10、ヤムシャ長老
神殿が赤々と火柱をあげて燃え盛っている。
そんな……あの中にはまさか……。
……聖大師様と……ご神託を受けに来た王家の一族と神官達が?
嘘だ。
そんなはずはない。何かの間違いだ。
ミトラはドアを開けて駆け出していた。
むっとした熱気が襲いかかる。
火の粉がミトラの服と手足をチリチリと焼いていく。
「聖大師様! アロン王子!」
叫ぶミトラの喉に熱気が容赦なく吹き込む。
神官の白い官服を焦がしながら、ささやかな井戸水で消化にあたる人々が行き交う。
喧騒と灼熱。怒声と悲鳴。焼け爛れた屍。
地獄絵図だった。
「ミトラ様!」
呼び止められて振り向いた。
「イスラーフィル!」
屈強な男が衣装を焦がし、煤だらけになって走ってくる。
「神殿におられたのではなかったのですね。よくぞご無事で……」
イスラーフィルはミトラの両腕を掴んで安堵の息を漏らした。
「神殿の中は? 聖大師様は? アロン王子は?」
ミトラの矢継ぎ早の質問に、イスラーフィルは力なく首を振った。
「外の神官達が気付いた時には神殿は火の海でした。
中に入る事も出来ず……」
「そんな! ではまだみんな中にいるのか?」
ミトラは聞くなり火の中に飛び込もうとした。
その体をイスラーフィルが渾身の力で引きとめる。
「ダメです。もう生きている者など一人もいません。
火は中から放たれた」
「中から?
そんな……。誰が……」
ざあっと血の気が引く。
嘘だ……。そんなはずがない。
「王宮の様子もおかしい。
今レオンに見に行かせました。
あの者が神殿が燃えているのに冷静だと思ったら、ミトラ様が外にいるのを知っていたのですね」
イスラーフィルが言い終わらぬうちに、レオンがどこからか剣を調達して戻ってきた。
「レオンどうだった?」
イスラーフィルの問いにレオンは黙って首を振った。
「やはりそうか。
ミトラ様、どうやら他国の軍隊が王宮に攻め込んでいるようです。
今日が満月のご神託の日と知って火を放ったのか。
どちらにせよ内通者がいるようだ。
神殿を丸ごと燃やした手口からして、敵は王家と聖大師の血筋を根絶やしにするつもりです。
ミトラ様が生きていると知れたら危険です。ここから逃げるのです」
「何を言うのだ!
皆を見捨てて自分だけ助かれというのか?
そんな事は出来ぬ!
私はここに残って助かった者の手当てをする」
きっとみんなもどこかに逃げ延びているはずだ。
「ミトラ様。あなたはこの国で助かった唯一の希望なのです。
あなたが敵からこの国の民を救いたいのであれば、今は生き残る事が大切なのです。お辛いでしょうが今はこの混乱に乗じて脱出するのです」
イスラーフィルの加減を忘れた握力が、ミトラの腕を締め付ける。
「嫌だっ!!
私だけ生き残って何をするのだ。
聖大師様もアロン王子も……神殿も……。
もう何も残ってないのに……。
嫌だ! 嫌だっ!」
いつもいつも、現実を突きつけようとするイスラーフィルが嫌いだ。
「そうまでおっしゃるなら……失礼致します」
イスラーフィルは一言断ってから、ミトラの後頭部に手刀を振り下ろした。
「う……なにを……」
ミトラはあっけなくイスラーフィルの腕にくず折れた。
レオンがイスラーフィルを憎々しげに睨み付ける。
「そんな顔をするな。
お前だってミトラ様を助けるためにはこうするしかないと分かっているだろう」
イスラーフィルは、小柄なミトラを火除けに被っていたマントで包むと、ひょいと肩に乗せて走り出した。
街の中心を貫く石畳の大通りは、燃え盛る宮殿を呆然と見つめる市民が道路を埋め尽くしていて思うように進めなかったが、おかげで目立つ事なくヤムシャの石工場に辿り着けた。
日の暮れた石工場には、熱心に石を切り出している石工職人達がまだ大勢残っていた。
しかし、遠くに見える火柱を見て作業はすっかり止まっていた。
「ヤムシャのじいさんいるかい?」
イスラーフィルが声をかけると、顔見知りの石工職人が、わっと取り巻いた。
「イスラーフィル! どうなってるんだ?
あの火柱は宮殿じゃないのか?」
「何があった? 王様達はご無事なのか?」
矢継ぎ早の質問には答えず、ずかずかと石造りの頑丈な屋敷内に入って行く。
「おい、背中に何を担いでるんだ?」
石工職人達は追いかけるようについて来る。
「イスラーフィル答えろよ!」
一人がぐいとマントを引き剥がした。
月色の髪がまばゆい光を放って露わになる。
どよめきが起こった。
詰め寄っていた石工達が一歩下がって、イスラーフィルの周りに円形の空間が出来る。
「何事じゃ、イスラーフィル!」
奥から現れた白髭のヤムシャの姿を見て、イスラーフィルはミトラを床に下ろした。
「この月色の髪は王族の姫じゃないのか?」
石工の一人が問い詰める。
「ミトラ様じゃ。聖大師様のご聖婚の折、お見かけした」
ヤムシャ老人が代わりに答えた。
一度見たら忘れるはずもない容姿だ。
「おぬし、まさかこの姫をさらって来たのではあるまいな!」
ヤムシャが言うと、再びどよめいて、また一歩イスラーフィルの周りの円形の空間が広まった。
「まさかお前が宮殿に火を放ったのか!」
「そういえば、ミスラ神の妻となられる方はみな美しいと、夢見るように語っていたぞ」
「イスラーフィル、お前……なんて事を!」
「ち、違う! バカ言うな! そんな大それた事するかよ!
美しいとは言ってもまだ子供じゃないか。
どうせ攫うなら聖大師様の方が……いやそうじゃなくて……」
「落ち着け、イスラーフィル。
敵国が攻め入ったか? マガダのビンドゥサーラの兵じゃな?」
ヤムシャ老人は最初から分かっていたらしく、すぐに核心をついてきた。
「おそらく……。
孔雀の旗印であったと……」
イスラーフィルは神妙に答えた。
「王様は? 聖大師様はどうされた。
今日は満月のご神託の日であったはずだが」
「……」
イスラーフィルは何と言っていいか分からず、ただ首を振った。
「まさか! あの火柱は……神殿から?」
ヤムシャは想像していたより事態が深刻である事に、長い白髭を震わせた。
「おそらくご神託に集った方たち全員……絶望かと……」
イスラーフィルの言葉に石工達からうめき声があがった。
「なんて事をしやがる……ヒンドゥの野蛮人達め……」
「この国はどうなる?
王族が絶え、宮殿を占拠されてしまったのなら、俺達はマガダの野蛮人に支配されてしまうのか?」
「冗談じゃねえ。俺はこの国の自由な国風と王家が好きでやってきたんだ。
野蛮人の言いなりになるぐらいなら、ギリシャに帰る」
多くの石工達は遠くギリシャ、ペルシャ、エジプトから石工技術を伝えにやってきて、この国が気に入り結局移り住んでしまった者とその子孫であった。
「落ち着けみなの者。
たやすく慣れ親しんだ国を捨てるなどと言わぬ事だ。
故郷に帰った所で、もはや居場所などないぞ。
西の地もアレクサンドロス大王の亡き後、ディアドコイ(後継者)たちの紛争が絶えぬと聞く。
どこも同じじゃ」
「されどヤムシャ長老、王家の血が絶えた今、誰がこの国を治めるというのです」
みんな縋るように長老の答えを待っている。
「その為にこの方をここにお連れしたのじゃろう?」
長老はイスラーフィルに問いかけた。
イスラーフィルは肯いてミトラを見下ろした。
「王家の血を引き、次代の聖大師であるミトラ様が生き残られた。
このように華奢な少女であられるが、その知恵の深さ、民衆への慈愛、神に通じる力、どれをとっても並ならぬお方です。
ミスラの神はこの方を我らに残して下さった」
「し、しかし、ダンダカの森では山賊に襲われるのも気付かず、多くの神官を犠牲にしたと聞きました。その程度の予言も出来ぬ方が国を治める事など出来るのですか?」
石工達が不安そうに顔を見合わせた。
「ミトラ様のせいではない!
ミトラ様はまだ神に嫁いでいらっしゃらない。
代々聖大師様はミスラ神の妻となってから予言の力を授かると言われている。
きっと神に嫁がれた暁には素晴らしい神通力を示して下さるだろう……」
今はそのイスラーフィルの言葉をみんなが信じたかった。
「とにかく今はミトラ様をこの地から逃す事が先決です。
地下の隠し部屋にミトラ様を匿って下さい。
旅の準備が出来次第、西方の地へ向かいます」
ヤムシャ長老は深く肯いた。
「シリアへ行くがいい。
わしの知り合いの石工職人がいる。
あの者ならシリアの現王アンティオコス様とも懇意じゃ。
王ならきっとミトラ様を悪くは扱わぬじゃろう」
次話タイトルは「導師」です




