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アショーカ王の聖妃  作者: 夢見るライオン
第一章 出会い編
12/222

12、アショーカとミトラ

 

 門の中は驚くほどの緑の平原が広がり、真ん中に薄く水を張った水路が流れていた。

 所々蓮の花が咲き乱れ、その両側を石畳の広い道が貫いている。

 道の脇には形良く整えられたやしの木々が連なり、その遥か向こうには、金色に染まる巨大なすり鉢状の屋根が居並ぶ壮大な宮殿が聳え建っていた。


「宮殿……。

 ここは王宮じゃないのか?

 まさか……マガダのビンドゥサーラ王の……」


 あわてるミトラを制止するように、レオンが左手を出して首を振った。

 騒がない方がいいという事か。

 しかし何故こんな事に……。

 兵士達が謀ったのか?

 だとすれば導師は何も知らずチャーナキア殿の屋敷に向かっているのか?


 ミトラが目まぐるしく考えをまとめる間にも一行はどんどん進み、本宮殿の横の脇道に逸れ、奥に進んだ。

 奥には龍華樹が生い茂る森が点在し、四方にすり鉢状のとんがり屋根だけが見えている。

 どうやら奥宮殿がいくつかあるらしい。

 なんと途方もない広さ。壮大さ。


 やがてミトラ一行は右手奥の、枝根の垂れたバンヤンの木々が密集する宮殿に辿り着いた。


 太い木柱は見事な彫刻が吹き抜けの天井まで掘り込まれ、蔓草が這っている。

 数段の階段を上ると奥行きのあるテラスが城を取り囲み、欄干の一本一本は草木の模様に彫られ、赤、青、黄の花輪が垂れている。

 城の奥に続く広い廊下には孔雀の尾羽が両脇の壁を艶やかに飾る。


「レオン!」


 馬から下ろされ屋敷内に入るよう促されるミトラの後ろで、レオンは兵士に両腕を掴まれ留め置かれている。

「レオンも一緒にいさせてくれ!」

「言う通りになさって下さい。手荒にしたくありません」

 騎馬隊の隊長が感情のない冷たい声で言い放ち、レオンが言う通りにしてくれと肯いた。



        ※        ※



「ミスラの神よ。

 一体どれほどの試練を与えればあなたは満足なさるのでしょう。

 私があなたを怒らせる何をしたというのですか?

 それとも聖大師様の不義を怒っておいでですか?

 でもあれはイスラーフィルが無理矢理に……」


 いや……本当にそうだろうか?


 ミトラは、この半年の聖大師様の変化を思い返した。

 まるで恋をする村娘のようではなかったか?

 人並みな女としての結婚を望んでいるような口ぶりであった。

 聖大師様はイスラーフィルに恋をしたのか?

 だとすればミスラ神がシェイハンを見捨ててしまっても仕方がないのか……。


 兵士達に案内された部屋は階段を二つ上った三階の部屋だった。

 扉の前にはすでに兵士が二人見張っていた。

 そして、何故か隣の扉にも兵士が二人ついていた。

 もしや先に導師殿が捕らえられて監視されているのかもと思ったが、兵士に問いかけても何も答えてはくれなかった。


 室内は調度のすべてが豪華で、一応貴賓扱いは受けているようだった。

 床にはふかふかのユキヒョウの毛皮が敷かれ、テーブルには酸味のきいた果物パルーシャカと山羊のバターミルクも用意されていた。

 大きな窓の向こうには広いテラスがあったが、そこにも兵士が二人配置されている。


「ミスラの神よ、聖大師様の行いにお怒りであるのなら、どうか私をいかようにも罰して下さい。

 されど導師殿とレオンは関係ありません。

 どうかあの者たちはお救い下さい。

 最後の願い、もし叶えて下さらないならミスラの神よ、あなたを死して後までも恨み続けます。

 きっときっとあなたを生涯困らす鬼ババとなってあなたに付き纏い、朝に夕に呪いの呪文を耳元で囁いてあげましょう。だからどうか……」

 あれこれ考え尽くした挙句、ミトラは神に脅迫めいた祈りを捧げるぐらいしか思い浮かばなかった。

 自分の無力さを思い知らされる。


 恨み言を並べ尽くしたミトラは旅の疲れと共に、いつの間にか気を失うように眠っていた。




 突然の叫び声に目覚めた時には、すでに日は落ちて、窓いっぱいに迫りくる三日月が浮かんでいた。


「お待ち下さいっっ!」

「どうかっ!」

 衛兵らしき男達が口々に声を上げている。


(もしや導師殿が逃げようとして?)


 ミトラはあわてて窓辺に駆け寄り、テラスに出た。

 隣室の物音を地続きのテラスごしに覗っていた兵士が、あわててミトラの前に槍を重ねる。


「どいてくれ! 導師殿ご無事ですか!」

 ミトラは槍を振り払おうともがく。


「プアアアーーーン!」


 予期せぬ鼓膜を裂くような中庭からの慟哭に、ビクリと心臓が跳ねる。

 テラスの手すりにもがき出たミトラの眼下には、中庭の松明に照らされた巨大な象の姿が映った。

 象を見たのは初めてではないが、シェイハンではあまり身近な動物ではなかった。


「プアアアーーーン!」

 雄叫びと共に振り回す長い鼻が、ミトラの眼前をかすめる。


 象の両側には馬に乗った奇抜な衣装の、男が二人と女が一人。

 派手な色のキトンのような布を、動き易そうな足筒型に加工している。

 横結びのターバンと背に垂れるマントは、ひだと刺繍をふんだんに使った豪華な物だ。

 神話から抜け出た戦士のようだとミトラは思った。


「プアアアーーーン!」

 鼻を突き上げ雄叫びを上げる象に再び視線を戻す。


 ミトラは、はっとして自分を見つめるその象の瞳に見入った。


(聡明な瞳をしている……)

 不思議な感動が胸を満たす。


 獣のような目をした人間もいるが、同じように知性のある目をした獣もいる。

 しかしこの象は知性どころか……神性すら感じさせる。


「アショーカ王子!」


 衛兵の叫びに我に返る。

「お待ち下さい!

 王より今日はこの部屋から出すなときつく言われています!」

「王子に脱走されたら私達は死罪です! どうか!」

 衛兵は四人がかりで王子を引き止めている。


 まだ十代らしい年若の王子と呼ばれた青年は、黒ずくめの衣装に青い剣帯を巻き、青地に金糸の刺繍の入ったターバンを横結びにしていた。

 象の戦士達とよく似た足筒型の装いだ。


「死罪になるのはお前達に能力がないからだ。

 俺の知ったことではない。諦めろ」

 面白がるような不敵な声は皮膚に響く大声で、人を惑わす魔物の色香を放つ。


「どうかご容赦を……」

「ああっ、お前達も手伝ってくれ!」

 一人の衛兵がミトラを抑える兵士に気付いて助けを求めた。

 その言葉に王子が振り向いた。


「あ……」


 どちらとも分からぬ驚きの声が漏れる。


 ヒンドゥ人独特の浅焼けた肌に、柔らかな黒髪がはねる。

 しかし、灰と緑を混ぜた不思議な色合いの瞳と、端正な目鼻立ちはギリシャ人を思わせる西洋造りだ。

 額に印す青いティラカはヒンドゥで人気と聞いたシヴァ神の第三の目を表しているのだろうか?

 見た事のない顔立ち。

 どこか人の心を騒がせる容貌だ。


 ミトラは素直に美しいと思った。


「翠の瞳のローヒニー……」

 王子はミトラを見て驚いたようにつぶやいた。


「月色の髪の……」

 夜空に佇む鋭利に細い三日月は、それでも充分にミトラの髪に映えた。



「アショーカ何やってんだよ! さっさと来いよ。

 ガネーシャがご機嫌斜めなんだ」

「早くしないと警備兵に囲まれるよ。まずいったら」

「とっとと来なければ置いていきますよ!

 衛兵ごときに、なに手間取ってんですか!」


 テラスの外から仲間とおぼしきさっきの神話の戦士達が叫んでいる。


「そら耳が聞こえてきたな……」

 王子はミトラから視線を外すと、衛兵達の手を右に左に面白いようにくぐり抜け、トンと地面を蹴って手すりの上に飛び乗った。


 そして、確かめるように、もう一度振り返った。


 月が灰緑の瞳を琥珀に色づける。


「蝕の悪魔ラーフが月から攫ってきたか……」

 呟いて、少女が儚く消える幻ではなかった事に安堵する。


 そして呆然と自分を見上げるミトラに、ふっと不敵な笑いを見せると、グラリと体が傾いだ。

 そのままテラスの外に逆さまに墜ちていく。


「うわあああ王子!」

「王子が落ちた!」


 衛兵の叫び声に煽られるようにミトラは手すりに駆け寄って下を覗いた。

 落ちていく王子の体を象が長い鼻を器用に揺らして二回ほど跳ねさせた後、すっぽりとその背中に収めた。


「じゃあな! 死罪の衛兵ども」


 王子は象の背中で手を振って、悠々と行ってしまった。




次話タイトルは「ビンドゥサーラ王」です

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