11、導師
夜半にはレオンが質のいい馬を三頭調達して、そっとヤムシャ長老の馬小屋につなげてイスラーフィルの指示を待っていた。
馬の背にはミトラが長旅に辛くないようにクッションのきいた鞍がついていて、馬の両脇には水袋がそれぞれに下がっていた。
(武官なら誰でも配下に欲しくなる男だな……)
食料を調達してきたイスラーフィルは、それを見てつくづく感心した。
レオンが一緒なのは正直心強い。
一頭の背には膨らんだ皮袋が乗っていたが、おそらく長旅に必要な物が揃えてあるのだろう。
「ミトラ様が目覚めたら出発する。
お前も少し仮眠をとっておけ」
イスラーフィルはそれだけ言い置いてミトラのいる地下の隠し部屋に入った。
石の蓋を横にずらすと、地下に向かってはしごが下りている。
ランプの灯りが一つついただけの薄暗い室内には、少女の泣き騒ぐ声が響いていた。
どうやら目覚めたらしい。
「どいてくれ! 神殿に戻る。
聖大師様を、アロン王子をお助けする!」
長老が止めるのも聞かず、泣き腫らした顔で梯子をのぼってくるミトラと行き会った。
「神殿は焼け落ちました。
宮殿もマガダの軍隊が取り囲んでいて入る事など出来ません。
今は耐えて西方に逃げるしかないのです。
どうか冷静になって下さい」
「嫌だ!
聖大師様もアロン王子も生きているに違いない。
行って助けるのだ!」
狭いはしごをイスラーフィルをよけて這い登ろうとするミトラを、無理やり引き剥がして地下に下ろす。
ミトラの精一杯の抵抗も、頑強なイスラーフィルには赤子同然だった。
「そなたは何故私の邪魔をする!
何故このような場所に私を連れてきた!
まさか導師殿が言われていた事はまことなのか?」
その問いに、イスラーフィルの眉がピクリと吊り上がった。
「導師殿が一体何を言ってたのですか?」
穏やかだった顔が一瞬で殺気に満ちる。
「それは……」
ミトラはイスラーフィルの豹変に一瞬ひるんだ。
「言って下さい!
あの者があなたに何を吹き込んだのですか!」
イスラーフィルはミトラの両腕を骨が折れそうなほど強く掴んで揺さぶった。
尋常ではない様子にたじろぐ。
「やはり……本当なのか?」
イスラーフィルの動揺が真実だと語っている。
「だから何を言ったんだっっ!」
「聖大師様の腹の子は…………イスラーフィルの子だと……」
失望と責めの混じったミトラの視線を受け止め切れず、イスラーフィルは呆然と立ち尽くした。
「そんな……まさか……」
ガクリとミトラを掴んでいた両腕から力が抜ける。
その隙をぬって、ミトラはぱっと梯子に飛びつき外に駆け出した。
「ミトラ様!」
横をすり抜けられても突っ立ったままのイスラーフィルを押しのけ、ヤムシャがミトラを追いかけた。
「お待ち下され! ミトラ様! どうか冷静に」
ミトラは地下の部屋を抜け出すと、外に向かって駆け出した。
それは、ちょうど運良く馬小屋の方角に向かっていた。
「レオン!」
馬にエサをやっているレオンが目に入った。
「逃げるのだレオン!」
ミトラが叫ぶのと、一頭の馬の背に乗っていた皮袋が剥ぎ取られ、宙に舞うのがほぼ同時だった。
白銀の巻き毛が風を受け広がる。
いつも優雅に着こなしているキトンが黒く煤けている。
左肩は赤く焼け爛れ、憔悴しきった顔をしている。
こんな余裕のない導師を見たのは初めてだった。
「導師殿! 無事だったのだな」
だが、生きてくれていただけで、どんなにか心強い。
「イスラーフィルです。彼が火を放った!
私は阻止しようと彼を追い、ああ……すみません、すみません。
みんなを助けられなかった……」
苦渋に顔を歪める導師にミトラは抱きついた。
「ここにイスラーフィルがいる。逃げなくては!」
導師はミトラを自分の馬に引き上げた。
「ミトラ様! 行ってはダメです! どうか聞いて下さい!」
ヤムシャが叫ぶ。
「ヤムシャ! イスラーフィルはみんなを騙しているのだ」
「違います! 騙されているのはミトラ様の方です!」
ヤムシャが必死で老いた手を差し出す。
くいっと導師が馬首を返したので、ヤムシャの手がすり抜けた。
「行くぞ! レオン!」
導師はレオンに声をかけると馬に鞭打った。
レオンは馬に飛び乗ると導師の後に続き、もう一頭の馬も引き連れて駆け去った。
ヤムシャは呆然とその三人を見送る事しか出来なかった。
※ ※
ホドス・バシリケとはマガダの先王が作った別名『王の道』と呼ばれる街道だ。
ミトラはヒンドゥ仕様のヴェールで全身を覆い、導師が次に行く予定であったルンビニの村長の屋敷に向かうことになった。
王の道を通れば二十日ほどで到着するらしい。
ダンダカの森から先に行った事がなかったミトラは、その街道にマガダという国の強大さを見せ付けられた気がした。
戦車が行き会える幅に整備された道が、遥か先まで伸びていて、所々植えられた並木が木陰を作り、道中をすごし易くしている。
そして、いい頃合で設けられた庇のついた給水所が、旅人達の休憩所として賑わっている。
行く先々で様々な国のキャラバンが思い思いの荷を乗せたラクダや馬を引き連れ、情報を交換し合っていた。
大国の繁栄を肌で感じる。
キャラバンの商売人はみな気安く、宿をとる街々は活気に溢れている。
シェイハンの惨事を知っている者もいなかった。
だからミトラはすべて夢だったのではないかと錯覚を覚えた。
遠い空の下で、聖大師様もアロン王子もいつも通りの笑顔で日課をこなしているような気がする。
そう思いたかった。
翌日には平静を取り戻した導師だったが、その肩の包帯だけがミトラを現実に引き戻す。
近いうちに旅に出る予定だった導師が、シェイハンの王にもらっていた結構な額の給金を持って出ていたため、お金に困る事はなかった。
どんな高給をもらっていたのか、どの街に行っても最高級の宿と食事が用意されていた。
もっとボロ宿でいいと何度も言ったが、口の堅い安全な宿でなければ危険だと、湯水のようにお金を使ってしまう。
そのおかげか、追っ手にも刺客にも出くわす事はなかった。
「導師殿、もう一度説明してくれ。
本当にイスラーフィルが火を放ったのか?」
最後に縋るように見つめるヤムシャの姿が目に焼きついて離れない。
「はい。以前より私はあの者を怪しいと思っておりました。
実はシリアの旧友にあの者を調べるよう手紙を送っていました。
あの者は王の近衛部隊から脱走したと周りに吹聴しているようですが、実は王の信頼厚い密偵だと教えてくれました。
おそらくはアンティオコス王の密命を受けてシェイハンを手に入れるべく暗躍していたものと思われます。
さらに西方では信者の多いミスラ教徒を我が手に治めるべく、ミトラ様を連れ去ろうとしていたのではないかと……。
最初はおそらく聖大師様を連れ去る予定だったと思われますが、あの忌まわしき者は聖大師様の美しさに邪心を抱き、手篭めにしてしまったのだと……」
「もうよい!」
あまりにおぞましくてミトラはその先をいつも聞く事が出来ない。
身ごもって邪魔になった聖大師様もろとも焼き殺したというのか。
なんと惨い、恐ろしい悪魔に囁かれてしまったのか……。
聖大師様への気遣いも、ダンダカの森での誠意も、すべてミトラを信用させるための演技だったのだ。
もはや悪魔に心を売り、人の心を忘れてしまったのか。
「石工の老人が宮殿に攻め入ったのはマガダの軍隊だと言っていたが……」
「それを見たと言っているのはイスラーフィルただ一人です。
シリアの軍隊が攻め込むのをレオンが見ております」
「そうなのかレオン?」
ミトラは後方で馬を並べるレオンに振り返り、危うく悲鳴をあげそうになった。
この顔に比べればインドラさえも可愛いと思えるだろう百レオンの顔。
百以上の数字が理解の範疇を超えるミトラは常々、百レオンを越える恐い顔をしたら許さぬと申し付けてきたが、軽く超えてしまう凶悪さだ。
肌は青ざめ、その血は凍っているに違いないと思った。
レオンもイスラーフィルの裏切りが相当ショックだったらしい。
「し、しかしダンダカの森でもマガダの悪い噂は聞いている。
この街道を進めばマガダの首都、パータリプトラに着いてしまうのではないのか?」
ミトラは慌てて導師に向き直った。
「もともとこの道筋でルンビニに入る予定でした。
そのために先方よりヒンドゥ内の手形を用意してもらっていました。
下手に変えない方がいいでしょう」
「しかし……」
「私はマガダにも属国コーサラにも知り合いがおります。
何かあれば力になってもらえます。
ルンビニは仏教の始祖、釈迦の生誕地です。
私は仏教を深く掘り下げてみたくて次の旅先に選んでいたのですが、ミトラ様も違う宗教に触れてみるのもいいかもしれません。
そして今後の事をゆっくり考えればいいのです」
深い絶望の中で、ミトラはその導師の言葉に不謹慎にも心が躍った。
違う宗教。
偉大な聖者シッダールタ。
その生涯や教えに宗教家として興味がないといえば嘘になる。
すべてを失ったミトラは、その興味だけが今を生きながらえる支えになっていた。
やがてマガダに近づくにつれ、シェイハンとは違う香辛料の香りがつんと鼻をつく。
何故かザワザワと心が騒ぐ。
もちろんこれだけの経験をしたのだ。平穏でいられる方がおかしいのかもしれない。
でも、まだ自分には大きな試練が待ち受けているような嫌な予感が拭えない。
しかしそんなミトラの予感を払拭するように、二十日に及ぶ旅は意外なほど平穏に過ぎ行き、やがてルンビニへの関所が目前に見えてきた。
ヒンドゥの賑やかな街を出ると、牧草地帯が広がる先に巨大な塔門が聳え立っている。
その向こうにはヒマラヤの山々が、世界の終わりを示す境界のように突き立っていた。
しかし、あと一歩で関所を通り抜けるという場所まで来たところで、突然どこから現れたのか大勢の黄色のターバンを巻いた軍勢に取り囲まれた。
身なりのいい騎馬兵が三十はいるだろうか。
「何事だ!
我らはルンビニの村長殿のお招きで北へ向かう途中だ。
手形を確認すれば分かる」
導師がミトラを背後に庇い手形を差し出すと、先頭の隊長らしき年配の男がスルリと馬を降り、ひざまずいた。
「我らはチャーナキア様の命令にて、ご一行をお屋敷にお招きするよう申し付かっております」
「なに? チャーナキア殿が?」
導師は驚いたように応じた。
「ミトラ様、どうやらマガダの知人、非常に位の高いバラモンですが、彼が私がこの国に戻っている事を聞きつけてしまったようでございます。
申し訳ないのですが、このまま無視して通り過ぎるわけにも参りません。
少しだけ寄っていってもよろしいでしょうか?」
「知り合いなのか?
では私とレオンはどこか宿で待つことにしよう」
「いえ、ここではチャーナキア様の屋敷ほど安全な場所はございません。
一緒にお運び下さい」
「しかし……」
気が進まない。
「ご安心下さい。私が先に行って事情を説明して参りましょう」
「先に行くのか?」
ミトラの表情が曇る。
導師と離れるのは不安だった。
「そなたら、この方は大事な方ゆえ丁重に屋敷まで案内してくれ。
レオン、頼んだぞ」
ミトラが引き止める言葉も待たず、導師は駿馬を鞭打って行ってしまった。
馬を駆った砂煙だけが街道を赤く染める。
シェイハンとは違う独特の鉄を含んだ赤土は、遠い地にいるのだと改めて実感させる。
仕方なく軍隊に先導されるまま、ミトラとレオンはマガダの首都パータリプトラに入った。
三十の兵に囲まれ、道行く人々は何事かとミトラとレオンを見ていく。
「レオン、本当に大丈夫だろうか?
こんなに目立ってしまって……」
こっそり話しかけるのも躊躇うほど、レオンは更に無口で恐ろしい顔をしている。
首都パータリプトラに入るためには、五段橋が架かる広大な壕を渡らねばならなかった。
城門の上には物見の塔が無数に設けられている。
街自体が巨大な要塞になっているのだ。
街の中心地に向かって更に二つの壕を渡った。
そのたび建物は豪華で華やかになり、門に沿って多くの露店が並び、あの賑やかな商業都市タキシラが霞んでしまうほど賑わっている。
噂には聞いていたが、小国シェイハンとは規模が違う。
やがて跳ね上げ橋の架かる最後の壕を渡ると、一際高い城壁を構えた門には物々しい警備の衛兵が立ち並んでいた。
壁上の物見の塔にも無数の衛兵が並んでいる。
門を守る兵士達はミトラ達の一行を目にすると、頑丈な鉄の門を左右にゆっくり開いた。
「まさかこれが貴族の屋敷なのか?
シェイハンの宮殿の三倍はあるぞ」
これが貴族の屋敷だとすると、王宮はどんな規模なのか?
大国とは聞いていたが、想像以上だ。
しかし門の中に入ってすぐに、ミトラはそれが思い違いであった事に気付いた。
「ちがう……ここは……」
次話タイトルは「アショーカとミトラ」です




