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Protocol 9:最後の解剖


 静寂は、死の直前の最も饒舌な時間だ。

 俊作は、警察の包囲網をかい潜り、ついに父・宗一が最期に勤務していた大学病院の地下、第一解剖室へと辿り着いた。かつて父が「聖域」と呼び、人生の半分以上を過ごした場所。ステンレスの解剖台は月光のような冷たい光を反射し、空気には今もなお、ホルマリンと生臭い鉄の匂いが微かに混じっている。

  俊作は、震える手で最後のファイルデータ――二十冊目の日誌を開いた。そこには、これまでの冷静な臨床記録とは一線を画す、一人の人間が崩壊していく過程の「実況解説」が記されていた。


【二〇二四年 十月三日:自己観察記録】

【主訴】

 午前二時、激しい動悸により覚醒。心拍数一四〇。

 胸部の圧迫感。左腕から指先にかけての軽度の痺れ。


【経過】

 先週の理事会後に出された茶を飲んで以来、症状は断続的に続いている。

 おそらく、私がかつて河田の遺体(Protocol 5)に見つけた、あの『高周波誘発型薬剤』の初期モデルだ。

 奴らは私の日誌の存在を確信している。私を生かしたままノートの所在を吐かせるか、あるいは私の死そのものを『因果応報の心不全』として演出し、同時に不都合な記録をすべて焼却するつもりだろう。

 日誌の筆跡は、ページの進展とともに目に見えて乱れていく。かつての鋭い線は消え、震えるミミズのような文字が、父の命の灯火が細くなっていることを物語っていた。


【二〇二四年 十月十日】

 めまいが酷い。視界の端に暗い霧が立ち込める。

 鏡を見る。眼瞼結膜がんけんけつまくに黄疸のような変色。

 肝機能、腎機能ともに急速に低下している。

 私は自らの血液を採取し、密かに遠心分離機にかけた。

 血清の中に、微細な銀色の沈殿物。

 奴らが開発した最新のナノキャリアだ。これは心筋の細胞膜に吸着し、外部からの特定の周波数に共鳴して細胞を物理的に破裂させる。

 私は、自らの身体が『時限爆弾』へと変貌していくのを、ただ観察し、記録する。

 これが、解剖医としての私の、最後の執刀だ。

 俊作の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。父は、自分が殺される方法を完全に理解しながら、それを止めるためではなく、より正確に記録するために命を削っていた。


【二〇二四年 十月十七日:最後の鑑定】

 今日、私の元に一つの遺体が運ばれてきた。

 検体名、「相馬そうま 恒一こういち」。

 享年五十九。

 彼は、この大学病院の用務員だった。だがその実態は、二十年間にわたって、私が『心不全』と記した遺体たちの「後始末」――火葬の手配や証拠隠滅を現場で担ってきた、組織の末端の掃除屋だ。

 彼は死の間際、私の部屋を訪れ、震える声でこう言った。


『司馬先生、もう限界だ。毎晩、あの女優や記者の幽霊が枕元に立つ。俺は、警察にすべてを……』


 その三時間後、彼は『急性心不全』で私の解剖台に載った。

 彼の心臓を切り開いたとき、私は自分の未来を見た。

 私と同じ、ナノキャリアによる心筋融解。

 私は、彼の鑑定書に迷わずこう記した。


『死因:急性虚血性心不全』


 事務的にペンを置いたあと、私は日誌を開き、相馬の名前の横に最後の一文を添えた。


『私は、知りすぎた』


「知りすぎたから、消されたのか……。相馬さんも、親父も」


 俊作は日誌の最後の一ページを開いた。そこには、父の遺体そのものを使った「最後の仕掛け」の解読法が、図解とともに記されていた。


「……私の右足の付け根、大腿動脈の分岐点。そこに、二十年分のデータのすべてを収めたチタン製の極小カプセルを埋め込んだ。火葬の熱でも溶けず、レントゲンでも石灰化結節(石のような塊)にしか見えない偽装を施してある。俊作、私を解剖しろ。お前の手で、真実を掘り起こせ」


その時、解剖室の重い鋼鉄の扉が、外側から乱暴に蹴破られた。


「そこまでだ、司馬俊作!」


 現れたのは、これまでのスーツ姿の男たちではない。特殊犯罪捜査を隠れ蓑にした、武装した私兵集団だった。その中央から、白衣を着た老人がゆっくりと歩み寄る。父を裏切った恩師、室田学長だった。


「俊作君、そのデータを渡しなさい。君の父親は、最後まで組織の論理を理解できない哀れな男だった。彼は、医学の進歩という大義のために、少数の『心不全』が必要であることを認めようとしなかった」


 俊作はフラッシュメモリを固く握りしめ、室田を真っ向から見据えた。


「大義? 自分の保身のために人の命を数値化して、不都合になれば『心不全』というゴミ箱に捨てる。それが、あなたの言う医学か!」

「言葉を慎みたまえ。君の父親も結局、死因は心不全だった。社会はそれを信じ、明日には忘れる。君がここで消えても、同じことだ」


 室田が合図を送ると、男たちが銃を構えた。

 だが、俊作は怯まなかった。彼は解剖台の横にある古いモニターのスイッチを入れた。そこには、既に全世界の主要メディア、そして複数の国際人権団体へ向けて、父の日誌の全ページが自動送信されていることを示すプログレスバーが表示されていた。


「親父は、あなたたちの浅知恵なんて、疾うに超えていたんだ」


 俊作の声が、解剖室に響き渡る。


「親父は死ぬ直前、自分の遺体に『隠しコマンド』を仕込んだ。今、世界中の医療ジャーナリストたちが、この病院へ向かっている。父の遺体を再解剖するために。あなたたちがどんなに隠蔽しようとしても、父の肉体そのものが、あなたたちの罪を告発し続ける」


 室田の顔から、急速に血の気が引いていく。


「な、何を言っている……火葬は既に……」

「火葬場の担当者も、父の教え子でした。父は死ぬ数ヶ月前から、自分の遺体をすり替える手配を済ませていた。今、そこに安置されているのは、父じゃない。父の遺体は、既に国境を越え、第三国の法医学研究所に届いている」


 俊作は、最後の日誌を高く掲げた。


「これは、父が遺した最後の執刀記録だ。名前、司馬宗一。死因……『国家による他殺』」


 男たちが踏み込もうとした瞬間、病院の外で、無数のサイレンの音が鳴り響いた。それは、権力の犬たちの音ではない。真実を嗅ぎつけ、沈黙を破るために集結した、国内外の記者たちの怒号だった。

 俊作は、日誌の最後の一文を心の中で唱えた。


『心臓が止まっても、真実の鼓動は止まらない』

父・司馬宗一。

 彼は、最後の解剖を通じて、この国に蔓延する「心不全」という病を、根底から治療してみせたのだ。

 俊作は、涙を拭い、堂々と扉の方へと歩き出した。


エピローグ

 数カ月後。

 日本中の新聞の一面から、「心不全」という便利な言葉が消えかかっていた。

 組織的な暗殺システムに関与した政治家、官僚、そして大学病院の幹部たちは、次々と法廷に引きずり出された。

 俊作は、父の墓前に立っていた。

 墓石には、父の遺言通り、医師免許番号と、ただ一言、こう刻まれている。

『Pathologist(病理医)』

 俊作は、新しく新調した一冊のノートを取り出した。

 彼は記者として、今もなおどこかで「心不全」として葬られようとしている小さな命の声を拾い続けている。


「親父。今日の解剖記録だ」


 俊作はペンを走らせる。

 その鼓動は、かつてないほど、強く、正しく刻まれていた。


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