記憶喪失になった伯爵令嬢が、強面な婚約者の不器用な溺愛に気づくまで
目を覚ますと、そこはまったく見覚えのない豪奢な天蓋ベッドの上だった。
起きたばかりでまだ覚醒していない中、瞬きを繰り返す。
頭のどこかがズキリと痛み、思わず彼女は顔をしかめながらも、ぼんやりと考える。
ここはどこだろう。
いや、そもそも――自分は誰なのだろうか。
この場所どころか、頭の中に霞がかかったように、自分の名前すら思い出すことができない。
「……目が覚めたか」
ふいに響いた低く硬い声に、彼女はビクッと肩を揺らす。
声のした方へ視線を向けると、ベッドの傍らに一人の青年が座っていた。
夜の闇を切り取ったような短い黒髪で、同じく漆黒の冷たい瞳で、射貫くように彼女を見つめている。
顔立ちは整ってはいるものの、眉間には深い皺が刻まれており、まるで親の仇でも見るかのように睨まれているように感じた。
あまりの恐ろしさに、彼女は声を引きつらせて固まってしまう。
「今、家族を呼んでくる。余計な心配はせず、もう少し休んでろ」
青年はそれだけを吐き捨てるように言い放つと、乱暴に椅子から立ち上がる。
そしてクルリと踵を返し、足早に部屋から出て行ってしまった。
あとに残された彼女は、ただ呆然と扉を見つめることしかできなかった。
彼がいなくなっただけで、張り詰めていた空気がほどけ、思わず彼女はほっと息を漏らす。
その後、慌ただしく部屋に駆け込んできた家族らしき人々によって、彼女は自分の置かれている状況を知ることになった。
彼女の名前は、テレサ・スワイスといって、この国に名を馳せる伯爵家の令嬢であること。
自宅の中庭で散歩中、階段から足を滑らせて転落し、三日三晩、目を覚まさなかったこと。
そして――先ほど部屋にいた、あの恐ろしい面構えの青年が、ワイズ伯爵家の子息であり、テレサの婚約者であるグレイソンだということ。
(あんなに怖い人が、私の婚約者……?)
両親や兄と思しき、けれどどこかテレサと似た面影のある三人の涙ぐむ顔を見ながら、テレサの心に強い不安が影を落とす。
記憶がないとはいえ、あの鋭い眼光と冷たい態度は、とうてい婚約者を労わるものには見えなかったからだ。
それから医師の診断を受けたが、記憶がいつ戻るのかは分からないと言われてしまった。
もしかすると、一生思い出せないかもしれないとも。
そのことにショックは受けたが、こればかりは仕方がないのだと、沈む気持ちをなんとか落ち着かせた。
◆
あれから数日が経ったが、グレイソンが再び見舞いに訪れることは一度もなかった。
気になったテレサが家族や侍女に尋ねてみると、
「あの方は昔から、月に一度の決められた面会日以外に顔を出すことはありませんから」
と教えられた。
そして、記憶喪失から目覚めたあの日は、たまたまその面会日だったらしい。
(婚約者が大怪我をして倒れたというのに、面会日じゃないからと顔も見せないの?)
冷遇されているという事実にすっかり沈み込み、ベッドで安静にしていたテレサの元に、今度は一人の青年が面会に訪れた。
騎士の制服に身を包んだ彼は、リックと名乗った。
テレサの幼馴染なのだという。
「テレサ、生きていてよかった……! 君が目を覚まさない間、気が気じゃなかったんだ」
リックは本当に嬉しそうな顔でくしゃっと笑うと、ベッドサイドに跪き、テレサの手を両手で包み込んだ。
「本当はすぐにでも駆けつけたかったんだけど、君の負担になっちゃいけないと思って会いに行くのを我慢していたんだ」
グレイソンとは正反対の甘く優しい声に、テレサの心がほどける。
「リック様……ですか。申し訳ありません、私は、記憶を失ってしまっておりまして、あなた様のことを思い出せないんです」
「ああ、聞いているよ。でも大丈夫。ゆっくり時間をかけて思い出せばいいさ」
彼はテレサを安心させるように微笑むと、ふと眉を下げて、同情するような声音に切り替えた。
「そういえば君はいつも、あの冷酷な婚約者のことで悩んで、泣いていたんだよ。しかもあいつ、君以外に親しい女性もいるみたいで……。あんな男のせいで君が傷つく必要なんてないのに」
「私が、あの人のことで……?」
リックの言葉に、テレサははっとした。
あの日、目を覚ました瞬間に向けられた氷のような視線と、突き放すような冷たい声が脳裏をよぎる。
リックが帰った後、テレサは身の回りの世話をしてくれているらしい侍女に、おそるおそる尋ねてみた。
「あの、私、階段から落ちる前、グレイソン様との関係で悩んでいたの?」
侍女は一瞬気まずそうに目を伏せたが、やがて小さく頷いた。
「はい。確かに記憶を失う前のテレサ様は、グレイソン様とのことで深く思い悩んで、よくため息をついておられました」
「リック様が言っていたわ。グレイソン様には他に親しい女性がいるという話も、本当なの?」
さらに踏み込んで尋ねると、侍女はますます言い淀みながらも口を開く。
「……はい。グレイソン様が特定の女性を優先されているという噂は、確かに社交界でも囁かれておりまして……」
侍女のその証言は、テレサの疑惑を確信へと変えた。
記憶喪失という、一切の先入観がない状態で見たグレイソンは、どう見ても自分を愛しているようには見えなかった。
むしろ、邪魔者を見るような目だったと。
あれから一度も見舞いに来ないのが、その証拠だ。
テレサは自室に戻ると布団の中で身震いし、グレイソンに対する警戒をいっそう強めるのだった。
◆
それから二週間ほど経ち、テレサの記憶はまだ戻らないものの、体の怪我はすっかり完治し、屋敷での普通の日常生活を取り戻しつつあった。
記憶がないため、両親や兄、そして長年仕えてくれているという使用人たちに対しても、まだどこか頭では距離感のようなものを感じてしまう。
それでも、彼らが向けてくれる細やかな気遣いや温かな眼差しに触れるたび、胸の奥底がぽかぽかと温かくなるのを感じていた。
自分が誰なのか分からなくても、心が、この人たちは大切な家族なのだと安心し、懐かしさを覚えているようだった。
そして、婚約者との面会日がやってきた。
グレイソンを出迎えるために玄関へとやってきたテレサに、彼は苛立たちげにしかめっ面を浮かべる。
「なぜこんなところにいるんだ。怪我は」
「おかげさまで、もう日常生活を送って問題ないとお医者様から許可をいただきました。 ですが、記憶の方はまだ……。 ご心配をおかけして申し訳ありません」
テレサが緊張で身を強張らせながら答えると、グレイソンは、
「そうか」
とだけ短く返し、ふいっと視線を逸らした。
二人の間に、重苦しい沈黙が降りる。
やはり態度は硬く、言葉数も少ない。
これではまるでお説教を待つ罪人の気分だ、とテレサは内心で落ち込んだ。
しばらくして、グレイソンが思い出したように、後ろ手に隠していたものを無造作に差し出してくる。
それは、小さな花束だった。
「見舞いだ」
「ありがとう、ございます」
受け取ってから、テレサは密かに小首を傾げた。
それは白い小さな花が無数に咲く、カスミソウだけの花束だった。
決して美しくないわけではないが、伯爵家の子息が婚約者に贈る花としては、あまりにも地味で控えめすぎる。
(やっぱり、仕方なく義務感で持ってきただけなんだわ)
嬉しくないわけではないが、どこか腑に落ちない思いを抱えながら、テレサは侍女に頼んでその花を、自室の窓枠の小さな花瓶に生けてもらった。
その後、客間に移動して彼とお茶会をすることになったが、この二時間ほどの間、会話はまったくと言っていいほど弾まなかった。
「本日はお天気が良くて気持ちがいいですね、グレイソン様」
「ああ」
「この紅茶は、少し珍しい茶葉だと伺ったのですが……お口に合いますでしょうか?」
「……悪くない」
テレサが必死に話題を振っても、返ってくるのは相槌か、ほんの短い単語だけ。
しかも、眉間には常に深い皺が寄っており、カップを見つめる目はどこか険しい。
沈黙が落ちるたび、テレサの胃はキリキリと痛んだ。
(これ、絶対に早く帰りたいと思っているわよね。私が記憶喪失なんて面倒なことになっているから、呆れているんだわ)
どうにか場を繋ごうと、テレサが次の話題を必死にひねり出そうとした時だった。
ふと、ティーカップを持つグレイソンの手に目が止まった。
長く形の良い指先に、スッと赤い線が引かれ、僅かに血が滲んでいる。
「グレイソン様、その指のお怪我は、どうされたのですか?」
思わずそう尋ねると、グレイソンは決まりが悪い顔になって急いで手を引っ込め、眉間の皺をさらに深くした。
「っ、君には関係ないことだ」
これまで以上に冷たく突き放すような物言いに、テレサはビクッと肩を揺らした。
(私には関係ない……。それならもしかしたら、噂に聞く親しい女性に関する怪我なのかもしれないわね)
胸の奥が痛んだが、それでも血が滲んでいるのをそのままにはしておけなかった。
テレサは侍女に目配せをして小さな薬箱を持ってこさせると、怯えながらもグレイソンに向き直る。
「ですが、血が出ていますから……。少しだけ、手当てをさせてください」
そしてグレイソンが拒絶するよりも早く、テレサは恐る恐る彼の手を取った。
ビクッと彼の大きな手が強張ったのが分かったが、振り払われはしなかったため、テレサはホッと安堵の息を吐きながら、慎重に傷口に薬を塗り、清潔な布を巻いていく。
手当てを進めながらそっと彼の様子を窺い見たテレサは、思わず息を呑んだ。
グレイソンは顔をぷいと横に背け、口を真一文字に結んで、先ほどよりもさらに不機嫌そうなオーラを放っていたのだ。
(ああ、やっぱり無理やり手当てなんてされて、不快だったんだわ。本当に嫌そうなお顔で)
テレサはすっかり萎縮してしまい、
「……終わりました」
と、蚊の鳴くような声で言ってから彼の手を離した。
「すまない」
グレイソンはひと言だけそうボソリと呟き、居心地が悪そうにそそくさとカップに手を伸ばす。
(やっぱり、私のことなんて少しも好きじゃないのね)
静まり返った息苦しい客間で、テレサは早くこの時間が過ぎ去ってくれることだけをひたすらに祈っていた。
けれど、グレイソンが空気に溶ける声で
「ありがとう」
と言っていたことと、彼の耳の先がほんのりと赤く染まっていることに、俯いて紅茶を飲んでいたテレサが気づくはずもなかった。
◆
その翌日。
テレサは気分転換も兼ねて、侍女を連れ、王都の街へ買い物に出かけていた。
久しぶりの外の空気を楽しんで歩いていると、不意に人混みの中から明るい声で名前を呼ばれた。
「テレサ!」
振り返ると、そこには非番なのだろうか、軽装に身を包んだリックが立っていた。
「リック様。偶然ですね」
「ああ、よかった。君に会えて嬉しいよ。実はこれから、君の屋敷にこれを持っていこうと思っていたところだったんだ」
そう言ってリックは、誇らしげに手にしたものを差し出した。
それは、大輪の白いユリを束ねた、見事なまでに豪華な花束だった。
「テレサの顔色がすっかり良くなったみたいで安心したよ。これ、君にぴったりだと思って」
「わあ、綺麗。ありがとうございます」
「君、これ好きだっただろう? 少しでも気が晴れればと思ってさ」
爽やかな笑顔で言われ、テレサは花束を受け取った。
だが、その瞬間、妙な違和感が胸をよぎった。
(私が、ユリを好き……?)
記憶がないのだし、幼馴染である彼がそう言うなら事実なのだろう。
確かに、普通の女性であればもらえば大抵喜ぶ、華やかで立派な花だ。
けれど、腕に抱えた途端に鼻腔を突いたユリの濃厚で強い香りに、テレサはなぜか頭の芯がツンと痛むような感覚を覚えた。
……自分は本当に、こんなに香りの強い花が好きだったのだろうかと。
「リック様、わざわざありがとうございます。部屋に飾らせていただきますね」
痛む頭をごまかしながら、テレサは表面上は笑顔を作って礼を言った。
屋敷に帰り、侍女に頼んで花瓶を用意させる。
自室の窓辺には、昨日グレイソンが置いていったカスミソウと、今日リックからもらった豪華なユリの花が並んで飾られることになった。
一人になった部屋で、テレサはソファから二つの花瓶を見つめる。
誰の目から見ても、喜ばれるのは高価で華やかなユリの花束だろう。
けれど、なぜだろうか。
静かに咲くあの地味なカスミソウを眺めている時の方が、無性に心が安らぎ、じわじわと温かい嬉しさが込み上げてくるような気がするのだ。
(もしかして私……ユリはあまり得意じゃないのかしら)
ぽつりと胸の内に落ちたその小さな違和感の種は、まだ芽を出すこともなく、テレサの心の奥底にひっそりと埋もれていった。
◆
あの日から、テレサの部屋には定期的にリックからの贈り物が届くようになった。
彼が直接屋敷を訪ねてくることはないが、使用人を通じて大輪のユリの花束や、王都で一番人気だという色鮮やかで甘いお菓子、そして流行りの甘ったるい恋愛小説などが次々と届けられた。
しかし、部屋にユリの強い香りが充満するたびに、テレサは密かに頭痛を堪えて窓を開けた。
お菓子も見た目は可愛らしいが、砂糖の甘さが強すぎて一口食べれば十分だったし、恋愛小説にもまったく食指が動かなかった。
ふと自室の本棚を見てみれば、並んでいるのは分厚い歴史書や周辺諸国の地理に関する真面目なお堅い本ばかりだ。
「私、こういう可愛らしいものはあまり好きじゃないのかしら」
キラキラした男女の絵が書かれた恋愛小説の表紙を見つめながら、ふとそうこぼすと、聞こえていたらしい侍女が懐かしそうに目を細める。
「お嬢様は、甘いお菓子も、ユリの花も、ロマンチックな物語も大好きでしたよ。とはいいましても、まだお嬢様が幼かった子供の頃のお話です」
その言葉に、テレサは妙な引っ掛かりを覚えた。
それから時折、気分転換に王都へ出ると、なぜか絶妙なタイミングでリックが現れることが増えていた。
彼は大通りや広場で親しげに話しかけてきては、長々と自分語りを始める。
「あの冷酷な婚約者とは、絶対に別れた方がいい。それに比べて僕は、昔からずっと君のことだけを見てきたんだから。僕のほうが君をよく知っていると思うんだ」
「ですが、私はまだ何も思い出せなくて、自分がどうしたいのかすら分からず不安で……」
「記憶なんて戻らなくてもいいよ! 僕がこれから、君に新しい思い出をたくさん作ってあげるから」
彼は爽やかな笑顔でそう言い切ったが、テレサの心はちっとも晴れなかった。
(記憶が戻らなくてもいいだなんて。まるで、私が今の宙ぶらりんなままでいることを喜んでいるみたい)
リックの言葉はひたすらに甘いが、テレサの不安に寄り添うものでは決してなかった。
彼が見ているのは、幼い頃から見てきた自分の理想のテレサであり、目の前で戸惑うテレサ自身ではないような気がするのだ。
最近では彼に会うとどっと気疲れしてしまい、
「少し疲れましたので」
と適当な理由をつけて、早々に馬車へ逃げ込むようになっていた。
一方、月に一度のグレイソンとの面会日は、相変わらず言葉数が少なく、はじめは確かに重い空気で満たされていた。
しかし、彼が持ってくる品は、リックのそれとは正反対だった。
お菓子は流行りとは無縁の、甘さ控えめな焼き菓子や、素朴な木の実のタルトだった。
若い女性に贈るには渋すぎるチョイスだったが、不思議なことにテレサの口にはとても合い、お茶の時間が楽しみになった。
時折無言で差し出される本も、テレサの本棚に並んでいる歴史書の続きや、彼女の知的好奇心をくすぐる内容のものばかりだった。
相も変わらず、花束はカスミソウである。
そして、気づいたことがある。
花やお菓子を持ってきた時に限って、その長い指には決まって切り傷が作られていた。
理由を聞いても、関係ないとばかりに顔を背けられるだけ。
だが、テレサが怯えながらも薬箱を取り出すと、彼は渋々といった様子で大人しく手当てをさせてくれる。
「痛みますか?」
「……いや」
眉間に皺を寄せ、視線も合わせてくれない。
それでも、丁寧に薬を塗り、包帯を巻いていくその短い時間だけは、不思議と空気が穏やかだった。
言葉はなくとも、彼の手から伝わる体温と、押し付けがましさの欠片もない振る舞いに、テレサはいつしか心地よさすら感じるようになっていた。
(グレイソン様は、ちっとも甘い言葉は言ってくれないけれど。私が本当に好きなものを、ちゃんと知ってくれているのかしら)
そう考えると、あの強面の表情もなんだか可愛く見えてくる。
不器用な彼に惹かれ始めている自分に気づき、テレサは胸の奥が温かくなるのを感じた。
だが、その直後に冷や水を浴びせられたように心が沈む。
(だけど……彼には、他に優先する親しい女性がいるのよね)
手当てを終えて彼の手を離すたび、その重い噂の影がテレサの心を締め付ける。
自分は所詮、義務で会いに来てもらっているだけの厄介な婚約者でしかないのだという事実が、少しずつ惹かれ始めたテレサの心を痛いほどに抉るのだった。
◆
そんなある日、気晴らしのために王都の街を歩いていたテレサは、信じられない光景を目にして足を止めた。
大通りの少し外れにある、お洒落な雑貨屋の立ち並ぶ通りを、グレイソンが一人の美しい女性と親しげに並んで歩いていたのだ。
女性は楽しそうに笑いながら彼の腕に軽く触れており、グレイソンもまた、テレサに向けたことのないような、どこか柔らかく気を許したような表情を浮かべている。
テレサには一目で分かった。
あれが噂に聞く、彼が親しくしている女性だと。
その瞬間、テレサの胸を鋭い痛みが貫いた。
呆然と立ち尽くしていると、ふいにグレイソンが顔を上げ、こちらを見る。
同時に、バチリと視線が絡み合う。
「っ……!」
驚きに見開かれた黒い瞳で向けられる表情。
それは、記憶を失ってから今までしかめっ面しか知らなかったテレサにとって、初めて見る彼の動いた顔だった。
二人は文字通り、その場に縫い止められたように固まった。
だが、先に動いたのはテレサの方だった。
彼女は弾かれたように背を向け、ドレスの裾を握りしめて駆け出した。
「待て……っ!」
背後からグレイソンの焦ったような声と足音が追いかけてくる気配がしたが、テレサは振り返らなかった。
その時彼の隣にいた女性が、
「ちょっと、またこの展開!?」
と叫んだのが聞こえたが、その言葉の意味を考える余裕などなかった。
テレサは少し離れた場所で待たせていた侍女の元へ駆け込むと、転がり込むように馬車に乗り込み、屋敷へと逃げ帰る。
自室に戻ったテレサは、震える手で窓辺のカスミソウを掴み取った。
(こんなものっ、もう捨ててしまおう)
そう思い、ゴミ箱へ投げ捨てようと腕を振り上げる。
だが……どうしても、その手を下ろすことができなかった。
いつも不機嫌そうな彼が、不意に差し出してくれる小さな花。
手当てをした時の彼の温かい体温や声を思い出すと、視界がぼやけ、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「お嬢様!? 突然お帰りになったかと思えば、いかがなされたのですか!?」
慌てふためく侍女に、テレサは、急に気分が悪くなっただけと適当な嘘をついて誤魔化し、そのままベッドに突っ伏して泣き続けた。
涙が枯れる頃、テレサの頭に浮かんだのは、婚約解消の言葉だった。
元々この婚約は、スワイス伯爵家とワイズ伯爵家の派閥の結びつきを強めるための、両親が決めた政略的なものだ。
そこに愛などなくとも成立する関係。
だとしたら、愛する女性がいる彼を縛り付けておくのは、お互いにとって不幸でしかないのではないか。
少し考えたいからと、テレサは一人で屋敷の裏手にある中庭へと足を運んだ。
スワイス伯爵家の屋敷は小高い丘の上に建っており、裏手の中庭はそこから見下ろすような一段低い位置に広がっている。
そのため中庭へ降りるには、長く急な白い石階段を下る必要があった。
あの日、テレサが転落した曰く付きの階段だ。
冷たい風に当たりながら階段の上でぼんやりと立ち尽くしていると、何の前触れもなく背後から声がした。
「――酷い顔だね、テレサ。さっきの街での光景、僕も見ていたよ」
「えっ……リック様?」
振り返ると、そこにはテレサを気遣うような表情を浮かべたリックが立っていた。
しかし、穏やかな顔の彼を見ながらも、テレサはゾクリと背筋を凍らせる。
――彼が訪問しているなど、使用人の誰からも聞いていない。
「どうして、ここに? 誰か、案内を……」
「誰も通していないよ。昔、君に会いたくて僕が見つけた、この中庭に侵入するための秘密の抜け道から来たんだ」
悪びれもせず笑う彼に、テレサははっきりとした恐怖を覚え、思わず一歩後ずさった。
けれどリックは、気にせず朗らかに笑う。
「君も見ただろう、あの男の本性を。他の女と平気で歩くようなクズなんだ。だから、君をあの男から救い出して駆け落ちする手はずを整えた。さあ、『今度こそ』一緒に逃げよう!」
リックがじりじりと距離を詰めてくる。
その目は異様に大きく見開かれ、瞳孔が開いた異常な執着の色を宿していた。
(……おかしい。今のリック様は、絶対にどこかおかしいわ)
いや、この違和感は今に始まったことではない。
思い返せば、記憶を失って彼と再会した日から、ずっとちぐはぐな違和感を抱いていたではないか。
ひたすら押し付けてくるユリの花に、好みを無視した甘すぎるお菓子。
彼女の不安など一切聞こうとせず、ただひたすらに自分の理想ばかりを押し付けてくる身勝手さ。
爽やかな笑顔の裏に隠されていたその異様さが、今、はっきりと形を成してテレサの前に立っている。
それに、先ほど彼が口にした言葉。
『今度こそ』、一緒に逃げよう――?
(今度こそって、どういうこと? 私たちは以前にも、駆け落ちしようとしたことがあったというの?)
得体の知れない恐怖が足元から這い上がり、テレサはガタガタと震えながら彼が詰め寄った分だけじりじりと後ずさった。
「こ、今度こそ、というのは、どういう意味ですか?」
絞り出すように尋ねたテレサに、リックは陶酔しきったような笑みを浮かべる。
「忘れてしまったの? 僕たちは、ずっと密かに想い合っていたじゃないか。君があの冷酷な婚約者のことでいつも泣いているから、僕が君を救い出して、二人で駆け落ちしようと約束していたんだよ。あの日、君が階段から落ちてしまう前もね」
甘く優しい声の彼に、テレサは激しい悪寒を覚えた。
そんなはずはない。
記憶がなくとも、魂が、本能がはっきりと告げている。
自分がこの男に恋愛感情を抱くことなど、絶対にあり得ないのだと。
「リック様、お願いです、来ないで……」
「大丈夫、僕の言う通りにすれば絶対に幸せになれるから」
リックが強引にテレサの腕を掴む。
狂気じみた笑顔に、テレサは悲鳴を上げてその手を振り払った。
「いやっ、離してください!」
「……君は、またそう言って僕から逃げようとするんだね」
拒絶されたリックの顔から、すっと表情が消えた。
「昔の君は、僕が持っていく甘いお菓子を喜んで食べて、僕が贈った花を抱きしめて、僕の隣で笑っていたのに。どうして僕の思い通りにならないんだ」
その言葉を聞いて、テレサは完全に理解した。
この男は、テレサを愛しているわけではない。
自分の思い通りに動く『過去の理想のテレサ』という人形を求めているだけなのだ。
「私は、あなたの操り人形ではありません!」
テレサが毅然と睨みつけると、リックはふっと暗い笑みを漏らした。
「……やっぱり、もう一回、この階段で記憶を失くした方がいいかもしれないね」
「え……?」
「前は、僕から逃げようとした君が勝手に足をもつれさせて落ちていった事故だったけど。もう一度記憶がなくなれば、今度こそ僕の理想の君になるはずだから」
「なっ――」
息を呑むテレサを見下ろし、リックはぞっとするほど甘く、そしてひどく歪んだ笑みを浮かべた。
そしてこの場にまるで合わない、愛しい子供を寝かしつけるかのような優しすぎる声で言った。
「おやすみ、テレサ。次に目が覚めた時は――僕だけを愛する、従順な君になっていてね」
テレサが戦慄した次の瞬間、リックの手がドンッと彼女の肩を強く突いた。
バランスを崩し、宙を舞う体。
長く急な石階段の下へと、体が真っ逆さまに落ちていく。
とっさに何かを掴もうと必死に腕を伸ばしたが、指先は虚しく空を切るばかり。
もつれたドレスの裾が重く、空中で体勢を立て直すことなどとうてい不可能だった。
「やめろーっ!!」
その時、屋敷の方から耳をつんざくような叫び声が響いた。
同時に、視界の端で、黒い影が弾丸のような速度で飛び込んでくるのが見えた。
ドンッ、という強い衝撃と共に、テレサの体は太く力強い腕にギュッと抱きすくめられる。
「きゃあっ!?」
しかし状況を把握する間もなく、激しい回転がテレサを襲う。
たまらずテレサはぎゅっと目を瞑る。
硬い石の角がぶつかる鈍い音が何度も響き、ようやく止まった。
テレサは震えながらも、ほっと息を吐く。
痛みはほとんどない。
それに、体も……と、ここでテレサは初めて、自分が誰かに守られるように抱き締められていたことに気づく。
確認しようと恐る恐る目を開けると、自分を庇うように覆い被さっているグレイソンの顔がそこにはあった。
「グレイ、ソン様……?」
「……無事か、テレサ」
苦しげに顔を歪めた彼が、安心したように微笑む。
どうして彼がここに、という疑問が湧いたが、それを口にするよりも先に、その黒髪の隙間から、タラタラと生々しい赤い血が流れ落ちて彼の白い頬を伝っていくのが見えた。
「っ……」
グレイソンは微かに息を吐き出すと、そのまま糸が切れたようにゆっくりと瞼を閉じる。
触れ合っている彼の肌から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かる。
さっきまでしっかりと抱きしめてくれていたはずの大きくて温かい体が、急速にその熱を失っていくように感じられた。
「いや……あ、あああっ! グレイソン様、グレイソン様っ……!!」
テレサの悲痛な叫び声が、夕暮れの中庭に響き渡った。
◆
階段から転落したグレイソンは、幸いにも命を取り留めた。
しかし頭を強く打っており、絶対安静のため面会は禁じられてしまった。
一方で、リックはその場から逃走したものの、テレサがすぐに事の次第を周囲に説明したため、あっけなく捕縛された。
高位貴族の令嬢と次期伯爵に対する殺人未遂。
その罪は極めて重く、リックは騎士の身分を剥奪された上で、生きて帰ることは困難とされる極寒の辺境の鉱山へと終身強制労働に処されることになった。
当然、リックが見つけたらしい中庭への侵入経路は、すぐに塞がれた。
そんな騒動の中、グレイソンの流す血を見たショックで、テレサの記憶は完全に蘇っていた。
記憶を失う前、テレサが悩んでいた理由。
それは、グレイソンのことが大好きなのに、彼がいつも無愛想だから嫌われているのではないかと不安で悩んでいたのだ。
もちろん、彼の親しくしている女性の噂についても心を痛めていた。
そしてもう一つ大きな悩みがあった。
リックのことである。
ただの幼馴染のはずなのに、最近はストーカー気味に付き纏ってくる彼に恐怖を感じていたが、お互いの両親が懇意にしていたため誰にも相談できず、どうやって波風立てずに縁を切るべきか一人で思い悩んでいたのだ。
記憶喪失になったあの事故は、今回と同じように中庭に忍び込んでいたリックが強引に迫ってきた時に、彼の腕から逃げ出した拍子に足を滑らせて階段から落ちたことが原因だった。
すべてを思い出したテレサは、グレイソンへの申し訳なさと愛しさで胸を痛めながら、面会許可が降りる日を今か今かと待ちわびていた。
数日後、ようやく面会を許されたテレサは、彼が療養する部屋へと駆け込んだ。
ベッドからゆっくりと体を起こしたグレイソンの頭には、痛々しい包帯が巻かれている。
その姿を見た瞬間、テレサの目から堰を切ったように涙が溢れ出す。
「グレイソン様、本当に、無事でよかった……!」
「泣くな、俺は大丈夫だ」
テレサは堪えきれずにベッドサイドに歩み寄り、彼の手に両手でそっと触れると、温かな体温を感じる。
グレイソンの体がビクリと跳ねるが、構わずその手を強く握る。
「助けていただいて、本当にありがとうございました。あなたの命が助かっただけで、私はもう何も望みません」
テレサはもう決めていた。
本当に愛しているからこそ、自分からグレイソンを解放すべきだと。
テレサは意を決すると、まっすぐにグレイソンの黒の瞳を見つめて言った。
「グレイソン様。私たちの婚約を、解消いたしましょう」
静かに告げたテレサの言葉に、グレイソンは雷に打たれたように固まった。
テレサは涙を拭い、精一杯の微笑みを浮かべる。
「あなたには、他に本当に愛している方がいらっしゃるのでしょう? 私のような者のために無理をせず、どうかその方と幸せになってください」
その言葉に、グレイソンは顔を真っ青にして慌てふためいた。
「ち、違う! それは誤解だ、俺は――!」
彼が必死に叫ぼうとしたその時、バタンッと勢いよく部屋の扉が開いた。
「あれ、お邪魔だった? ごめんごめん!」
ひょっこりと顔を出したのは、なんとあの王都でグレイソンと親しげに腕を組んでいた美しい女性だった。
「あ、あなたは……っ」
驚いて言葉を失うテレサの前で、女性は勝手知ったる様子でスタスタと部屋の中へ入ってくる。
ノックもせずに療養中の彼の部屋へ入り、この空間に完全に馴染んでいる彼女の姿を見て、テレサの胸はきゅうっと締め付けられた。
(ああ、そうよね。彼女はもう、すっかりこの屋敷に受け入れられているんだわ……)
テレサが記憶喪失でまごまごしている間に、彼らはどれだけの時間を共に過ごし、絆を深めていたのだろう。
ますます自分には居場所がないのだと突きつけられたようで悲しかったが、愛しいグレイソンには絶対に幸せになってほしい。
テレサは震える唇を必死に引き結び、彼らを祝福するために、これ以上ないほど健気な笑顔を作ってみせた。
「ごきげんよう。私は、婚約者のテレサ・スワイスと申します。でも安心してください、今ちょうど彼に別れを告げたところですから。どうか、彼を支えてあげてくださいね」
涙を堪えながら告げたテレサの言葉に、グレイソンは、
「違うっ!!」
と血を吐くような声で叫んだ。
しかし、入ってきた女性はきょとんとした顔でテレサを見つめると、あっけらかんと言い放った。
「どういうことだかさっぱり分からないんですけど、とりあえずはじめまして、テレサ様。私、グレイソン兄さんの異母妹のベッキーと申します! 礼儀作法はまだ勉強中なので、その辺は大目に見てもらえると助かります」
「い、異母妹……?」
どういうことかと目を瞬かせながら固まっていると、ベッキーが簡潔に説明してくれた。
ベッキーはワイズ伯爵の婚外子だったが、最近になって実母を亡くし、伯爵家に正式に引き取られてきたのだという。
持ち前の明るい性格で、今では伯爵家にも自然に馴染んでいるらしい。
「私が引き取られるずっと前から、兄さんったらこっそり私と母さんの様子を見に来てくれてて。生活に困らないようにお金や物を援助してくれたり、凄く気にかけてくれてたんです」
ベッキーの言葉に、テレサははっとした。
無愛想で冷酷だと思われていた彼は、誰にも知られず、身分違いの異母妹を優しく守り続けていたのだ。
「それにしても兄さん、何をもたもたしてるの? テレサ様が記憶喪失になる前も、私と兄さんが二人で歩いてるのを今回と同じように見られて、恋人がいるって勘違いさせて泣かせちゃったのにさ」
「なっ、ベッキー、お前……!」
「『テレサの記憶が戻るまでは、混乱させたくないから俺の口から本当のことは言わない』なんてカッコつけてたけど、あんな悲しい顔させたうえでお別れを言われるくらいなら、初めからちゃっちゃと説明しておけばよかったのに。ほんっと不器用とういか、ビビリというか」
「えっ……?」
呆れ返ったようにため息をつくベッキーの言葉に、テレサは唇をわななかせながら口を開く。
「では、グレイソン様が親しくしている女性がいるという噂は……」
「全部、私と兄さんが一緒にいるのを見た人たちの勘違いです。それに、この朴念仁の兄さんが私以外の女性と仲良くしてるってこともないので、安心してくださいテレサ様。……っていうか、このままだといつまでも話が進まなさそうなので、兄の代わりに、私が全部ゲロっちゃいますね」
ベッキーはニヤリと悪戯っぽく笑うと、とんでもない暴露を始めた。
「本当はですね、兄さんはテレサ様のことが大好きで大好きでたまらないんですよ。好きなものをちゃんと調べたうえで贈り物も用意してたくらいで。でも、テレサ様を前にすると緊張してガチガチに固まっちゃうから、『ああ』とか『分かった』とか単語しか喋れなくなるし、顔もあんなに怖くなっちゃうんです。本当はすっごくお喋りなんですよ?」
「おい、ベッキー、もうやめろ……!」
しかし止めるグレイソンを完全に無視して、ベッキーは続ける。
「面会日以外にも会いに行きたいって毎日悶々と悩んでるし。テレサ様にお見舞いで持っていったあのお菓子、あれ、兄さんが私に教わりながら徹夜で手作りしたんですよ?」
「て、手作り……!?」
「それに、あのカスミソウ。テレサ様に贈るために、うちの屋敷の庭に、兄さんが自分で花壇を作って育ててるんです。お菓子作りの火傷やら、花を摘む時の切り傷やらで、手はいつも生傷が絶えなくて。でも、『テレサが手当てをして触れてくれるのが嬉しい』ってデレデレしてるんですよ!」
あらゆる秘密を暴露されたグレイソンは、ついに耳まで真っ赤にして、
「……っ、何も全部言うことないだろうが……!」
とくぐもった声で叫び、布団に頭からすっぽりと潜り込んでしまった。
すっかり丸くなった毛布の塊を見て、テレサは目を丸くした。
(手作りのお菓子に、私が好きだからと育ててくれた花……。手当ての時の不機嫌そうな顔は、あれ、照れていたの?)
しかしグレイソンの反応を見るに全部事実なのだと分かり、テレサの顔も林檎のように赤く染まる。
「そもそも、お兄様が好きな相手に緊張しまくって何一つ言葉にしないからいけないんですよ。ほら、最後くらいビシッとしなよ、ビシッと!」
ベッキーは布団の中の兄をバシッと力強く叩いて喝を入れると、
「あとはお二人でごゆっくりー!」
とウインクをして、嵐のように部屋から去っていった。
静まり返った部屋で、テレサは何も言えず、盛り上がった布団をただ見つめる。
しばらくして、もぞもぞと動いた布団の中から、髪をぐしゃぐしゃにしたグレイソンが恐る恐る顔を出した。
その顔は、今まで見たどんな時よりも真っ赤に染まっていた。
強面で冷酷だと思っていた婚約者のそんな姿がたまらなく愛おしくて、テレサはふふっと小さく吹き出してしまう。
「グレイソン様。今の話、本当ですか?」
「……っ、あいつ、余計なことばかり。……すまない。俺は、その、ど、どう気持ちを伝えていいか分からなくて、ずっと、君に誤解ばかりさせていた」
しどろもどろになりながらも、グレイソンはテレサの目を真っ直ぐに見つめ返した。
その漆黒の瞳には、隠しきれないほどの深い熱と、優しい愛情が宿っている。
「俺は、君だけを、あ、ああ、あ、っ愛している! だから……どうか、婚約解消などと言わないでくれ」
最後の方は消え入る声で、どこか泣きそうな表情で告げられた言葉に、
「……はい」
テレサはぽろぽろと嬉し涙をこぼしながら、今度こそしっかりと彼の手を握り返した。
「私も、言葉が足りなくてごめんなさい。記憶を無くしたあとも、そして記憶喪失になる前から、ずっとあなたのことが大好きでした」
その言葉を聞いた瞬間、グレイソンはピタリと動きを止めた。
まん丸に見開かれた黒い瞳が、信じられないものを見るようにテレサを見つめる。
「き、記憶が、戻ったのか……? それに、記憶を失う前から、君も俺を……」
「はい。 嫌われているのではないかと、ずっと不安だったんです。これからは言葉にして伝えます。だからグレイソン様も、ちゃんと私に伝えてくれますか?」
「…………っ!!」
テレサが涙交じりに微笑みかけると、グレイソンの顔は、先ほどとは比べ物にならないほど一瞬にして沸騰したように赤くなった。
自分が愛していた相手も、実はずっと自分を愛してくれていた。
その事実の破壊力は、不器用で純情な彼にはあまりにも刺激が強すぎたらしい。
「グレイソン様?」
「あ、あああ……俺は、なんて馬鹿な勘違いを……!」
バサッ!!
グレイソンはたまらなくなったように、再び布団を頭からすっぽりと被ってしまった。
「ええっ!? グレイソン様、どうしてまた隠れてしまわれるんですか!」
「頼む、少しだけ……少しだけこのままにしてくれ……! 嬉しすぎて、君の顔をまともに見られそうにないんだ」
布団の中から聞こえてくる、情けなくも震える声。
そのあまりの愛らしさに、テレサは大きな声を出して笑ってしまった。
「もう。本当に、不器用な方なんですから」
テレサは愛しさを込めて、丸くなった大きな布団の塊をそっと抱きしめた。
◆
それから、しばらくの時が流れて――。
二人が晴れて夫婦となった邸宅の玄関ホールに、弾むような足音が響き渡った。
「愛しのテレサ! 今帰ったぞ!」
出迎えたテレサの姿を認めるなり、グレイソンは分かりやすくご機嫌な様子で満面の笑みを浮かべ、ギュッと彼女に抱きついた。
かつて眉間に深い皺を寄せていた、あの強面の面影など見る影もない。
「ああ今日も君は世界で一番綺麗だ。いや朝に出かけた時よりもさらに可愛くなっているな。早く君に会いたくてたまらず馬車を飛ばして帰ってきたんだ」
「ふふっ、おかえりなさいませ、グレイソン様」
息継ぎも忘れたように甘い言葉を囁きながら、彼が誇らしげに差し出してくるのは、両手で抱えきれないほどのテレサへの贈り物だ。
「毎日こんなにたくさん……いくらなんでも多すぎますよ」
「何を言うんだ。俺の君に対する愛の重さを考えたら、これでもまだまだ足りないくらいだ! 明日はもっと君が喜ぶものを探してくるからな。それに君の好みそうな味のお菓子の作り方をベッキーに聞いてきたからな。これから作るから食後に一緒に食べよう」
苦笑するテレサに対し、グレイソンはキラキラとした瞳でどこまでも雄弁に愛を語り続ける。
(ベッキーが言っていたことは、本当に正しかったのね)
堰を切ったように言葉を紡ぎ続ける彼を見つめながら、テレサは心の中でこっそりと頷いた。
緊張が解けたグレイソンは、呆れるほどに愛情深く、そして――恐ろしいほどにおしゃべりだったのだ。
「愛しているよ、テレサ。君は俺の生涯の宝物だ」
「ええ。私も愛していますわ、グレイソン様」
甘すぎる夫の言葉に幸せなため息をつきながら、テレサは優しく彼の背中に腕を回す。
かつての息が詰まるような沈黙の時間は、もうどこにもない。
呆れるほど甘くて騒がしい、愛しい夫との幸せな日々はまだ始まったばかりだ。




