悪女の素質
私は受付の仕事の交代の時間になり、職場へと戻る途中で給湯室に寄ってマイカップにコーヒーを淹れていた。
「あっ⁉ここにいたんですね?サクマさん、部長がお呼びですよ?」
すると後輩同僚であるチカちゃんが給湯室のドアから顔を覗かせ私にそう告げた。
「え⁉わたし?それになんで部長?課長の間違いじゃなくて?」
普通は部長クラスの人間が私たちのような下っ端を呼び出すことなどない。
大体係長や課長が部長から命を受け動くのであって、わざわざ下っ端に直接何かを話したり命じることは滅多にないはずである。
「はい、そうなんです。私も思わずサクマですか?って聞き返しちゃいましたよ。なんか話があるから交代したらすぐ部長のところに来るようにって」
なんだろう?
私は咄嗟に自身のやらかしの有無を頭の中を高速回転させながら記憶を辿ってみたが、特にこれといって何も思い当たることはなかった。とにかく、呼ばれている以上は行かなければならないだろう。
ここでゆっくりコーヒーを飲みながら僅かな休憩をとる機会が失われ、少し憂鬱な気分で部長の元へと急ぐと、部長は近づく私に気が付きすぐに席を立って手招きしながら応接室のある方へと足を向けた。
彼の後を追い、応接室に入ると「どうぞかけて」と声がかかったので失礼しますと言って彼の向かい側に腰をおろした。
「すまないね、急に呼び立てたりして」
「いえ。あの、それでご用件は‥‥」
恐る恐る尋ねる私にそんなに緊張しないでと目の前に座る部長はやさしく微笑んでくれた。だが内ポケットから取り出した何かをテーブルの上に置くと途端に険しい表情になった。
「この手紙は本社の社長宛に届けられたものだが、社長の判断で私のところに送られてきた。見てわかる通り、きちんと差出人の住所も名前も記載されている。そして手紙の内容だが君とこの差出人のご主人が不倫関係にあると書いてある」
「‥‥‥‥‥‥」
何かを言わなくてはと思うのに、どうしても言葉が出てこない。
それは驚きと疑問と恐怖でものすごい混乱状態にあったからだ。
「まずはその手紙を読んでみてほしい」
そんな混乱状態の私を気遣うように気の毒そうな顔をした部長がそう告げた。
私は震える両手でなんとかテーブル上にある手紙を引き寄せ膝の上に置いた。
そして恐る恐る差出人のところに目を向けてみると、そこには覚えのある苗字に覚えのない名前が記載されていた。
イチジョウ リサ
まさか、イチジョウさんの奥さん?
私が知るイチジョウという苗字は一人だけ。
でもそのイチジョウさんと私の間にあるのは単なる友人関係だ。
しかも知り合ってからそう日も経っていない。
それなのにどうして?
いや、本当は少しだけ後ろめたいことがあるにはある。
既婚者だと知ってからも私が一方的に彼に好意を寄せているということだ。
だがそれでも告白もしていなければ連絡さえ取っていない。
それにイチジョウさん本人は元より、周囲にもバレていないはずだ。
私は次第に戸惑いの感情と少しの怒りの感情が湧いてきた。
だが思い切ってすでに切られている封の中から手紙を取り出し、広げてそこに書かれている文字をゆっくりと追った。
とても美しい文字で丁寧に書かれた文は内容とは裏腹にとても落ち着いた印象を与えていた。その内容は自分の夫と私が最近出会い、不倫関係になったようだと記されてあった。自分は妻としてソレを見過ごすわけにはいかず、私に対して社会的な責任をとらせるべく、その判断を会社に委ねるため告発を決断したとあった。
思わず出てしまったため息にはっとして顔を上げると目の前の部長は「単刀直入に聞くが、その内容にある不倫関係というのは事実なのだろうか?」と尋ねてきた。
「いいえ。不倫は元より、二人きりで会ったことすらありません」
私ははっきりと明言した。
「そうか‥‥いや、実は過去にも似たようなことがあったらしく、その時もただの言いがかりでそんな事実はまったくなかったそうなんだ。それにたとえ不倫が事実だったとして、あくまで個人の問題だからね。こういっては何だが会社としては無関係だし関係者同士で解決してくれとしか‥‥でもまあ、今のご時世、個人的な問題ではなく、なぜか社会的な責任問題として会社を辞めさせるとかそういう風潮にあるのも確かだよね?でも君がはっきりそんな事実はないと明言してくれたことはやはり大きい。安心したよ」
部長は見るからにほっとしていたがそれも束の間、私にこの件は会社内では社長と自分止まりで他には知られていない話なのでこのまま情報が洩れることがないようにとの勧告を受けた。
さらにできれば差出人と連絡を取って勘違いであることをきちんと説明し、互いに変なしこりを残すことがないよう話し合った方が良いだろうという忠告も受けた。
部長が特に詳しく事情を尋ねてくることもなく、私の言葉を信じて社長への報告も内々に済ませておくと言ってくれたおかげで事なきを得たが、私はまだ恐怖なのか怒りなのかわからない震えは収まりそうになかった。
だが仕事を放り、ここで籠城したままでいるわけにはいかない。
何度か深く呼吸を繰り返し、「よし!」と気合を入れ手紙をポケットに入れて立ち上がると応接室を出た。幸運なことに誰もこちらを見ておらず、気に留める様子もなかった。
そのまま席に戻っていた部長に頭をさげながら自身の席へ向かうとすぐにチカちゃんが寄ってきて「お疲れ様です」と言って個装されている一口サイズのバームクーヘンを手元に置いてくれた。そしてコーヒーも淹れ直してきましょうか?とカップに手をかけたのを制して首を振り、「チカちゃんありがとね」と言って微笑んだ。
その後いつも通り仕事をこなし、終業時間になると晴れない気持ちのまま制服から私服へ着替えて会社を出た。いつもはバスに乗り、駅まで行くところを歩いて向かっていると、途中で後ろから追いついてきた先輩同僚であるアヤさんが並んだ。
「やっと追いついた!サクちゃん今日は随分速足なんだね?」
「アヤさん?もしかして私の後を追って来たんですか?」
「うん。だってすっごく気になって心配だったからさ」
アヤさんはチカちゃんから私が部長に呼び出しを受けていたこと、そしてその後は元気がなかったことを伝えられていたそうだ。
「アヤさん、電車に乗る前にどこかでちょっとお話できませんか?」
私は唯一、イチジョウさんのことも彼にまつわる私が関係するいろいろな事情もすべて知っているアヤさんに相談してみようと思いそう誘ってみたところ、即答で「もちろん!」と頼りになる心強い言葉が返ってきた。
なんとなく会社のある駅ではないほうが良いと思い、方向が同じアヤさんの降りる駅で一緒に降り、彼女が勧めるカフェに入った。
「うちが駅から徒歩圏ならよかったんだけどバスで面倒だからさ。ここで我慢してね?」
アヤさんは慣れているのかさっさと私の分もオーダーし、テーブル席まで運んできてくれた。
「なんかすみません。私が誘ったのに全部やっていただいて‥‥」
「いいのいいの。それより部長の話って何だったの?」
私は本社の社長宛に手紙が届き、それを読んだ社長が部長に送ってきてそのことで私が呼ばれたと話した。そしてその手紙の差出人がイチジョウさんの奥さんで、名前も住所もしっかり書かれていたことも話した。
「え⁉なんでイチジョウさんの奥さんがうちの社長に手紙?それを部長が受け取ってなんでサクちゃんが呼ばれるわけ?」
「ですよね?私もそう思ったんですが、手紙の内容がイチジョウさんと私が不倫しているから許せないというのとその責任を会社が取らせるようにっていうことだったんです」
私はバッグから手紙を取り出してアヤさんに手渡した。
ほら、やっぱりアヤさんだって頭の上に?マークが並んでいて意味がわからないといわんばかりの表情をしている。
「えっと、そもそも奥さんはどうやってサクちゃんのことを知ったのかしら?イチジョウさんとは出会ってまだ二月も経っていないし、その間、会社同士の飲み会が一回あっただけじゃない。なんかとんでもない奥さんだよね?もしかして旦那のストーカーしてるとか?」
「あの‥‥アヤさん、実は偶然、ほんと~に偶然、会社帰りにドラッグストアで会って、その時にいたイチジョウさんの友人に誘われてその彼が経営しているカフェバーに行ったことがあるんです。カフェバーで友人の奥さんを入れて四人でしばらくケーキを食べながら話をして、帰りは時間が遅かったこともあって方向が同じだったイチジョウさんが車で家まで送ってくれたんです‥‥」
「そうなんだ‥‥でもそれって最近のことだよね?そのことを知って手紙を送ってくるタイミングは合ってる?」
確かに先週のことで、それをどうやって知ったのかにもよるが対応が早すぎる気もする。やはり最初に出会ったスキーの時のことを知って勘違いしているのではないかと、そう思った。それにしても単にスキーの滑走中にイチジョウさんと衝突した私が怪我を負ったのでイチジョウさんがそれを気にかけただけだし、どう考えても不倫と疑われるような言動は何一つしていない。
「本当になんで不倫を疑っているのかまったく理解できないというか、どうしたらそんな考えになるのか見当もつきません。それにこのことをイチジョウさんに話しているんでしょうか?まずはイチジョウさんに真偽を尋ねるのが先だと思うんですけど、手紙を読む限り、勝手に想像で疑った上にイチジョウさんは蚊帳の外で私を攻撃しているとしか思えないんです」
「だよね?で、どうする?イチジョウさんに連絡してこのことを話してどうにかしてもらう?それともサクちゃんが直接奥さんと連絡をとって誤解を解く?」
私は正直どちらも気が乗らないが、ここでイチジョウさんに連絡を取るなんて火に油を注ぐことになるような気がして恐ろしくてとてもできない。かといって直接会うのも気が重く、奥さんの行動が許せないという怒りもあるのでできればもう会わずに関わることもないようにしたい。
一つ、深いため息が出てしまう。
「仕方がないのでこの手紙にある住所に手紙を送ってみます。それでもし何かあちらからリアクションがあればまたアヤさんに相談してもいいですか?」
「もちろん。私で何か役に立てることがあればいつでも言って」
私は覚悟を決めて奥さん宛ての手紙を書き送った。
内容は不倫の事実はないときっぱりと否定し、旦那さんやその周囲の人たちに聞いてもらえればそれが事実であるということもはっきりすると記した。さらにこのような酷い誤解で自身の尊厳が傷つけられたことに対する怒りもしっかりと伝え、今後二度と同じような間違いを繰り返さないでほしいということをお願いした。
その後なんと彼女から自宅に手紙が届いた。
彼女に送った手紙に私の自宅住所を記載していたからだろう。
それでも私が手紙を送ってから一月ほどが過ぎていて、私はもう彼女が納得してそれで終わったものだと思っていた頃だったためとても驚いた。
恐怖心はなかったものの、予想外の手紙に戸惑いながら手紙を開封すると、一枚の便箋にたった数行だけの並んだ文字が目に入ってきた。
『あなたと直接会ってお話がしたいのでここへ連絡してください』
その短いメッセージに携帯の番号とメールアドレスだけが記されていた。
私は早速会社でアヤさんにそのことを話し、どうすべきかを相談した。
アヤさんは二人だけで会うのを心配し、彼女に互いに誰か事情を知るものを帯同して四人で話す提案をメールでしてみたらどうかと言った。私は少し考えてから会う場所は自分が指定するのでそれに同意してもらえれば一人で会うと答えた。
そして自身が希望する日時と場所をメールで送り、彼女からの返信を待った。
意外なことに返信は早く、その日のうちに私が希望した日時と場所で二人で会うことが決まった。アヤさんは心細ければ近くで待機していようかと言ってくれたが私は大丈夫だと返しその気遣いに感謝した。
それからおよそ二週間。
とうとう彼女と会う約束の日がやってきてしまった。
私が指定したのは仕事帰りではなく、休みである土曜日の午前中だった。
それはどうしても明るい時間の間に話したかったからである。
待ち合わせのカフェは主要駅の徒歩圏内にある大通りに面した大きめの店舗で人の出入りも多く、私たちが目立つようなこともないだろうと考え選んだ。
ちなみに私たちは互いの顔を知らないのでどうするか尋ねた時、なぜか彼女の方は私の顔を知っているという。そしてその理由は今日話してもらうつもりでいる。
私はドキドキしながら店内へと入っていき、店内を一周見回してからコーヒーをオーダーした。土曜の昼前なのでそれほど混雑していないが思ったよりおひとり様が多く、一人で座っているテーブル席が目立っていた。
だがふと通りに面した窓側のカウンター席に視線を移すと奥の二つが空いていた。私はとりあえすそこに座って彼女を待つことにした。
座って外を行き交う人々を眺めながらコーヒーを飲んでいると、そう間を置かず隣に誰かが立った。
「サクマさんですよね?私、イチジョウです」
そう声を掛けられ隣に顔を向けるととても綺麗な顔をした女性と目が合った。
「はいそうです。あなたがイチジョウさんの‥‥」
奥様ですか?と尋ねようとしたのを遮り彼女は自ら「妻です」と答えた。
「そうですか‥‥あの、初めまして。サクマナオです。それでお話はここでしますか?それともテーブル席に移動しますか?」
「ここで話しましょう」
立ち上がって挨拶をし、そう尋ねてみたが彼女はカウンター席でいいとそのまま私の隣に腰を下ろした。その時彼女がテーブルに置いたカップの中身が減っているのを見て、彼女は私よりも早くここに到着していたのだとわかった。
「サクマさんは私と会うのが怖くなかった?あんな手紙を会社宛てに送り付けるような女だしね?」
そう言って苦笑する彼女は悔しいがやっぱり綺麗だと思ってしまった。
「正直少し怖かったですが今は大丈夫です。あの、それでどうして私のことを奥様はご存じだったのでしょうか?顔も知っていて勤務先まで知っていた理由を教えていただけますか?」
彼女はこちらを見ず、窓の外を見ながらゆっくりと話し始めた。
「それはね、トオルの同僚からあなたのことを聞いたからよ。サクマさんはスキーに行った時にトオルと出会って連絡先の交換をしたのよね?それで帰ってからスキーに行った会社の仲間同士の飲み会があって怪我のお詫びとしてトオルがあなたにケーキのデリバリーをすることになったんでしょ?」
奥さんが自分の旦那の名前を呼ぶのは当然のことなのに、私は彼女がトオルと口にするたび胸が酷く痛んだ。
「同僚というのはもしかしてそのスキーメンバーのどなたかでしょうか?それでもどうして‥‥」
「あ~それはね、私もトオルと同じ会社で働いていたから知り合いは多いの。結婚して退社してしまったから今は違う会社で働いているけれど、今でも付き合いは続いているのよ。それに職場結婚だったから私たちのことを気にかけてくれる人は多いわ。だからわざわざ連絡をくれていろいろ教えてくれる人もいるってこと」
「あの、たとえそうだとしても、その情報が事実かどうかはわかりませんよね?まずはご主人であるイチジョウさんに確認すべきだったのではないでしょうか?そして会社ではなく、私に直接聞いていただきたかったです。奥様がお聞きになった情報すべてが間違いとは申しませんが、少なくとも今回の私に関する不倫をしているという情報については完全な嘘の情報で誤解というにはあまりにも酷い対応だったのではないかと思います。正直許せないという怒りの気持ちもあって今すぐ謝っていただきたいくらいです」
私は話しながら段々と怒りが’込み上げてきてついそう口にしてしまったが、彼女の冷静な態度は変わらず、それどころか余裕の笑みで「あら?でもサクマさんはトオルのことが好きでしょ?」と返されてしまった。
「‥‥‥‥‥」
ここで違いますとはっきり答えられればよかったのに、私にはどうしてもそれができなかった。
「あなたはとても正直で素直な方ね。でも妻である私が他の女性が旦那に恋愛感情を抱いていることを快く思わないのはわかるでしょう?あなたは私を傷つけているの。不倫じゃないなんて反論したところでその好意は私を傷つけていることに変わりはないわ。許せないのは私の方よ」
「ちょっと待ってください!人を好きになることをそんな風に捉えられてしまったら‥‥‥たとえ私の思いが誰かを傷つけるのだとしても、止めようとして止められるものではありません!それに告白も連絡さえも取っていないただ思うだけの私が誰に責められることも頭を下げる必要もないはずです!」
彼女は一瞬黙ったが、すぐに自分が傷ついているのは事実で相手が既婚者だと知ってなお纏わりつくことが普通ではないと気づかない私は異常だと告げた。
「私は纏わりついてなどいません。それに好きになってからイチジョウさんが結婚していると知りました。だから告白も連絡もせずただ思っているだけなんです。それにその私の情報を伝えた方がどのように話したのかは知りませんが、奥様を傷つけるような言動は一切していないはずです。だから上司から呼び出されて手紙を読んだ時には本当にまったく意味がわからずただ困惑しました。とにかく一度このことをイチジョウさんときちんと話し合ってください。その上でもう一度その同僚の方とも話されてみてはいかがですか?単なる妄想で事実無根の話だとご理解いただけるはずですから」
そしてもうこれ以上話すことは何もないと私は彼女の前から去った。
家までの道中のことはほとんど記憶になく、体力的にも精神的にも疲れ果てていた私はせっかくの週末休みがベッドの上の住人となってしまった。
あの人、イチジョウさんの奥さんであるリサさんは確かに外見はとてもきれいな女性だったがどうしてもイチジョウさんの奥さんとして合っていないような気がしてならない。
本当にあの人がイチジョウさんの奥さんなのだろうか?
職場結婚と言っていたからマノさんたちも彼女を知っているのだろうか?
マノさんはスキーで出会いその後飲み会にも参加したあちらの会社では唯一の女性だったがとても感じが良く、私とイチジョウさんのことをそんな風に告げ口するようなタイプの人にはとても見えない。
かといってやはりマノさんには聞きづらい。
私はイチジョウさんが奥さんのことをどう思っているのか聞きたくて聞きたくて仕方がなくなっていた。それになんとなく、本当になんとな~くではあるが、二人が別れてしまえばいいのにと、初めてそんなことが頭をよぎってしまった。
こんな私にも悪女の素質があったのかもしれない‥‥‥
いや、悪女の素質があるのはきっと‥‥‥
寝返りを打って見えたカーテンを閉め忘れた窓の外はすでに暗黒が広がっていた。
お読みいただきありがとうございました。
続きは別の短編として執筆中です。




