4 穏やかな側近トムデク
「なんなのだ!
みんなして邪魔者扱いしおって!」
アショーカはぶつくさ言いながら、知らず知らず南の塔のミトラの部屋に来ていた。
主を失った部屋は無機質で温かみのない廃墟のようだった。
きちんと掃除をして、調度も整えられているというのに、ミトラがいないだけで心が凍るほど寒々しい。
ミトラが置いていったラピスラズリの額飾りは高価なもののため、この部屋に置いておく訳にもいかず、アショーカの太守室で預かっている。
「ミトラのやつめ。
大事にすると言っておきながら、置いていきおって……」
いや、たぶんそんな事を考えるヒマもなく眠らされたのだろう。
分かってはいるが、腹立たしい。
ドサリとベッドに寝転がった。
「あれ? アショーカ?」
そこに側近トムデクが入ってきた。
「なんだトムデク。こんな所に何用だ?」
「用ってほどでもないんだけどさ、一日一回は見回りに来てるんだ。
ほら、ミトラ様が攫われた事を知らない者もいるしさ。
こそこそ動き回る者がいたら、今のうちに少しでも捕まえてやろうかと思ってさ」
「そうか……」
みんなそれぞれにミトラを取り戻す事を信じて動いているのだ。
「元気がないね。まあそうだよね」
トムデクはそっと遠慮がちにベッドの足元に腰かける。
大柄な重みにベッドが軋んだ。
縦にも横にも大きいトムデクは、最近更に背を伸ばし、縮れた黒髪は菩提樹のような木陰を作るほどで、顔と頭の面積が大きい事を、よくアショーカやヒジムにからかわれている。
その黒牛のような外観に反して、性格は穏やかで優しい。
代々勇敢な武官を輩出してきたトムデクの家は戦闘階級の名家で、父と長兄はパータリプトラに近い領地を守り、次兄はビンドゥサーラ王の近衛武官になっていた。
三男坊のトムデクは幼い頃から体格にも恵まれ、腕力に優れ、一番天賦の才があると言われていたが、性格が優し過ぎた。
虫も殺せぬ優しさがトムデクの出世への道を閉ざし、親兄弟を失望させた。
実際、剣の試合をしても弱い。
……というか勝った事がない。
勝ちそうになると力を抜いてしまう。
だから本当は強いのか弱いのかもよく分からなかった。
アショーカはそんなトムデクに声をかけ、馭車になる道を開いた。
その腕力はどんな暴れ馬も巧みに操り、今ではおそらくヒンドゥ一の腕前だ。
このタキシラでは戦車部隊の隊長をつとめている。
陰謀や策略には向かないが、何があっても裏切らないだろう信頼が、頭の切れすぎるアショーカやサヒンダやヒジムには心地良かった。
トムデクがいるから四人が安定して結束しているといっても過言ではない。
「なあ、トムデク。
俺はミトラを迎えに行くべきなんだろうか……」
アショーカの言葉にトムデクが驚いた。
「え? 迎えに行きたくないの?」
「そうじゃない。
そうじゃなくて、このまま兄上の元に置いておいた方がいいんじゃないかと、ふと思うのだ」
「ええっ! 正気なの?」
あれほど執着して大事に想ってきた相手ではないのか。
そのために女性部隊を作ったり、スシーマ王子の難題を必至にこなしているのだ。
サヒンダとヒジムに今更こんな事を言ったら袋叩きにあいそうだ。
だからトムデクにしか言えない。
「俺はタキシラに来てから後、この都市が栄えるために出来る事があれば何だってするつもりでいたし、実際やってきた。
次々いろんな政策が浮かんできて、成功するたび自分が誇らしかった。
失敗してもすぐに次の成功に向けて改善策を練った。
どれほど忙しくても辛いと思った事などない。
毎日が希望と夢に溢れ、楽しくて仕方なかった」
トムデクは頷く。
それは側で見ていた自分が一番良く知っている。
アショーカは昔から行動力があって、やると決めたら必ず成し遂げる男だったが、真面目な男ではなかった。
気が向かない事は意地でもやらないし、面倒な事はすぐに放り投げる。
どちらかといえば不真面目な男だし、くだらぬいたずらに命をかけるバカな所もあった。
無茶をやって酷い目にあった事もあるし、どんなに不利な場面でも、自分の信念を曲げない不器用さに何度も危機に立たされた。
そんなアショーカを慕ってもいたが、心配でもあった。
それがタキシラに来てからは有り得ぬほど真面目に政務に取り組んだ。
時々無茶はするが、信頼出来る主君へと変貌しつつあったのだ。
「タキシラの民のため、俺についてきてくれたお前達や騎士団のため、俺はこうまで一生懸命になれるのだと思っていた」
「違うの?」
トムデクは首を傾げる。
「いや、実際そうなのだと思う。
ただ……民や騎士団の笑顔の先に、俺はいつもミトラを見ていたのだ」
「ミトラ様を?」
「ミトラに誇れる男でありたい。
あいつが尊敬して止まぬような凄い事をやってみせたい。
その想いが俺の根底にいつもある」
トムデクはタキシラに来てからのアショーカの変貌はそれだったのかと納得した。
「ミトラはあんな弱々しい生命力のくせに、信念だけはどんな屈強な男よりも強く揺るがない。
どんな不正も差別も許さない女だ。
あいつに認められたいがために、それだけのために俺は惜しみなく努力出来た。
別にべったり一緒にいなくても、何日か会えなくても平気だった。
ただここに、この部屋にいて俺のする事を見ていると思うだけで俺の張合いになったんだ」
「だったら尚更迎えに行くべきじゃないの」
トムデクには分からない。
そうまで大切な相手をなぜ恋敵に渡そうとするのか。
「俺の元に戻れば、ミトラはシリアへ行く事になる。
いや、俺と並び立つと言ったのだから、どんな危険に巻き込むかも分からない」
「それは……そうかもしれないけど……。
ミトラ様がいなきゃ張合いがないんでしょ?」
「ミトラがここにいないと思うと、政務がひどく重苦しい重圧ばかりの面倒な事に思えてきた。
本来の俺はこういう、ちゃらんぽらんな男だったという事を思い出した」
トムデクは慌てる。
「ダ、ダメだよアショーカ。
太守なんだから投げ出さないでよ。
だから早くミトラ様を迎えに行こうよ」
「俺は怖いのだ」
「怖い?」
アショーカの口から怖いなどという言葉を聞いたのは初めてだった。
「ミトラがこの宮殿にいないというだけで、俺にとって希望溢れる太守殿から、重責ののしかかる牢獄のように変わったのだ。
それがどういう事か分かるか?
万一ミトラが命を落として、この世界からいなくなったとしたら、俺にとってこの世界がどれほど色あせたものになるか……」
「アショーカ……」
兄のヴィータショーカを失って荒れ狂っていたアショーカを思い出す。
ミトラを失えばあれ以上に自暴自棄になるのは目に見えている。
「俺の元に連れ戻して、万一ミトラを死なせてしまうぐらいなら、兄上の元でもいいからこの世界にあいつが息づいていてくれた方がマシなのだ……」
「アショーカ……」
トムデクは苦悩の顔を歪めるアショーカにどんな言葉をかけていいか分からなかった。




