文部麗2
医務室に運ばれて2時間後、麗が目を覚ました。
「まったく、そこはお前専用ベッドじゃ無いんだぞ」
校医である竹富学が呆れた声で呟いた。陸軍士官学校設立時から勤めておりこの道二十年の大ベテランだ。鬼のような学校の教育者たちとは違い人当たりが良く、通称『タケさん』と親しまれている。
「へへへ、あたし次の時間世界史なんだ。もう1時間寝ててもいい?」
「勝手にしろ。だが客が他に来たら叩き出すぞ」
「了解しました校医殿」
冗談混じりに笑顔で敬礼すると、竹富は仕方無さそうに鼻で笑った。
「気がついたかい?」
カーテン越しにに聞こえたのは、先ほどわぁわぁ叫んでいた声だった。カーテンを開けると一人の男が座っていた。麗の戸惑いに気づいたようで、すぐに立ち上がってはにかんだ笑顔を見せた。
「初めまして、松田将太と言います。日本の記者をやってます」
わぁ、日本人だ。初めて見た。
そう単純に驚いた麗は自分が初めて日本人に会ったことを改めて自覚した。本州とは幾らの距離が無いにも関わらず、文部家では、日本と言う国は敬遠されていた。三十年前の日本分断で、歴史的に大和共和国とのいざこざがあるのは理解していたが、何より日本の話になると和馬がうるさいのだ。国連の場で「日本人になるくらいならロシア人になる」と発言したのは余りにも有名だが、それ以外では対外的に日本の悪態は叩かなかった。代わりに家の中では散々日本を罵倒した。『鬼畜日本万歳大和』酔っぱらうと和馬は必ず口にしたので、麗も無意識に日本と言う国を避けるようになっていた。
松田のあいさつに軽く会釈で返したが、頭の中では疑問符が浮かびっぱなしだった。
「あの……あたしに何か用ですか?」
「その……何で榁教官は君にだけあんなに厳しいのかな?」
松田の問いに麗は眉を潜める。
「いや、普通の訓練ですけど……ごく日常的な」
そう返すと松田は大きくため息を吐いた。
「訓練って次元じゃないよアレは。拷問に近いね限りなく」
そう断言されると、他の仲間に言われてることが頭に浮かんでくる。
『麗、榁教官は絶対あんたにやめてほしいんだよ』、その時の友達の言葉は強引に打ち消したはずだったが、いざ他人から客観的に指摘されると実際にそうなのかと心は沈む。
「……でもあたし実技だってトップクラスだし、学力だってそんなに悪くはーー」
「ちょっと待て、今のお前の頭で陸軍士官学校の問題が解けるとは思えんぞ。実技の特技活かして何かやってるだろ」
と話しの途中で竹富に横やりを入れられ、腹の痛い所をつかれた。実はバリバリカンニングをしている。
「と、とにかくそんな事はどうでもいいから。実際あたしより駄目な奴なんてゴロゴロいるのになんであたしだけ」
麗の知る限り男子でも女子でも訓練で遅れをとった事は無い。
「……君はやっぱり和馬さんに似ているね」
松田からそう指摘され、沈んでいった心が少し救われた。
「そうなんです、おじいに似てる似てるって言われるんです」
和馬の交流関係は尋常じゃない程幅広く、小さい頃から和馬を知る人々から数多くの武勇伝を聞かされて育ってきた。そんな逸話に囲まれて生きてきた麗が、和馬のようになりたいと思うのはごく自然の流れだった。
「松田さん、そうやって言うとこいつ喜ぶよ。麗、松田さんはいい意味で言ったんじゃないぞ。和馬の悪いところ、危なっかしいところを引き継いでるって意味だよ」
そう言われると、こちらは黙り込むしか無い。和馬と共に独立戦争を戦い抜き、奮迅の働きを見せた竹富は和馬、榁と同様大和共和国の生きた英雄だ。今では第一線を退き。余生を校医として過ごしているが、異論を真っ向から唱えられる者などこの陸軍士官学校はおろか、大和共和国全土を見渡しても指折り程度にしかいない。
その時、突然ドアが開き榁が入ってきた。
「気がついたか?」
即刻起き上がり敬礼をするのは、日々の修練が織りなせる技だろう、
「問題ありません!」
「そうか……しかい、肺に負担をかけたからもう少し安静にしてろ」
その言動に思わず、麗は眼を見開いた。榁から優しい言葉など、出会って十年初めての経験だった。
「榁教官、熱でもあるんですか?」
と聞くと、忌々しそうに眉間の皺を寄せた。
「その減らず口は最後まで治らなかったな」
そう発言した榁の表情には陰った笑顔が垣間見えた。
「最後って……なんですか?」
「本日をもって貴様は退学だ。さっさと荷物をまとめて家に帰れ」
麗には榁の言っている事が理解できなかった。
「どういうことですか? なんであたしが?」
「……要するに貴様には適性が無いってことだ」
「どこがですか! 悪いところあったら治します」
「一つ、大和共和国軍は戦争を望まず、欲せず、起こさない。麗、俺は何度も貴様に説いただろう……それこそ十年以上もだ。しかし、貴様は変わらなかった」
「そんなの……あたしはわかってます」
「わかっているのは頭でだけだ。お前は心の底では戦争を望んでるんだ。質問を変えるぞ、貴様の目標は何だ?」
「……それは」
「わかってる、大和共和国の英雄である文部和馬のようになりたいんだろう?」
「それのどこが悪いんですか!」
「英雄足るために必要な事はなんだかわかるか? 『戦い』だよ。お前は心の底から文部和馬になる事を望み、欲していた。それは『戦い』を望み、欲する事と同義だ」
「……そんなこと」
無いと断言できなかったのは、あまりにも榁の表情が歪んで今にも泣きだしそうだから。はっきりと否定するほど自分を思いやるそのまなざしを返せない自分に初めて気づいた。
そんなに辛そうにあたしに言わないでよ。おじいもあたしの目標だけど、あんただってあたしの目標だった。あたしの憧れたあんたが、夢を諦めろなんて、言わないでよ。
「器が無ければいい。望み、欲しても叶えることのできない器なら。しかし、お前は……少なくともお前は死ぬまでそれを追い続けられるほどの根性と気概がある。いずれお前は戦場を求めるようになる。今は望んでいなくてもな」
もう、榁の言わんとしていることはわかった。ずっと自分の事を見てきた教官が下した結論に、何年も自分が追い続けた教官が下した結論に反論を続ける事はあまりに不毛だった。
「わかりました……ただ――」
「なんだ?」
「お願いがあります。あたしと勝負して貰えませんか? あたしが榁教官に勝ったらあたしの言う通りにする、榁教官が勝ったらあたしは教官に従う」
榁の命令に逆らうことができるものなどいない。もはや選択できることは無謀な賭けを提案することだけだった。
「いいだろう、お前の体力を戻すために明日まで待ってやる」
「いえ、結構です。すぐに柔道場へ行きましょう」
そう言ってすぐにドアを開けて出ていく。正直、今の自分の負傷より気力が萎えることの方が痛い。一晩冷静に考えれば、榁と自分の戦力差が嫌というほど頭に入ってくる。そうすれば万に一つ勝てる勝負も勝てることはない。体力、経験、技術、あらゆる面で榁が大きく上回っている。狙うは超短期決着に定めた。
「勝算はあるのかい?」
歩いているときに、松田が聞いてきた。
「松田さんはどっちの味方ですか?」
竹富は同行はしていない、とすると審判は松田ということになる。そして松田が榁の味方であるとますます苦しくなる。
「どっちの味方ってことは無いが面白い試合は期待したいね」
松田のその言葉は麗には本音に聞こえた。松田に顔を近づけて声を潜めた。
「じゃあ、あたしの味方してください。アレ、バケモンなんです。このままじゃ一方的にやられて終わりです」
「……そうだね、確かに伝説の榁高次が一人の女の子に倒されるのは痛快かもしれないね。でも、僕にやれることなんてあるのかい?」
「あたしが右手を上げたら足を出してください、それだけでいいから」
そう言いながら、松田の背中に文字を書き始めた。相手は榁高次だ、どんなに声を潜ませても聞いている可能性がある。だから、それを利用し、あわよくば逆を突く。
「……わかった、それだけでいいんだね」
上手く伝わったことを信じながら、柔道場の扉を開けた。
榁と対峙し、その圧倒的な存在感に本能的な怯みを感じる。
くっそぉ、全然隙がないじゃないか。
「ちょっと準備運動させてください」
そう言って一度間合いを外す。体の柔軟をしながら榁の死角を探すが、一向に勝てる気がしない。しかし、もうやることは決まっていた。大きく深呼吸をして先手を取る決心をした。榁が一瞬、視線を外した瞬間、飛び出した。
賭けでもあった。乾いたような笑いを榁が浮かべ、左手を麗に向けた。表情からは、思考が読み取れない。無防備に相手に向かって足を踏み出しながら、心の中で時を刻む。
今だ、タイミングを計って右手をあげた。
榁が一瞬足下を気にしたのを麗は見逃さなかった。松田は麗の指示通り何もしなかった。そして、松田の足の分だけ深く踏み込んだ麗の方が早かった。全力で相手に飛びかかって、まず榁が掲げている左手を蹴りで叩き落とした。格闘においても、榁の方が断然有利は変わらない。しかし、態勢の上では麗は榁より優位を取っていた。
当然、反撃はあった。榁は麗の動きを止めるために顎に拳を放ったが、敢えて額で受けた。当然、痛いのだが、瞬時に榁を絞めて気絶させた――。
はずだった。
瞬間、身体がフワッと宙に浮いた。足を払われたことを把握する前に榁の手が伸びてきた。咄嗟に榁の胴を弾いて躱したがその分地面の衝撃は強かった。考える間もなく、鋭い蹴りが腹に飛んできたので敢えてそれを受けた。
途轍もなく痛い蹴りだったが、何とか耐えて足を両手で掴む。得意の柔道技に持って行こうとした時、もう片方の足で顔面を蹴られた。
片足を掴んでいたので大した威力は無かったが、視界を潰された。
すでに勝負は決したが、悪あがきに適当に拳打を繰り出す。
後頭部だと思う、次の瞬間ハイキックを喰らったと自覚した瞬間、視界が途絶えた。