38 クロノス子爵の評価
「……?」
三人の男達が入り口で立ち止まったまま一向に近付いて来ないので、ミトラは仕方なく出迎えに行く。
「あの……?
この衣装は変ですか?」
唖然とする男達に自信をなくす。
アッサカは思い出したように片膝をつき、イスラーフィルとクロノスはあわてて右手を胸に当て、拝礼の姿勢をとった。
「し、失礼しました。
そのように着飾っておられるのを初めて見ましたので」
イスラーフィルはゴホンと咳払いする。
「やはり似合わぬか?
私も少し派手すぎるかと思ったのだ」
「い、いえ、とてもよくお似合いです。
妖精が迷い込んだのかとクロノスなど、このように口もきけぬ状態です」
イスラーフィルが肘でクロノスをつつき、クロノスはようやく我にかえった。
「あ……、あの……想像と余りに違う容姿でしたので……し、失礼致しました」
「どのような想像をされてたのだ?」
ミトラは興味深げに問う。
「いえ、もっと妖艶な方かと……」
途端にミトラは傷ついた表情になる。
「つまり……殿方を惑わす容姿ではないのだな……」
心底がっかりしている。
「惑わすつもりだったのですか?」
イスラーフィルは可笑しくなった。
あまりにミトラに不似合いな言葉に思えた。
「何が足りぬのだろう。
精一杯着飾ったつもりだったのだが、私を初めて見た者はみなクロノス殿のように、ただ驚いた顔をされるのだ。どこか変なのか?」
「いえ、おそらく人でない者を見たと思うからでしょう」
「人でない?
妖怪か魔物に見えるのか?」
イスラーフィルは思わず吹き出した。
「妖精か天女と言って下さい。
こんな清らかな魔物などいませんよ」
「ではクロノス、私の第一印象を教えてくれ。
最初にどこに目がいった?」
下から覗き込むように見つめられ、クロノスは慌てて後ずさる。
「え? だ、第一印象ですか?」
それはすべての者が同じ答えをするはずだ。
「もちろん……その翠の瞳に……」
一度捉えられると、もう目が離せない。
噂には聞いた事があった。
聖大師様の翠の瞳は魔性だと。
囚われ狂わされると……。
だが自分だけは大丈夫と高をくくっていた。
子爵とはいえ貴族でもあり、将来有望な出世頭として女に不自由はなかった。
色気全開に寄って来る女も大勢見てきたが、適当に遊びながら、どこか冷めていた。
頭がいい分、女の計算高さと狡猾さが見えてしまうからだ。
自分は決して女に溺れる事はない。
たとえ聖大師様の魔性の瞳を見ても……。
そう思っていた。
まさかこんな無垢なものと思っていなかったから……。
どんなに探ってみても一片の穢れすら見付けられない清浄な美しさ。
想像もしていなかった。
これが神に仕える乙女というものなのか……。
「瞳か……」
ミトラはクロノスの戸惑いにも気付かぬまま、がっかりする。
「では二番目は?
どこに目がいった?」
「に、二番目ですか?」
もはや追い詰められたヤギのようにたじたじのクロノスにイスラーフィルは笑いを噛み殺す。
「その月色の髪に……」
真っ直ぐ垂らされた髪は天界の絹糸のようだ。
およそ人の世のものではない。
「髪……。で、では三番目は?」
ミトラは更に問い詰める。
「口元ですか……」
次々問い詰めても、ついにクロノスの口からラピスラズリの単語は出てこなかった。
ミトラはがっくりとソルを見た。
「ダメだ。
この衣装ではラピスラズリに目がいかぬようだぞ、ソル。
やり直しだ」
「ラピスラズリ?」
男達は首を傾げる。
「ラピスラズリが目立つ衣装を研究していたのです」
答えるソルを見て、クロノスはすぐにアロン王子の侍女だと気付いた。
人の顔は一度見たら忘れない。
「ミトラ様が身に着けた宝石は残念ながら脇役にしかなれぬでしょうな」
イスラーフィルが笑いながら答える。
「何故だ。それでは困るのだ」
「むしろヴェールを深く被って、その上に宝石をつける方がマシでしょう」
さもなくば、ミトラの容姿にばかり目がいって、宝石になど辿り着かない。
「それでは私でなくとも誰でも出来るではないか」
ミトラはしょんぼりする。
目の前でコロコロ表情を変えるミトラからクロノスは目が離せなくなっていた。
部族長会議でスシーマ王子が、ヴェールをつけさせるのは、男達が美しさに目を奪われ会議にならぬからだと言っていた。
あれは冗談ではなかったのだ。
いや、あるいは女を欲望の対象としか見ていない邪な男には興味の外なのかもしれない。
これは女神を望む男が欲しがる女。
まさに覇者の女だ。
しかも覇者にとっては目にしたが最後、唯一無二と執着する女。
マガダの二王子が執着する訳がようやく分かった。
そして賢明なクロノスはすぐに悟った。
これは間違っても自分のような一介の貴族ごときが望んでいい女ではない。
すぐさま一線を引く。
「聖大師様、畏れながら一つお願いがございます」
静かに頭を下げる。
「お願い? なんだ?」
「ギリシャ語の教師にという申し出を受け、喜んで尽力したいと望んでおりますが、どうかヴェールをつけたままでお願いしたいのです。
薄手の紗で構いませんので、どうか目元をお隠し下さい」
「目元を? 口元ではないのか?」
「はい。発音の練習に支障があるのであれば、むしろ口元は出して頂いても構いません」
「部屋の中でぐらいヴェールを外していたかったのだが……」
「承諾頂けぬのなら、この申し出は辞退させて頂きたいと……」
クロノスの言葉にミトラは慌てた。
「わ、分かった。
そんな事を言わないでくれ。
アショーカに何度も掛け合って、そなたとイスラーフィル二人揃ってならと許してもらったのだ。
そなたに断られたら他に当てがないのだ」
賢明な事だとクロノスは思った。
そしてそのアショーカ王子なら当然思っているだろう事を確かめる。
「シリアに行かれるそうですが、あちらではヴェールもつけずに人前に立っていいと、王子はおっしゃられましたか?」
「え?
だってシリアはヒンドゥと違って女が常にヴェールを付ける習慣はないと聞いたぞ。
シェイハンもそうではないか。
聖大師様はいつも付けておられたが……」
やはりな……とクロノスは頷く。
「アショーカ王子に同行するなら、ヒンドゥの習慣に従うべきです。
それにあなた様は今、聖大師様なのですよ。
聖大師様としての行いをすべきでございます」
ミトラは悲壮に顔を歪める。
「せ、聖大師様は私以外の前でヴェールを外す事などなかった。
せいぜいご神託の日に王族と七人のマギ大官の前で僅かに外すぐらいで……。
それでは私は部屋でもずっとヴェールを着けねばならぬ……」
それもまた大げさ過ぎるように思ったが、むしろシリアではそれぐらい警戒した方がいい。
間違っても各国の王達に見られてはならない。
おそらくは、我こそが天下の覇者と思う者ほど、この姫が欲しくなる。
「女人の間では外してもいいでしょう。
しかしヒンドゥの高貴な女性にとっては男性に素顔を晒す事は恥ずべき行いだそうです。
シェイハンの地方管理官代理としてお願い申し上げます。
シェイハンが他国に軽んじられる事のないよう、聖大師様におかれましては、今後は決して男性に素顔を晒されませんよう、お約束下さいませ」
「シェイハンが軽んじられるというのか」
「はい。シェイハンの民に恥をかかせたいのですか?」
「ま、まさか!」
「でしたら、まずは私の前でもヴェールを着ける事を習慣にして頂きましょう」
「わ、分かった」
さすがはクロノスだとイスラーフィルは二人の会話を聞いていた。
この賢い男はミトラの容姿を一目見て、それを望むだろう男の種類と、その男達が巻き起こす危険をすべて計算したのだろう。
そしてミトラの唯一の弱みと言えるシェイハンを引き合いに出して、最も有効に回避する条件を突きつけた。
そしてついでに自分自身がこの瞳に溺れてしまわぬための防波堤を自ら築いたのだ。
しかしすでに呪に囚われているイスラーフィルとしては残念だった。
手遅れの自分としては折角のチャンスに、存分にミトラの翠の瞳に溺れていたかったのに……。
しぶしぶヴェールを被るミトラを、イスラーフィルは最後に心に焼き付けるように黙って見守った。
次話タイトルは「嵐の前の静けさ」です




