの絨毯がはるか前方の玉座に続いていた。
大勢の武官に囲まれ、誘導されるように玉座へ進む。
祭事には数百人入れそうな謁見の間には、今日は壁際に立つ衛兵と、玉座の背後に居並ぶ十人ほどの重臣と、数人の側女の姿しかなかった。
そして金色の台座を何段も重ねた上にゆったりと座る王が目に入った。
(気味の悪い男だ……)
それが第一印象だった。
色が白すぎる。大理石の石のように透明感がない。
でっぷりと肥えた腹はヤギを飲み込んだように膨らんでいる。
誠意を感じない澱んだ目は、十ワニの血生臭さと、二十ガマの濁りと、三十毒蛇の邪悪さを混ぜて煮込んだようだ。
(嫌な男だ)
そう直感した。
玉座の後ろには豊満な体に付けきれないほどの宝石を飾った女達が数人立っている。
台座の下には、重臣とおぼしき老獪の文官と司祭が六人ずつ。
その中に見慣れた顔を見付けて、ミトラは思わず叫んだ。
「導師殿!」
すぐに違和感を感じたのは導師の銀髪が長い黒髪に変わっていた事だ。
それに居並ぶ司祭と同じ服を着ている。
「ご無事だったのですね!」
素直な喜びと共に、次々疑問が浮かび上がる。
「なぜ……? そのような服装を? なにゆえ黒髪……?」
「ビンドゥサーラ王の御前であるぞ!
女! まずはひざまずいてご挨拶せよ!」
司祭の一人が叫んで手で合図すると、ミトラの両脇の武官が肩を掴んで床に押さえつけた。
「は、放せ! 何をする!」
巫女として、神と聖大師様以外にひれ伏した事などなかった。
「挨拶をせぬか無礼者!」
司祭の叱責がとぶ。
「まあ、よいよい。突然の事で動揺もあろう。
それよりその珍しい容貌をもちっと近くで見せるがいい」
王が命じると衛兵が引きずるようにミトラを玉座に引き上げ、抗おうとするミトラの髪を後ろに引いて顔を上げさせた。
眼前にビンドゥサーラ王の気味の悪い顔が迫っていた。
ペロリと舌なめずりをすると、口元の白い皮膚が少し剥げる。
「白粉!」
王が叫ぶと豊満な女の一人が王の口元にパタパタと粉をはたいた。
そして王の分厚く湿った手が、押さえ込まれたミトラの頬に触れ、ヴェールの片側を外した。
王の眼前に、華奢な口元とわずかな月色の髪がこぼれる。
「ほう。なんと透き通る白い肌じゃ。
瞳は至宝の緑か。わが国にも数えるほどしかおらぬ。
その上この黄金のような髪の色。
しかも魔力を使うらしいな。これは珍しい物を手に入れた。
ラーダグプタよくやった。褒美をやろう。
何を望んでおったかのう?」
ビンドゥサーラ王はギョロリと台座の下の男を見た。
「最高顧問官の一人に付け加えて頂ければと願っております」
前に進み出て答えたのは、信じられないことに導師だった。
「ラーダグプタ……?」
ミトラは髪を引っ張られたまま導師に視線を向けた。
「よいだろう。そなたを最高顧問官に命ず。
……してそなた、名はなんと申すか?」
ビンドゥサーラ王が手を伸ばしてミトラの頬をねっとりとした手で撫で付けた。
頬に何かが粘り付き「白粉!」と王が叫んだ。
するとまた別の女が進み出てパタパタと王の手に粉をはたいた。
気味の悪さに顔を歪めるミトラに代わって導師が答える。
「アサンディーミトラ様です。
稀有な事に王家の直系に生まれし額に印持つ巫女姫。
ミスラ神の妻となるべくして育てられたシェイハンの象徴。
ミスラ教徒の女神です」
王家の直系?
そんな話は知らない。確かに王族と共に城で育てられたが、幼き頃より王子や姫達とは別の存在として扱われた。
聖大師の家系と思っていた。
導師はそんな事何も教えてくれなかったではないか。
それより何故この気味の悪い王にかしづいている?
衛兵に抑えられたままのミトラを何故助けようとしない?
そんな……まさか……。
「導師…………そなたが……密偵だったのか……?」
ミトラの問いに導師の笑みが深まる。
「私は嘘つきだと申したでしょう。
ああ、それも嘘だと思いましたか?」ふふと笑う。
「では……イスラーフィルは……」
心の中にすべてを凍らせる一陣の風が吹き落ちた。
「ああ、イスラーフィルですか?
あの男は、シェイハンと聖大師様を愛する、忠誠心の塊のような神官でございましたね」
小ばかにしたような微笑を浮かべて、導師は答えた。
「では……シェイハンの宮殿に押し入った兵士は……」
凍りついた口が言葉を搾り出す。
「もちろんマガダの軍勢でごさいます。
今頃タキシラの太守が兼任して治めていることでしょう」
ミトラはガクリと台座に座り込んだ。
心に巣くう氷塊は、少女の全身を侵食していく。
間違えた。
また私は間違えてしまった。別れ際のヤムシャ老人の叫びが蘇る。
真摯にミトラを助けようとした者たちを振り切り、まんまと敵地に来てしまった。
なんと愚かな事をしてしまったのか……。
「聡明な巫女姫と聞いておったが案外鈍いのう。今頃気付いたのか」
ビンドゥサーラ王が面白がるように低いワシ鼻で笑う。
「それとも聖大師のようにそなたの色香で虜にしたか?」
下卑た笑いを込めて導師に問う。
ミトラは、はっとして、全身を覆う氷塊を打ち砕き、もう一度導師を睨み付けた。
「まさか……聖大師様の腹の子は……。
でも……そなたは宦官……」
「わがラージャンよ。
ご覧の通りこの者は私を宦官と信じておりました。
この巫女姫はマガダ王家に捧げるべく純潔のままお連れ致しました」
悪びれた様子もなく、さらりと答える。
何もかも嘘だったのだ。
なんという事……なんということだ……。
「ふーむ、なるほど。
この者を娶れば、今はまだ反乱の収まらぬシェイハンの地も容易に従うであろうな。
しかし、かように痩せた女は好みではない。
わしには豊満な美姫がたくさんおるのだ。面倒な事よのう」
王は再びペロリと舌なめずりした。
それを見て導師は淡々と告げた。
「ラージャンよ。ここは王のお血筋を未来永劫存続させるためにも、後継となられる王子に与えられてはいかがでしょうか?
王子が神の巫女と結婚し王子を生んだとなれば、このマガダにゆめゆめ手を出そうという輩も現れぬでしょう」
「うーむ、なるほどな。それは良い考えじゃ。
……して、どの王子に与える?」
王の言葉に重臣達がざわめいた。
すぐさま司祭の一人が声を上げる。
「では長子で正統なるバラモンの血筋のスシーマ様に」
そうだそうだという同意の声が広がる。
「うむ、スシーマか。あれは聡く美しい王子じゃ。
国中の姫達があの者の妻になりたいと夢見ておるわ。
されどあれは堅物じゃでな。
多くの美姫達と見合わせたが首を縦に振らぬ。
かように痩せた貧相な姫を気に入るかのう?」
「王のように豊満な女が好みではないのかもしれません」
「左様ですよ。この珍しい髪と瞳の女ならば気に入るやもしれません」
みんなが納得し始めた所でラーダグプタが口をはさんだ。
「アショーカ王子はどうでしょうか?
シリア王女の母上ミカエル様を持つ王子であれば、異国の女にも慣れております。またミカエル様はシリアでミスラの信徒であったと聞いております」
「アショーカか? あの醜い王子にやるというのか?」
ビンドゥサーラ王はアショーカの名前を聞いた途端、不機嫌になった。
「昨日も謹慎しておった部屋から勝手に逃亡したと聞いておる。
あのような愚か者にはやらぬわ!」
「されど、ミスラの巫女姫が嫁いで来られればミカエル様もさぞお喜びになられるのではないでしょうか?
ここは西方を固める為にもシリアとの友好を大切になさった方が賢明かと思います」
ラーダグプタは王の不機嫌にも怯む事なく告げる。
「ふーむ……ミカエルが喜ぶか。
あの高慢ちきな女が少しは素直になるかのう」
王が考えるように顎鬚を撫ぜると、パラパラと白い粉が剥がれ落ちた。
「おい、白粉!」
女達があわてて王の顔と手足に粉をはたく。
「されどまずは長子であるスシーマが第一候補じゃ。
あの者が気に入らなければ、アショーカも考えてやる事にしよう」
次話タイトルは「アショーカとミトラ」です




