14 陰謀
ユリはスシーマの部屋を辞した後、中庭に出て沈んでいた。
大きな菩提樹が影をつくる東屋には木のベンチが置かれ、恋人達が愛を紡ぐ絶好の語らいの場だったが、今は死者の森のごとく陰鬱な空気が包んでいる。
すぐに追いかけてきたパトナが涙に暮れるユリにハンカチを差し出す。
「明日……パータリプトラに帰ります」
家柄正しき姫のする事ではないというスシーマの言葉は堪えた。
落ち着いて考えてみるとその通りだ。
受け取ったハンカチで涙を拭う。
「ユリ殿が帰るというのなら、私も帰ります。
でも、その前にあのシェイハンの魔女を兄上から遠ざけてからです」
パトナは決心したように拳を握る。
「え? 遠ざけるって……どうやって……」
「そ、それは……」
パトナにも良い案があるわけではなかった。
「面白そうな話をしてますね。お二方」
ふいに背後から声をかけられて、ユリとパトナは驚いて振り返った。
木の陰からラトラームが姿を現した。
片方の口端を上げてにやりと笑う顔が下卑な感じでどうも好きになれない男だった。
ヴェールの隙間から垣間見えるユリの大粒の瞳を、いつも絡みつくように見つめる視線がパトナは気に食わなかった。
「立ち聞きとは無礼であるぞ」
睨みつける。
「ふふ。木陰で物思いに耽っている所へお二方が来られたのですよ。
すぐに声をかけそびれてしまった事は申し訳ございません」
小ばかにしたような物言いも腹立たしい。
「行きましょう、ユリ殿」
早々に立ち去ろうとするパトナの背中に、ラトラームが声を掛ける。
「お手伝いしてもよろしいですよ」
「は?」
パトナとユリは訝しげに振り返る。
「スシーマ王子がお連れの女人を遠ざけたいのでしょう?
シェイハンの魔女と申されましたか?
シェイハン出身の遊び女ですか」
ラトラームはまだミトラがシェイハンの聖大師とは気付いてないらしい。
「宮殿の外まで連れ出して下されば、後は私が始末をつけて差し上げますよ」
「始末とは……まさか……」
ぎょっとして聞き返すパトナにラトラームは笑い出した。
「ははは、いやいや、勘違いしないで下さい。
遊び女は遊び女に相応しい場所に返して差し上げるという事ですよ」
「遊び女に相応しい場所……」
ごくりとユリが唾を飲み込む。
いかがわしく汚らわしい場所。
敬虔なバラモン令嬢のユリには、想像しただけでも鳥肌が立つ生業をする場所だ。
「幸いにも、このウッジャインはその手の働き場所には事欠かない。
美姫であるなら中々よい待遇で暮らせると思いますよ」
「で、でも……」
ユリの組んだ手が震える。
自分と年も違わぬ幼い姫だ。
しかもラトラームは知らないだろうが敬虔な巫女姫だ。
「いいかもしれぬな。
兄上をたぶらかす毒婦にはぴったりの場所だ」
あっさり応じたパトナにユリは驚いた。
そうだった。
パトナもミトラを見た訳ではないのだ。
ミトラがどんなに幼い姫で、悔しいけれど穢れのない瞳をしているかは、この二人は知らない。
あのスシーマ王子をたぶらかすからには、豊満で妖艶な妙齢の女だと思っているのだ。
「ダ、ダメですわ。そんな恐ろしい事……」
ガタガタと震えるユリに気付いて、パトナは愛おしげに微笑む。
「無垢なユリ殿には刺激の強すぎる話でしたね。
ラトラーム殿、その話は後で二人でいたしましょう」
ユリにゾッコンらしいパトナにラトラームはにやにやと、いやらしく口端を上げた。
「そうですね。
では後ほどお部屋に伺うとしましょう」
ゆったりと頭を下げて去って行く。
「パトナ王子、そんな恐ろしい事をしたらスシーマ様がどれほどお怒りになるか……。
いけませんわ」
ラトラームが去るとすぐ、ユリはパトナに懇願した。
「ええ。しませんよ。
ただ宮殿の外に連れだし、シェイハンに追い返すだけです。
それならいいでしょう?」
パトナの言葉にユリはほっとした。
「本当ですね?
本当にシェイハンに返すだけですのね?」
「もちろんです」
そう言っておいた方がユリが良心を痛める事もない。
ラトラームにももちろん、シェイハンに返せと言うつもりだ。
ただ、あの下卑た男が、それを素直に実行する男かどうかは自分の知らない事だ。
勝手にしたらいい。
スシーマがどれほどシェイハンの女に執着していようとも、色町で穢れた女となれば、さすがに興味もなくすに違いない。
「後はあのシェイハンの女をどうやって宮殿の外に連れ出すかです」
「無理よ。
スシーマ様の隠密が四六時中ついているのですもの」
「でも先日、湯浴み場では簡単に近づけたではありませんか」
「あそこは男子禁制だから……」
「ではそれを利用する他ありませんよ」
「え!」
ユリは伺うようにパトナを見た。
「何か連れ出す口実はありませんか?」
「そんなこと……」
しかし、湯殿で僅かに交わした会話を思い出した。
「そういえば、ここには無理矢理連れて来られたと侍女が申しておりました。
本当はアショーカ王子のいるタキシラにいたかったのだと……」
「では兄上が無理矢理連れ出したと?」
「ええ。確かにパータリプトラで出会った時も、あの姫はスシーマ様よりアショーカ王子の事を気にかけてらっしゃったわ」
それはそれで腹立たしい。
なんだかスシーマ王子がアショーカ王子に負けたようではないか。
二人の心に筋違いな怒りの炎がメラメラと燃え上がった。
「ではアショーカ王子が迎えに来ていると言えば、自らすすんで宮殿を出るかもしれませんね」
パトナは良い案を思いついた。
「でもどうやって伝えるのですか?」
「侍女を間にはさみましょう。
ユリ殿の侍女なら接点を持てるはずです」
思いがけなく簡単かもしれない。
難攻不落に思える五麟だが、姫自らの意思があれば、背中を一押ししただけで連れ出せる。
あとはラトラームに任せればいい。
罪悪感は無かった。
むしろ二人には正義感があった。
魔女に呪をかけられた皇太子を救う。
これは未来の王となるスシーマ王子のため、ひいてはその王子が未来治める民のためだ。




