1、序文
紀元前331年
アレクサンドロス三世のオリエント統一に遅れる事、数十年。
紀元前221年
秦の始皇帝による中華統一に先んずる事、数十年。
インド亜大陸には、そのほぼ全土を統一した伝説の王がいた。
* * *
ヒンドゥ東部、バングラの地では、戦いの女神ドゥルガーの祭りが華やかに行われていた。
細い路地は焼菓子と茶の屋台であふれ、打楽器を打つ音が交錯する。
色艶やかなサリーにヴェールを纏う女と、頭にターバンを巻いた男達が楽しそうにそぞろ歩く。
「待てぇぇ!!!」
その和やかな人波を逆行する異形の集団に、善良な民達が驚いて道を開ける。
恐ろしい形相の面を被り、ど派手な衣装から垣間見える肌は青粉で色付いている。
「こっちだよ! アショーカ!」
女神ドゥルガーに扮した勇ましい少女が、人ごみを掻き分け叫ぶ。
「王子だとばれたら面倒です。早く!」
嫌々、魔人アスラ姿に扮装した青年が急きたてる。
「もう、相変わらず滅茶苦茶なんだから……」
魔獣姿がよく似合う巨体の男が息を切らす。
三人の側近に急き立てられ、破壊の神シヴァを纏う青年が駆け抜ける。
後ろからは、警備の衛兵達が十数人、剣を片手に追いかけて来ていた。
山盛りの香辛料の屋台をぶちまけ、花売りの篭が宙を舞う。
胡椒にむせながらも、先頭の衛兵がついにその肩を掴んだ、と思った瞬間
「おい待て!!」
と突然シヴァ神が立ち止まった。
「ええ!?」
側近ばかりか、追いかけて来た衛兵達も驚いてつんのめる。
「もう一人殴っておきたい男を見つけたぞ!」
シヴァ神は絶好の獲物を見つけ、人垣の遥か向こうの大通りに狙いを定める。
その先には、ひときわ豪奢な祭りの山車の上で、偽善の笑顔を振りまく男。
「殴っておきたい男ってまさか!」
側近三人は、上機嫌に民に手を振る男を見て蒼白になる。
「つ、捕まえろっ!
その男を早く!」
衛兵達も気付いて色を失くす。
「うわあああバカ!
何考えてんだ、このクソ王子!」
絶望的な雄叫びと共に、側近達がシヴァ神を追う。
金ピカの山車の周りは、白馬の衛兵の列と象の列が堅固に囲い込み、簡単に近付く事は出来ない。
しかし、軽快に走り寄るシヴァ神に民は道を開き、あっさりと象の列に飛び込んだ。
「ひいいい! ビンドゥサーラ王!!」
もうダメだと青ざめる衛兵達。
シヴァ神の右手が王の山車に届くと思った次の瞬間……。
その体は宙に浮き上がり、ボロ雑巾のように民衆の中に投げ戻された。
「?」
全員が唖然とする空気を感じて、王が視線を向ける。
しかし、すでにシヴァ神の姿は民衆の波に呑まれ、その目に映る事は無かった。
何が起こったのか理解出来ないまま、キョロキョロと辺りを見回す衛兵達。
その時にはシヴァ神は、魔獣姿の側近に首根っこを掴まれ路地裏に強制送還されていた。
「もうっ何考えてんだよっ!
祭りのさ中に王様殴りに行くバカがどこにいるんだ!」
「いくら王子だって死罪だよお。
滅茶苦茶だよお……」
女神ドゥルガーと魔獣は、怒りよりも命拾いした事に安堵した。
四人は異形の面を頭に押し上げ一息つく。
「せっかく変装したのだ。
気に入らんヤツの一人や二人殴らん手はない」
「変装ではなく扮装と聞いたので付き合ったのですがね。
やはり常識というネジのぶっ飛んだ主君の誘いになど乗るのではありませんでした」
魔人アスラの男は冷たく言い放つ。
「しっかし、なんだってガネーシャがあんな所にいたのだ?
邪魔しおって!」
アショーカはチッと舌打ちする。
ギリギリの所で隊列の中の象に鼻で掴まれ、投げ捨てられた。
「今朝方、急に象が足りないと言って借り出されたんだよ」
ガネーシャとはアショーカの象だ。
「ガネーシャはアショーカの危機には都合よく現れる神象なんだよ」
「ガネーシャがいなければ今頃私達は死罪ですよ。
どうしてくれてたんですか!」
魔人アスラは腕を組んで王子を睨みつける。
「はっは。
俺に仕えた運命と思って諦めろ」
アショーカは悪びれもせず笑う。
「もう何度も諦めましたがね。
いまだに生きてるのが不思議なぐらいですよ。
あなたに忠誠を誓った幼き自分を、過去に戻ってボコボコに殴って息の根を止めてやりたい気分です」
「おいおい、息の根を止めるのはいかんぞ。
今ここにいない事になる。それは困る」
魔人アスラは絶好の嫌味ネタを提供した主君に、さも驚いた風に目を見開いた。
「ほう。
もしやと思いますが、あなた様に私の命を惜しむ気持ちがありましたか。
これは私と致しました事が、まったく微塵も、鼻くその欠片ほども気付きませんでした」
避暑取りの牛が大挙しそうな冷ややかな視線を受け、アショーカは一人うなずく。
「お前ほど魔人が似合う男もいまいな。
お前に青い血が流れていても俺は驚かぬぞ。
一人、敬語のはずが、誰よりも俺様の初冬の薄氷のように繊細な心を打ち砕くのは気のせいか?」
「気のせいでしょう。
私ごときが王子の鉄鐘のように図太い心を砕けるはずもございません」
「さっき、ドサクサに紛れてクソ王子と聞こえたが?
お前ではなかったか?」
魔人アスラは片膝をつき恭しく拝礼する。
「滅相も無い。
敬虔なバラモンの血を引く私が、主君にそのような暴言など吐くわけがございません。
そちらの魔獣が申したのでしょう」
「えええ? ぼ、僕じゃないよ!」
濡れ衣を着せられ、人の良さそうな魔獣は慌てる。
「僕でもないからね」
女神ドゥルガーも僕と自称して腕を組む。
魔人アスラは「では、そら耳でしょう」と、しれっと答えた。
「なるほど。
最近お前の側にいると、そら耳ばかり聞こえるようだ」
この破天荒な王子が後にマウリヤ朝の全盛期を築き、数千年の後までも語り継がれる存在になろうとは、この時誰も思わなかった。
そして、その王子の治世に大きな影響を与えた聖妃がいたことは、ほとんど知られていない。
その清らかな乙女の存在は、僅かに残る伝承に妃の一人として名が刻まれるだけであった。
次話タイトルは「導師」です