11 湯浴み場のユリ
ミトラは部屋の窓から見えるウッジャインの夕暮れを寂しげに見つめていた。
「ミトラ様。湯浴みの準備が出来ました」
タキシラを出てから元気がないミトラにソルは日々罪悪感がつのっていた。
「そうか……。分かった」
ソルがヴェールを掛けるため近付く。
「タ、タキシラに帰りたいのですか?」
思わず尋ねた。
「もちろんだ。
アショーカにシェイハンを任せっぱなしだ。
また迷惑をかけてしまった」
「アショーカ様……?
いいではないですか。
タキシラの太守なのですから、あの方の仕事でもあります」
「確かにそうだが……。
そして私がタキシラにいたからといって、大した事も出来なかったのだが……。
まんまと攫われて、アショーカがひどく怒ってるような気がする」
それはそうだろうとソルは思った。
ただしミトラにではなくスシーマ王子にだ。
「いや……、もう呆れて私の事など忘れてしまったかもしれぬな。
サヒンダなどはせいせいしている事だろう。
ヒジムとトムデクは少しは寂しがってくれてるかな……」
忘れるはずがない。
ミトラを取り戻すため画策しているはずだ。
むしろすぐに追いかけてくるかと思っていた。
ミトラとソルは、アショーカ達がスシーマに膨大な激務を与えられた事など知らなかった。
だからミトラもアショーカが迎えに来てくれるのではないかとほんの少し期待していた。
でも十日の道中も、ウッジャインに来て三日目の今日も、何の音沙汰もない事が無性に寂しかった。
「せめてラピスラズリの額飾りがあれば……」
ミトラは毎日のように呟く。
自分と並び立つ者になれと渡された、アショーカからもらった唯一の贈り物だ
ソルは最後に額飾りを入れるかスシーマ王子に尋ねてしまった事を後悔していた。
あの時こっそり衣装箱に入れてあげれば良かった。
あれほど大事にしていたのだ。
「あの額飾りだけでも手元にあれば、アショーカと繋がっているような気持ちを持てた」
ここにはアショーカを感じる物が何も無い。
ぷっつりと絆が切れたような不安がミトラを絶望させる。
「なぜ、そうまでアショーカ様と繋がっていたいのですか?
会うたび怒鳴られて、怒ってばかりの方ではないですか」
ソルには分からない。
「慣れてしまったのかもな。
あのアショーカの怒鳴り声を聞かないと生きてる気がしない。
夢と希望に溢れてタキシラを治めるアショーカを見るのが好きだった」
「ミトラ様は……アショーカ様を愛しておられるのですか?」
もしや自分はとんでもない間違いを犯してしまったのではと、ソルはおずおずと尋ねる。
「愛?」
ミトラは首を傾げる。
「愛と好きは違うのか?
私には分からぬのだ。
どこまでが愛でどこまでが好きなのか……。
ただシェイハンを追われて後、マガダでアショーカと出会い、その後はとんでもない存在感で常に私の心にいた。
良くも悪くも、私の心の一番多くを占めている。
会っている時も、こうして長く会えない今も……」
それを愛しているというのではないのかとソルは青ざめた。
「申し訳ございませんミトラ様。
私が至らぬ侍女であったがために……」
涙を溜めるソルにミトラは驚いた。
「何を言うのだ、ソル!
そなたはいつも私のために一生懸命になってくれる。
私はそなたがここにいてくれて本当に良かったと思っているぞ」
慌ててソルは涙を拭った。
そうだった。
もしこの自分にまで騙されていたと知ったらミトラがどれほど傷つくか。
決して話してはならない。
自分の罪は自分一人が背負えばいい。
「さあ、湯浴みに参りましょう」
ウッジャインの宮殿の女性用の湯浴み場は地階に一つあるだけだった。
小部屋に幾つか別れてはいるが、出入り口は一つだけだ。
入り口にまでつき従った麒麟はそれ以上入る事が出来るはずもなく、他の衛兵達と扉前に控える。
隠密ももちろん中には入れない。
ヴェールを着けた女達が行き来する中、麒麟は、すぐに見知った顔に気付いて青ざめる。
「お待ちを! ユリ様」
侍女を連れて入ろうとするユリに慌てて声をかける。
「あら、何かしら?
私は湯浴みをしに来ただけよ。
私に湯浴みするなと言うの?」
高飛車に言い切るユリに麒麟は困った。
「いえ、しかしもう少し後でお入り下さい」
「まあ! 私がいつ湯浴みをしようが勝手じゃない。
行きましょう、みんな」
ユリは戸惑う麒麟を押しのけ、侍女達を連れてさっさと中に入ってしまった。
入ってしまえば、もう追いかける訳にはいかない。
慌てて五麟の角端を呼び寄せ、スシーマ王子へ報告に走らせる。
スシーマ王子が自分の女官を湯浴み場に入れて、ミトラの小部屋に向かった時には、すでにユリはヴェールを外したミトラに対峙していた。
「な! あなたは!」
「あ!」
ミトラはヴェールを外して衣装を脱ごうとしている所だった。
ユリは目を見開いてわなわなと震えていた。
「ユリ殿……。どうしてここに……」
「聞きたいのはこっちの方だわ!
なぜシェイハンの女がここにいるのよ。
あなたはアショーカ王子のものになったのではないの?」
「アショーカのもの? 結婚という事か?」
「結婚でも愛人でもなんでもいいわよ!」
突然小部屋に乱入してきて騒ぎ立てる無礼な姫にソルがミトラを庇うように前に立つ。
「どきなさい侍女!」
「いいえ、どきません!
我が姫様になんと無礼な!
誰かっ! 来て下さい!」
「ふん! あなたの方こそ私を誰だか分かってるの?
帝王コーサラの娘よ。
属国の一つでしかないシェイハンの女なんかよりずっと身分が高いのよ!」
ユリの周りには高級女官が三人立ち並ぶ。
女官とはいえ、皆、若年のソルなどが逆らえない威厳を持っていた。
ソルは青ざめてミトラを背に庇う。
「ス、スシーマ様に言いつけます……」
その言葉にユリはカチンときた。
「どうやってスシーマ様を手なずけたの?
色仕掛け? それとも魔力を使ったの?
言いなさいよ! シェイハンの卑しい魔女!」
「し、失礼な!
ミトラ様はアショーカ様のいるタキシラから離れたくなかったのに、無理矢理連れて来られたのです。
ミトラ様は仕掛けられた方ですわ!」
「なんですって!
スシーマ様がそんな事するはずがないわよ!
いい加減な事を言わないでちょうだい!」
ソルを力ずくでどけようとした所で、スシーマの女官が到着した。
「おやめ下さい、ユリ様。
スシーマ様よりのご命令です」
冷静に間に割って入ってきた老齢の女官に、ユリとユリの女官達はたじろぐ。
どうやら相当格上の女官らしい。
「スシーマ様のお怒りを買いたくなければ、今すぐここからお立ち去り下さい」
ギロリと睨まれ、ユリは悔しそうに唇を噛む。
「い、いいわ!
だったらスシーマ様に直接お尋ねするから!」
ユリとその女官達はぷいっと部屋から出て行った。
ミトラはもう少し話したかったと残念に思っていた。
ちゃんと話せばユリが怒っている事が誤解だと説明できると思っていた。
しかしソルもスシーマの女官もちゃんと話せば、ますます怒りを買う事を分かっていた。
スシーマが間違いなくミトラを寵愛している事をミトラだけが気付いてないのだ。
「不愉快な思いをさせました、巫女姫様。
我らがこの小部屋の前で見張っていますので、どうぞごゆっくり湯に浸かって下さいませ」
老女官は慇懃に頭を下げ、小部屋の外に出て行った。
「何なのですか? あの失礼な姫様は?」
二人きりになってソルが尋ねた。
「スシーマ殿と古くから懇意の方らしい。
私も一度会っただけだが、スシーマ殿を昔から好いていらっしゃるようだった」
あれだけ麗しい王子なのだ。
そんな姫の一人や二人いてもおかしくはないとソルは思った。
たとえ王子がミトラ一人だけを愛すると言っても、他の姫達が黙ってはいないのだ。
あの聖人君子のようなアロン王子でさえ、王子の知らない所で熾烈な女同士の戦いがあったのは聞き知っていた。
王子と名のつく者の妃になるならば避けては通れない試練の一つだ。
この姫様に耐えられるだろうか?
ミトラは同年代の姫に嫌われた事を、ただしょんぼりと受け止めている。
余りに純真で幼い姫だった。




