39 嵐の前の静けさ
太守就任式から五日が過ぎ、浮き足立っていた人々もすっかり日常に戻っていた。
そして翌日には、いよいよスシーマ王子がタキシラを出発する事になっていた。
「ねえ、おかしくない?」
「あ?」
アショーカはヒジムと共にミトラの部屋に向かいながら振り向いた。
「スシーマ王子さ。
このまま素直に帰ると思う?
妙に大人しい気がするんだよね」
「ミトラの事か?
ウッジャインに公用もあるし、パータリプトラに帰って報告を済ませたら、また来ると言ってるのだろう?」
「そうだけどさ……。
なんか匂うんだよね」
「それ以上何が出来るというのだ。
ミトラは今シリア行きの事で頭が一杯なのだぞ」
「まあね。
とりあえずはスシーマ王子の妃になる云々の話は、もうミトラの中では吹き飛んだみたいだけどさ」
「あの堅物の兄上が公務を放って女にうつつを抜かすとも思えん。
心配し過ぎだ」
「もう堅物の朴念仁じゃないよ。
ミトラに出会って確実に変わったんだから。
用心しないと痛い目に合うよ」
「それより騎士団の隠密は大丈夫か?
兄上精鋭の隠密『五麟』は、明日の出発に向けて兄上のもとに返したらしいが、ミトラの警備に不備はないだろうな。
就任式の後も数人怪しき者を捕らえたと聞いているぞ。
正直言って、兄上の五麟に比べたら騎士団の隠密はまだまだ頼りない」
「まあね。
……というかスシーマ王子の五麟が別格過ぎるんだよ。
アッサカレベルの男が五人いるんだからさ」
「あのレベルになりそうな男はいないのか」
「うーん。
この間優勝したウソンなら充分素質はありそうだけどさ、あいつ胡散臭いからね。
昨日五麟が捕えた怪しい男がいるんだけどさ、人相からいって北の遊牧民なんだよね。
もしかしてウソンの仲間かと思って拷問にかけてるんだけど、中々口を割らないんだ」
「うむ。ウソンはダメだ。
ミトラに近付けるな」
「分かってるよ。
何人か隠密に身辺を探らせてるけど、しょっちゅう撒かれてる。
チャン氏にも精鋭を数人預けたから、隠密は今、人手不足なんだよ」
そこまで話した所でミトラの部屋に到着した。
部屋の外の衛兵が二人に気付いて拝礼すると、部屋の中のアッサカに取り次ぐ。
すぐさま応じて部屋の中に入ると、ミトラが満面の笑みで出迎えてくれた。
シリア行きが決まってから、ミトラは機嫌がいい。
……というより生き甲斐を見つけたように溌剌としている。
「アショーカ、待ってたんだ。
そなたに聞いておきたい事があって……」
ヤクの毛皮で覆ったソファにはアショーカが預けた衣装が所狭しと並んでいる。
ヒジムはすぐさま質のいいヴェールの数々を手にとって眺め始めた。
「聞きたい事とはなんだ?」
「先だってクロノス殿に、シリアに行ってもヴェールを着けるべきだと言われたのだが、そなたはどう思う?
ヴェールを着けたままでは額飾りが目立たぬと思うのだが……」
王妃達に売り込めとは言ったが、王に売り込ませるつもりは毛頭なかった。
自分が他国の王にミトラの素顔を晒させるわけがない。
当たり前の事だが、そんな常識がこの姫に通じているはずがなかった。
「誰が大衆の前でヴェールを外していいと言った。
そもそも各国の王達にお前を会わせるつもりなどない。
王に売りつけるのは俺の役目だ。
お前は各国の王妃や王女に欲しいと思わせたらいい。
俺はよく分からんが、お茶会だの花見会だの、女が好きそうな催しを開いて売り込め。
ついでに各国の姫達と役に立ちそうな友好関係を築いてくれれば合格点だ」
ミトラは衝撃を受けたように瞠目する。
それでは不満なのかとアショーカは身構える。
「なんだ! 何か文句があるのか?」
しかしミトラは祈るように胸の前で手を組んだ。
「文句だなんて……。
実は私はお茶会など行った事がないのだ。
そればかりか他の姫君とゆっくり話しをする機会すらほとんど無かった。
シェイハンでは神殿に籠もり、聖大師様と二人きりの事がほとんどだったし、女官も村娘達も崇め敬うばかりで、同等には思ってくれなかった。
マガダでも周りにいるのは男ばかりで……。
そういえばユリ殿とはほんの少し話す機会もあったが、それきりだし……」
自分が天幕の外に飛び出て、ビンドゥサーラ王に殺されそうになったのだった。
随分昔の事に思えるが、ほんの数ヶ月前の事だ。
「ユリか……。
確か兄上にぞっこんの気の強い女だったな」
スシーマと玉座を争うアショーカをいつも目の敵にしていた女だ。
あまりいい思い出はない。
「そうと分かればこうしてはおれぬな。
ソル、そなたはお茶会を開いた事があるか?
女性達はどんな話をするのだ?
教えてくれ」
「女官のお茶会など……高貴な姫君達の参考になりますかどうか……」
ソルは困ったように言いよどむ。
女官の控え室で話す事といえば、おおよそ恋愛の話ばかりだ。
今ならスシーマ王子をどこそこで見かけたという話だけで一刻は過ぎてしまう。
アショーカ王子も一時は不埒な噂のせいで下火になったものの、太守就任式から後は、また人気が盛り返している。
およそミトラが一番苦手とする話題だ。
「まあ……あまり頑張り過ぎぬようにな」
アショーカはまたとんでもないトラブルを起こしそうな予感に警戒を浮かべる。
「ところで明日の兄上の見送りの事だが、聞いていると思うが俺と側近三人は騎士団を連れてジェラム川の辺りまで護衛をかねて送って行く。
そなたはアッサカと宮殿に残る事になるが大丈夫だろうな?
俺達は早駆けで帰っても夕刻になると思うが、その間、警備も手薄ゆえに部屋から絶対出ないでもらいたいのだ」
「分かってる。
スシーマ殿も朝、部屋に挨拶に来られるゆえ、部屋からは一歩も出ないように念を押された。
皆に迷惑をかけぬよう、大人しくしている。大丈夫だ」
一抹の不安は残るが、アッサカと隠密と衛兵がいれば危険はないはずだ。
「それに私はやる事がいっぱいある。
西洋の姫君が喜びそうなお茶やお菓子の研究をせねば。
それから好みそうな話題も……。
私と友達になってくれる姫はいるだろうか?
シリアの姫とは皆、ミカエル様のような方ばかりなのだだろうか?」
夢見るように希望に溢れるミトラにアショーカは目を細める。
いろいろ不安要素はあるが、とりあえず明日は部屋から出る暇もなさそうだ。
安心して部屋を辞そうとしたアショーカは部屋の隅に積み上げられた衣装箱に目を止める。
見事な木彫り細工の、人が寝そべれそうな木箱が二つ積んである。
「この衣装箱はなんだ?」
アショーカが貸し出した衣装箱とは違う。
「ああ。スシーマ殿がパータリプトラから私にと持ってきて下さったのだが、お断りして一旦返したのに、昨日また持って来られたのだ。
だが随分高価な物のようだし、持ち帰ってくれと頼んでいる。
明日お別れの挨拶の時受け取ると言われて、そこに置いている。
ウッジャインの太守殿の手土産にするそうだ」
「ふーん、よく引き下がったね。
これ、相当いい品だよ。
衣装箱も見事だけど、衣装も最新の流行のものばかりだ」
ヒジムは衣装箱の中を覗いてほうっとため息を漏らした。
「堅物のくせに趣味がいいんだよね、スシーマ王子って」
ヒジムは残念そうにしばらく衣装を見つめていたが、諦めて蓋をする。
「ふん。物欲しそうに見るな!
行くぞ、早く来いヒジム!」
アショーカがいらいらと急かすのでヒジムはしぶしぶ部屋を出た。
嵐のように立ち去る二人を見送って、ソルはふうっと安堵の息を漏らした。
次話タイトルは「刺客」です




