薬師寺夫人の日常
薄暮の住宅街を歩く。ここは、どこだろう? 分からない。分からないまま歩いている。どこに向かうあてもない。帰る場所もない。
声が聞こえる。びくりと肩を震わせ、彼女は左手で右の袖を掴んだ。うつむき、立ち止まる。少し怪訝そうな視線を残して、すれ違った誰かはそのまま去っていった。息を吐く。手が細かく震える。歩き出す。歩かなければ――引きつるように、痛む。
すれ違う。すれ違うたびに、怖い。誰もが不審げに、あるいは不快そうに、一瞥を残して去る。きっと、私は、異物、なのだ。ここにいてはいけない。いるだけで不幸にする。
逃げなければ。でも、きっとまた捕まる。逃げたい。でも、きっと逃げられない。手の届かないところまで――そんな場所が、どこにある?
ヘッドライトが近付く。住宅街を通るには速すぎる速度で車が近付く。彼女はぼんやりとした顔を上げ、吸い寄せられるように一歩を踏み出し――
「あらあらあら、あなた、いったいどうしたの」
急に背後から声を掛けられ、踏み出そうとした足が止まる。身体が硬直し、呼吸が浅く、速くなる。背を丸め、彼女が胸の前で両手を握った。声の主が彼女の前に回り込む。車が二人の脇を通り過ぎた。
「そんなに薄着で。それでは風邪をひいてしまうわ。それに、まあまあ、あなた、裸足ではないの」
目を丸くしてそう言ったのは、凛と背を伸ばし、真っ白な髪を結い上げ、品よく着物を着こなした一人の老婆だった。うつむき、身を縮める彼女に老婆は手を伸ばす。
「――ッ」
老婆が腕に触れた瞬間、走った鋭い痛みに彼女は固く目を瞑った。弾かれたように手を引いた老婆の瞳に鋭い光が掠める。老婆はすぐに柔和な笑みを浮かべ、小さく頭を下げた。
「ごめんなさいね。急に見知らぬ老人に触られたら、誰だって嫌だし、怖いわね」
老婆は、今度はゆっくりと、穏やかに語り掛ける。
「怖がらせてしまったお詫びをさせてちょうだい。お願い」
目を瞑ったまま、彼女は首を横に振る。老婆はそっと彼女の手を取り、両手で包んで、彼女の耳元に顔を寄せた。
「大丈夫よ。もう、大丈夫。よく頑張ったわね。けれどもう、大丈夫よ」
感覚を失っていた指先に、温もりを感じる。寒かったのだと、初めて知る。
「――私が、来ましたからね」
彼女の目から涙が溢れ、頬を伝い落ちた。
「早川」
彼女をリムジンに乗せ、老婆は無表情に呼び掛ける。いつの間にか老婆の背後に、影のように従う一人の男がいた。
「お願いね」
「承知いたしました」
何を、と老婆は言わず、早川と呼ばれた男も問わない。老婆はリムジンに乗り込む。早川はスマートフォンを取り出し、耳に当てた。
朝の穏やかな日差しが庭に降り注いでいる。朝食を終え、一人の品のよい老婆が食後の紅茶の香りを楽しんでいた。紅茶を淹れたメイドが緊張気味に立っている。BGM代わりのテレビが、長年妻に暴力を振るい続けていた一人の男が逮捕されたニュースを伝えた。メイドの手がわずかに震える。老婆はそっとメイドの手に触れた。向かいに座る彼女の夫が、新聞に目を通しながら言った。
「また新しいメイドを雇ったのだね」
老婆は紅茶に口をつけ、満足そうにうなずくと、事も無げに答える。
「何か問題でも?」
夫は顔を上げ、老婆を見る。しばし老婆を見つめ、
「とても良いことだ」
そう言って夫は再び新聞に目を落とした。
「突然の電話にて失礼をいたします。
私、薬師寺家の執事をしております、早川と申します。
この度の警視総監へのご就任、主に代わりまして心よりお祝い申し上げます。
ところで――」
早川の瞳に静かな火が灯る。
「警視庁の皆様は普段、どのようなお仕事をなさっておられるのでしょうか?
奥様はいささか、お怒りでございます」




