1 攫われた巫女姫
「ミトラ、いい加減機嫌を直してくれ。
私はそなたの身を案じて事を起こしたのだ。
すべてはそなたの為なのだぞ」
ヒンドゥ中のすべての姫達がその妻の座を狙っているとまで言われるスシーマ王子は、目覚めてからずっと無視し続けるミトラにほとほと困っていた。
紀元前六世紀から紀元前五世紀まで、ヒンドゥ北部ではおよそ十六の大国が相互に勢力を争っていたという。後にナンダ朝のマガダ国によって征服されるまで離合集散を繰り返し、やがて四つのジャナパダ(大国)に分かれた。
マガダ国、コーサラ国、ヴァッサ国、アヴァンティ国。
最終的にマガダに従属する形にはなったが、マウリア朝の時代にも他の三国の王はサムラート(帝王)を名乗り、重要な地位を占めていた。
「私の為と言うならすぐにタキシラに返して下さい。
私はシェイハンの聖大師なのです。
こんな遠き地に来て何をすると言うのですか。
民から離れては何も出来ない」
深海を思わせる溺れ落ちそうな翠の瞳は、幾つも年上であろう麗しい王子を睨みつけ、腰まである月色の髪は動くたびにサラサラときららかな陰影をつける。
十四の姫にしては痩せて小さな体は、見た目以上に軽い。
持ち上げた者はみな、人であることさえ疑う軽さだが、本人にその自覚はない。
「おお、やっと口をきいたか」
文句でもなんでも、ようやく口を開いたミトラにスシーマは喜んだ。
スシーマ皇太子がタキシラを出て向かった地ウッジャインは、ジャナパダの一つ、アヴァンティ国の首都であり、マウリア朝の太守の宮殿が置かれた主要な都市であった。
王都パータリプトラとタキシラを繋ぐホドス・バシリケ(王の道)が途中で二手に分かれてウッジャインまで続いている。
距離的には少し遠回りになるが、スシーマ一行は沿道に連なるバンヤンの木々が木陰をつくり、給水所も完備されている安全な道を進んだ。
道中は山を越える事もなく、時折地面の起伏に馬車の車輪をとられる事はあったが、豊かな農園や牧草地を眺めながらの旅は中々にのどかで心地よいものであった。
しかしミトラの為に再度組み立てられたゲル馬車の中で、小柄な巫女姫は頬を膨らませ、目の前の麗しい王子に七日目の今日まで口をきこうともしなかったのだ。
「私は怒ってるのです!」ミトラは憤る。
「そなた、いい加減女だという自覚を持て。
そなたがシェイハンのために出来る事は、政治に口を出したり、ましてアショーカとシリアに行く事でもない。
しかるべき男の妃となってシェイハンの血を継ぐ子を産むことだ」
「私には国を治める能力がないと、そうおっしゃりたいのですか?」
射るような翠の瞳がスシーマに向けられる。
初めて出会った時と同じ強い光。
怒りと敵意に溢れているのに、スシーマの心は甘美の想いに震えた。
ああ、そうか……と気付く。
あの瞬間から、すでに自分はこの姫に心を奪われていたのだ。
今更ながら運命を感じる。
「そうではない。
シェイハンの民はそなたに心酔している者も多い。
危険に身を投じて民を不安にさせるなと言っているのだ。
そうであろう、ソル?」
急に話を振られて、側で茶器を片付けていた侍女のソルはギクリと肩を震わせた。
侵略されたシェイハンでミトラの兄、アロン王子の侍女であったソルは、タキシラにミトラが囚われていると聞いて、侍女に志願してきたのだ。
そばかすののった白肌に、赤の巻き毛はシェイハンで最も一般的な容姿だった。
「は、はい。た、民はミトラ様の身の安全をつ、常に願っております……」
ソルは目覚めてから後、スシーマに声をかけられる度、怯えたような顔をする。
「そう緊張するな、ソル」
困ったもんだとスシーマはため息をつく。
「緊張して当たり前です!
私ばかりかソルまで脅して薬を飲ませるとは、怖がっても仕方がないでしょう!」
ミトラは憤る。
ミトラが気を失った後、怯えるソルにも無理矢理薬を飲ませ連れてきた事になっている。
しかし本当はシリア行きを憂慮したソル自身が、スシーマ王子と共に謀った事でもあった。
されど忠実な侍女であるソルは、大切な主君に薬を盛った罪悪感に押しつぶされそうになっていた。
そして、平然と謀り事をやってのけるスシーマ王子の本当の恐ろしさを知った事と、良心の呵責でいまだ動揺が隠せてない。
「侍女殿にも嫌われたか」
「い、いいえ、皇太子様を嫌うなど……」
ソルは慌てて否定する。
「ソル、遠慮せずとも良いぞ。
もっと罵倒してやるがよい。
私はタキシラに帰してくれるまで許さないですから!」
スシーマは困ったように苦笑した。
惚れた弱みとはいえ、これほど好き放題に言われながら素直に受けとめる王子に、傍に控える側近のナーガはまたしても意外な一面を見た。
有能で主君命の側近だが、頭に最強の毒蛇を二匹ターバン代わりに乗せているのが、唯一最悪の欠点だった。
「ではシリア行きをやめると言うならタキシラに帰してやってもよいぞ」
あれほど苦労して攫っておきながら、譲歩の道を探すのかとナーガは呆れた。
「なぜシリアへ行ってはダメなのです。
今回のシリア行きはシェイハンの為と言ってもいい。
それなのに私が行かなくてどうするのですか」
「それもシェイハンを傘下に置いたアショーカの仕事だ。
任せておけばいい」
「何もかも人任せなのが嫌なのです。
私は自分でシェイハンを救いたい。
シェイハンの為に奔走するアショーカの役に立ちたい」
ミトラの口からアショーカの名前が出て、スシーマの眉がぴりりと上がる。
「アショーカはちゃんと分かってくれました。
後宮で囲われて生きるぐらいなら、私は今、この場で死んだ方がマシなのです」
ミトラはスシーマの表情が険しくなった事に気付かぬまま続ける。
「アショーカは……」
「黙れっ!」
突然大声で怒鳴られて、ミトラばかりかソルとナーガと、頭の蛇まで驚いた。
スシーマの大きな手がミトラの首筋をぐいっと引き寄せる。
「アショーカの名を二度と出すな!
私はヒンドゥの男にしては女に寛容だと自負しているが、他の男と比べられて笑顔で見過ごすほど優しい男ではない!」
いつも穏やかなスシーマに眼前で凄まれてミトラは蒼白になった。
六才も年上の男が本気で怒れば、ミトラの虚勢など吹き飛んでしまう。
「私がその気になれば、そなたなど今すぐ妻にして後宮に閉じ込める事も出来るのだぞ!
自分の立場をわきまえる事だな!」
怯えたように見上げる翠の瞳。
手に伝わる小さな体の震え。
ふと我に返ってスシーマは自己嫌悪に目をそらす。
「で、出来ると言っただけだ。
本当にそんな事をするつもりはない。
だからあんまり私を怒らせるな」
スシーマは呟くように言って、ミトラから手を離した。
「少し外の空気を吸う。ナーガ、来い」
スシーマはそう言ってゲルから出て行った。
ナーガもペコリと頭を下げてついて行った。
ゲルの馬車を一旦とめて、馬に乗り換えたスシーマ王子は盛大に落ち込んでいた。
「だいぶ翻弄されてますね」
ナーガは横に馬を並べて、くすりと笑った。
「何故ああも思い通りにならぬのだ、あの姫は?」
スシーマは長いため息をつく。
「私に聞かれましても。
私などは女が思い通りになった経験がございませんので」
「私は思い通りにならぬ女などいなかった」
「自慢ですか?」
「自慢話をする余裕があるように見えるか」
ふふっとナーガは可笑しくなった。
そうなのだ。
この王子は今まで、あまりに要領が良過ぎた。
努力もするし才能もある。
欲しいと思った物は必ず手に入れたし、そのための努力も惜しまなかった。
公正な心もあれば、適度な狡猾さもある。
王となるために生まれたような男。
しかし、またそれが不安要素でもあった。
順風満帆過ぎて心配だった。
挫折を知らな過ぎる。
それがアショーカ王子との一番大きな違いだ。
踏みつけられて這い上がる精神力。
その部分だけはどうあがいてもかなわない。
かといって命を危険に晒すような挫折を味あわせたくはなかった。
ミトラはちょうどいい。
この堅物のモテ男に恋の挫折を味あわせられる女などいないと思っていた。
だからミトラはスシーマ王子を王として完成させるために現われた姫に思えた。
大いに苦悩して翻弄されれば良い。
そして最後には手に入れる。
「最後には必ずスシーマ様の妃にさせてみせますよ。
私が全力で」
ナーガが自信たっぷりに告げる。
「何を言っておるのだ。
一人の女も思い通りに出来ぬやつが」
スシーマはナーガの言葉を本気にしていなかった。
しかしナーガにはスシーマが王として進むまっすぐな道が見えた気がしていた。




