36 スシーマを訪ねる者
その夜、寝静まった宮殿で、スシーマ王子を訪ねる者があった。
スシーマは夜着に皮織りの上着を引っ掛け、ベッドに座って意外な訪問者を見ていた。
昼は薄着でも暖かいが、夜は一気に気温が下がる。
乾季の夜はタキシラでも冷え込む。
側には従者の部屋で休もうとしていたナーガが、側近の衣装のまま戻ってきていた。
腰にはしっかり剣も帯びている。
剣が必要な相手とは思えぬが、どんな時も警戒は怠らない。
「こんな時間にどうされましたか?」
スシーマの足元にひざまずいて身を震わす女にナーガは優しく問う。
(まさか夜這いだろうか……)
皇太子相手に大それた事だが、このモテる王子には数多くの前例があるから可能性は否定出来ない。
本来なら、王子に会わせるまでもなく追い払う所だが、相手が相手だった。
どうしても内々にお話ししたい事があると言われれば深夜でも無下には出来ない相手だ。
肩までの赤毛を震わせ、夜着でもなお一層麗しい王子の佇まいに、今更ながら大それた事をしてしまったと怯えているようだ。
「どうした?
遠慮する事はない。申してみよソル」
天界から響くような優しい声で名前を呼ばれ、ソルはびくっと肩を揺らす。
「こ、このようなお時間に、私ごときの者がお部屋をお訪ねした無礼をどうかお許し下さい」
「気にする事はない。
されど、ミトラはそなたの訪問を知ってるのか?」
「いえ。
ミトラ様がお休みになられたのを確認して、秘かに参りました」
「ミトラに内緒か?
忠義のそなたが余程の事と見たが、どうされたのだ?」
「ミトラ様に内緒で出すぎたマネと随分悩みましたが、ミトラ様の幸せを祈る侍女として、どうしても……どうしてもスシーマ様のお耳に入れておきたい事がございます」
「ミトラの幸福のためと?
それは捨て置けぬ事だな。
申してみよ」
スシーマは身を乗り出した。
「こ、今宵、ミトラ様はアショーカ様の夕餉の席に呼ばれ、とんでもない申し出をお受けになられました」 ソルの口調に非難が混じる。
「とんでもない申し出だと?」
「はい。
シリアの立太子式典にミトラ様を同行させると……」
「シリアへ? まさか……」
危険すぎる。
スシーマとナーガは顔を見合わせる。
「その上、自分と並び立つ者になれと。
あろう事か、アショーカ様の役立つ駒になれとおっしゃいました」
ソルは苦渋に顔を歪める。
「正気か? ミトラを殺させたいのか!
それでミトラは承諾したのか?」
「はい。
ミトラ様はシェイハンの為と言われれば、自分の命など顧みず応じる方です」
「シェイハンを引き合いに出すとは卑怯な」
藍色の瞳が、怒りで深みを増す。
「アショーカ様は権力でスシーマ様に勝てぬと思い、ミトラ様を引き止める為このような事を言い出されたのです。
シェイハンの為と言われればミトラ様が逆らえぬと分かっていて、おっしゃられたのです」
非難は憎しみに近い感情へと変わっている。
「アショーカめ……。
そのような卑怯な男とは思わなかったぞ。
ミトラを危険に晒してまで手に入れたかったのか!」
もう少しマシな男だと思っていた。
「畏れながら、私は……。
ミトラ様の幸せを心より願う侍女として、スシーマ様の元に嫁いで頂きたいと望んでおります。
ですからどうか、スシーマ様のお力でミトラ様をお救い下さい」
スシーマは深く頷いた。
「ソルよ、そなたの忠義の思い、しかと受け止めたぞ。
さぞかし勇気を振り絞り私を訪ねたのであろう。
感謝するぞ」
ソルは、はっと顔を上げた。
「お、畏れ多いお言葉。
ありがとうございます」
晴れやかに頬を染める。
「そなたのような侍女がいる事をミトラもいずれは感謝するだろう。
今後は是非ともミトラの幸せのため、私と密に情報を交わそうではないか。
頼んでよいか? ソル」
「は、はいっ!
もちろんでございます!」
「うむ。
近々にそなたの力を頼りにするかも知れぬ。
よろしく頼む」
「はいっ!」
小躍りせんばかりに部屋を辞したソルを見送ってから、スシーマはナーガに向き直る。
「アショーカめ。
何を考えておるのだ。
女を政治の舞台に出すつもりか?
それでなくとも多くの刺客に狙われているというのに」
「あの王子は革新的な方ですから。
女性に対しても常識的な考えがないのかもしれませんね。
母上のミカエル様も後宮にとどまらず、貧しい村を表敬訪問するような方ですし」
ナーガはスシーマよりは理解が及ぶようだが、スシーマにはさっぱり理解出来ない。
「なぜ大事な女を表に出すのだ。
なぜ他の男や下賤な者達の前に晒す必要がある」
やはり後宮で慎ましやかに、幸せに暮らす母の元で育った男には理解出来ぬ事だった。
「そもそも部族長会議にしろ太守就任式にしろ、いくらミトラの望みとはいえ、安易に応じるのが分からなかったのだ。
あの横暴な男がなぜ簡単に許すのだ。
ダメだと断じれば済む事だろうに」
「スシーマ様ならダメだと言えましたか?」
ナーガはにやにやと笑う。
「当たり前だ。
妃となれば後宮の奥深くにしまい込み、危険な場所には一切出さぬ」
「それであの姫が大人しくするでしょうか」
「ミトラのためだ。
命を落としてから後悔しても遅いのだぞ」
「死んで後悔するのはスシーマ様の方でしょう。
あの姫は後悔などしませんよ」
「そ、それは死んだのだから後悔する器もないだろうが……。
そうだとも。私が後悔する。
だから絶対危険な場所には出さぬ」
「それは結局誰のためなのですか?」
スシーマはぐっと言葉につまる。
「な、何が言いたいのだ、ナーガ!」
ナーガは、とぼけたように首を引っ込める。
「アショーカ王子が自分の私欲のためにミトラ様を危険に晒す卑怯な男なのか。
はたまたミトラ様の幸せのためにあらゆる苦難をすべて自分が背負う覚悟を決めた男なのか。
……という事ですかね。
両者は天と地ほど違いますがね」
「バカな……。理解出来ぬ。
ミトラを危険に晒す事がなにゆえミトラの幸せなのだ。
私は納得せぬぞ、ナーガ」
「では卑怯な男の方なのでしょう」
ナーガはしれっと応じる。
この公平な主は、卑怯な相手でもなければ蹴落とそうとしない。
この誠実さが仇になる。
だったらアショーカ王子には卑怯な男のレッテルを貼るしかない。
「あちらが卑怯な事をするなら、こちらも少々の卑怯は許されるでしょう。
作戦を実行しましょう、スシーマ様」
はっとスシーマはナーガを見つめた。
「本気か?」
「本気ですとも。
聖人君子のまま女を得られると思ったら大間違いです。
欲しい女があるのなら、どんな手を使っても手に入れるべきです。
のんびり色男ぶってる場合ではありませんよ。
余計な女にばかりモテて、肝心の女性を手に入れなければ意味がないでしょう」
散々な言われ方だ。
「別に聖人君子のつもりなどない。
陰謀も策略も政治の世界では活用している。
ただ、ミトラには生涯誠実でありたかったのだが……」
「誠実ですよ。
卑怯なアショーカ王子の口車に乗せられ、危険に身を投じるミトラ様を救うため策謀したのです。
これが誠実でなくて何なのですか」
「そ、そうだな。
このままアショーカの元に置けば、ミトラはシリアへ行く事になる。
そうなれば無事に帰れるかも分からぬのだ」
「そうですよ。
腹心の侍女にも頼まれたのです。
動かなくてどうしますか」
「分かった」
スシーマは決意を固める。
「ナーガ。
私の隠密、五麟を呼べ」
「はい。畏まりました」
ナーガは拝礼して、すぐさま姿を消す。
運命がまた一つ動き出した。
次話タイトルは「純白の妖精」です




