第8話:二人きりの大掃除
「俺が、調律してやろうか?」
俺の言葉が、静かな部屋に響く。
月宮は、何を言われたのか理解できないという顔で、ただ目を丸くしていた。
「調律……? あなたが?」
「ああ。実は、祖父さんがピアノの調律師だったんだ。子供の頃から、色々仕込まれててさ」
俺がそう言うと、彼女の蒼い瞳が、わずかに見開かれた。
何か、心当たりがあるような表情。
だが、彼女はすぐにかぶりを振って、その感情を打ち消したようだった。
「でも……」
「もちろん、無理にとは言わない。君が嫌なら、しない」
俺は彼女の返事を、ただ静かに待った。
彼女にとって、ピアノは心の聖域だ。
他人に、それも得体の知れない同級生の男子に、やすやすと触らせるわけがない。
断られても、仕方ない。
そう思っていた。
だが、彼女の答えは、俺の予想を裏切るものだった。
「……お願い、できる?」
「え?」
「その……調律を、お願いできますか?」
消え入りそうな、しかし、はっきりとした声だった。
彼女は、俺から目を逸らし、自分の足元を見つめている。
その耳が、ほんのりと赤く染まっているのが見えた。
驚いた。
まさか、受け入れてくれるなんて。
「……わかった。じゃあ、早速」
「待って」
俺がピアノに歩み寄ろうとすると、彼女が慌てて制止した。
「その前に、やることがあるから」
「やること?」
彼女は、決意を固めたように顔を上げると、部屋全体を見渡した。
そして、宣言するように言った。
「掃除を、するわ」
それが、俺と彼女の、初めての共同作業の始まりだった。
翌日の土曜日。
俺は朝からジャージ姿で、月宮の部屋を訪れた。
「よし、やるか!」
「……なんで、あなたまでジャージなの」
「え? だって、掃除するんだろ?」
「私がするの。あなたは、そこに座ってて」
月宮はそう言って、俺をソファに座らせようとする。
彼女は、白いTシャツにハーフパンツというラフな格好だが、その手にはゴム手袋と雑巾が握られていた。
どうやら、本気で一人でやるつもりらしい。
「いやいや、無茶言うなよ。この部屋を一人でなんて、一日じゃ終わらないぞ」
「でも、これは私の問題だから……」
「俺の問題でもある。ピアノを最高の状態で調律するには、最高の環境が必要なんだ」
俺がもっともらしい理屈をこねると、彼女は不満そうに口を尖らせたが、最終的にはしぶしぶ頷いた。
こうして、二人きりの大掃除が始まった。
まず、ゴミの分別からだ。
だが、ここで早速、問題が発生する。
「ねえ、音無くん」
「奏でいいよ。で、どうした?」
「……かなで。この、プラスチックの容器は、燃えるゴミ?」
月宮は、コンビニ弁当の空き容器を手に、真顔で尋ねてきた。
どうやら、彼女はゴミの分別方法すら知らないらしい。
恐るべき、世間知らずのお嬢様だ。
「それは、プラごみ。こっちの袋」
「じゃあ、この紙は?」
「雑誌は資源ごみだな」
俺は、呆れを通り越して感心しながら、一つ一つ丁寧に教えていく。
月宮は、不満そうな顔をしつつも、素直に俺の指示に従った。
その姿は、まるで初めてのお使いに挑戦する子供のようだ。
ゴミの分別が終わると、次は床の掃除だ。
部屋の隅に、古い音楽雑誌の束が積まれているのを見つけた。
「うわ、懐かしいな、これ」
俺が手に取った雑誌の表紙には、まだ小学生くらいの、幼い月宮が写っていた。
『天才少女ピアニスト、世界へ!』
そんな、大袈裟な見出しが躍っている。
写真の中の彼女は、満面の笑みでピアノの前に座っていた。
今の、氷のような彼女からは想像もつかない、天真爛漫な笑顔だ。
俺がその写真に見入っていた、その瞬間。
「見ないで!」
月宮が、血相を変えて俺の手から雑誌をひったくった。
その声は、悲痛な叫びに近かった。
「……悪い」
彼女の過去の重さを、垣間見た気がした。
俺は、何も言えずに、ただ立ち尽くす。
部屋に、また気まずい空気が流れ始めた。
その空気を破ったのは、予期せぬアクシデントだった。
雑誌の束を元の場所に戻そうとした月宮が、足元にあった段ボールに気づかず、バランスを崩したのだ。
「わっ……!」
小さな悲鳴と共に、彼女の体が大きく傾く。
段ボールの中身は、重そうな楽譜や本がぎっしりと詰まっていた。
このまま倒れれば、ただでは済まない。
「危ないっ!」
俺は、とっさに彼女の体へと手を伸ばした。
か弱い腕を掴み、ぐっと引き寄せる。
ドンッ!
月宮の体を支えた俺は、勢い余って壁に手をついてしまった。
結果として、俺の腕の中に彼女を閉じ込める、いわゆる『壁ドン』のような体勢になる。
至近距離。
俺たちの顔の距離は、ほんの数センチ。
彼女の、驚きに見開かれた蒼い瞳が、俺を映している。
ふわ、と甘いシャンプーの香りが、俺の鼻腔をくすぐった。
腕の中にいる彼女の体は、驚くほど柔らかくて、温かい。
ドクン、ドクン、と自分の心臓が、うるさいくらいに鳴り響くのが聞こえる。
先に我に返ったのは、月宮の方だった。
彼女は、顔を真っ赤に染め上げると、もごもごと何かを呟きながら、俺を突き飛ばすようにして腕の中から抜け出した。
「……あ、ありがとう」
蚊の鳴くような声で、それだけ言うと、彼女はそそくさと部屋の反対側へと逃げていってしまう。
その背中も、耳も、首筋までもが、真っ赤に染まっていた。
俺は、壁に手をついたまま、しばらく動けなかった。
胸の高鳴りは、一向に収まる気配がない。
さっきまで漂っていた気まずい空気は、今はもう、甘酸っぱくて、むず痒い空気に変わっていた。