生を掬う者
「キルカ、休憩にするぞ」
「はーい!」
叔父は煙草を吸いに外に出る。キルカはそれを見計らって、鏡の前に行き、蓮の花を押した。ニルヴァーナと出会った日から、キルカは時間が許す限り彼女に会いに行った。人の目を盗み、こっそり隠し部屋に入り、最上階の月の園へ行く。毎日お昼時になると、キルカは「一人で飯を食うから!」と言って、こっそり彼女に会いに行った。皆、好きな女でもできたのだろうと当たらずも遠からずの事を考え、キルカが休憩中にどこに行ってるかを聞こうとはしなかった。
「よっ、ニルヴァーナ!」
キルカが弁当片手にニルヴァーナに会いにくると、彼女は少し眉根を寄せて不服そうな顔をした。
「・・キルカ。ここに来ちゃ駄目って。本当にバレたら殺されるんだよ?」
「どっちにしろ人間死ぬ時は死ぬんだから。バレないように来てるし、大丈夫」
にっと笑ったキルカの笑顔に渋々ニルヴァーナは口元を緩めたのだった。
正直キルカ自身、何故毎日彼女に会いに来ているのか分からなかった。見つかったら間違いなく殺される。そんな事は彼自身分かっていた。けれども、それ以上にニルヴァーナに対する好奇心が勝っていた。それは、彼女が普通じゃないだとか、神の子だからとか言うのではなく、他の女の子とは違うその空気に惹かれていた。いつも浮かべる笑みは嘘っぽいけれど、どこか本心を含んでいそう。いい匂いがするし、綺麗だし、けれどどこか近寄りがたい。神々しいとかそういうものではなく、寧ろ禍々しい気さえした。けれども、どこかで他の女の子となんら変わりないと思うこともあった。
ニルヴァーナは殆ど外に出れないし、外の世界や文化を知らなかった。分かっているのはこの国の仕組みや、街から見える建物や最低限の常識。そんな彼女に外の世界を少しでも教えたくて、キルカはたくさん外の事、自分の生活を話した。ニルヴァーナはその話をいつも楽しげに聞いていた。それだけでなく、時々キルカが持っていくお土産も喜んで受け取った。小さな熊のぬいぐるみ、ビーズの髪飾り、花の蜜を煮詰めてできたジャム・・。彼女は受け取ったそれを本当に嬉しそうに見つめた後、いつも隠して箱の中に入れるのだった。
気づけば、キルカは彼女のことをもっと知りたいと考えていたし、彼女に自分自身をもっと知って欲しいとも思っていた。彼女の世界を自分が広げてあげたいとさえ思い始めていた。四六時中彼女のその切ない笑顔を瞼の裏に映すようになっていた。
月の園で二人で昼食を取った後、照れながらキルカはある物を渡した。
「お土産」
「有難う。あけていい?」
「ああ」
小さな包みの中には、薔薇の装飾のされた丸くて掌より小さい平べったい缶が入っていた。それをあけると、中には紅が入っていた。
「これ・・」
「ニルヴァーナはいつも化粧しないだろ?口紅してみたら似合うんじゃないかなって思ったから。赤すぎるかな。口紅なんて女の人に贈ったの初めてだからさ」
「これ、唇に塗る物だよね」
「そうだけど・・。塗ってあげようか?」
わからないようならとキルカが言うと、ニルヴァーナは一瞬怯えたような顔をしてぶんぶんと顔を振った。キルカはその表情を見て、慌てて謝った。
「ごめん・・。その変な意味はねぇけど、その、塗ってあげるとか言うのはまずかったよな」
「ち、違うの・・。」
貰った紅の蓋を閉めて、彼女は目の前の蓮の花が浮く泉を見つめた。
「ねぇ、キルカ」
「ん」
「神の子の伝説、覚えてるよね」
「・・・、あ、嗚呼。でも、あれ嘘なんだろ?」
「確かに私が人間になったとかは嘘だよ?でも、全部が嘘という訳じゃないの」
彼女は近くに咲いていた花を一輪摘むと、またキルカの隣に腰を下ろした。
「『やがてニルヴァーナが真に人を愛し、またその者も真にニルヴァーナを愛し、その者がニルヴァーナに命がけの口付けを行えば、ニルヴァーナの神の力は解放され、大地を潤し空気を清浄し、かつての緑が戻るだろう』」
「・・・?」
「どうして、命がけ、だと思う?」
「え?」
ニルヴァーナはおもむろに、摘んだ花の花弁に口付けた。まるで絵画のようなその光景にキルカが息を飲んだ瞬間だった。花は一瞬でどす黒く染まり、粉と化し、消えた。目の前で起こった出来事にキルカが目を丸くしていると、彼女は言った。皮肉な笑みを浮かべながら。
「私の唇は、毒なの。一瞬で触れたものの命を吸い取る。それが花であろうが、人であろうた。キルカが指で私の唇に触れたとしても、同じことが起こる」
「・・それで、命がけ、なのか」
「だから、誰も私に口付けなんかしないし、こんな恐ろしい女愛そうだなんて思わないよ」
悲しそうに苦笑いをしたニルヴァーナに、キルカは「ごめん」と呟いた。
「ううん。これ貰って嬉しかったのは本当の気持ちだから、謝らないで。それに自分で触れる事はできるから」
ニルヴァーナは人差し指で紅を掬うと、唇をなぞった。紅をさしたニルヴァーナは先程の可愛らしさはどこへやら、妖艶な女のように見えた。キルカは恥ずかしくなり、思わず視線を逸らした。
「・・似合わない?」
首をかしげ、不安そうにキルカを見つめたニルヴァーナに彼はぶんぶんと首を振って否定した。
「に、・・似合っ、てる・・」
「そう・・。よかった」