表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/36

第7話:ピアノは泣いている


 その日の夜。

 俺は月宮の部屋で、夕食後のコーヒーを飲んでいた。

 彼女に部屋に招かれるのは、これで三度目だ。


 今日のメニューは、鶏の唐揚げ。

 初めて食べるという唐揚げを、月宮は目を輝かせながら頬張っていた。

 その姿は、まるで初めておもちゃを与えられた子供のようで、見ているこっちが和んでしまう。


 すっかり片付いた部屋は、居心地が良かった。

 だが、一つだけ、気になることがあった。


 この部屋の主役であるはずの、グランドピアノ。

 その蓋は、固く閉ざされたままだ。

 俺が初めてこの部屋に来たあの日から、一度も開けられた様子がない。


 彼女は、もうピアノを弾かないのだろうか。

 俺が毎晩聞いていた、あの悲鳴のような演奏は、もう聞けないのだろうか。


 そう思うと、少しだけ残念な気がした。

 あの演奏は狂っていたけれど、同時に、彼女の魂そのもののように感じられたからだ。


「……ピアノ、弾かないのか?」


 気づいた時には、その言葉が口から滑り出ていた。

 しまった、と思った。

 これは、踏み込んではいけない領域だったかもしれない。


 案の定、俺の言葉を聞いた瞬間、月宮の顔から表情が消えた。

 さっきまで唐揚げを頬張って輝いていた瞳が、すっと冷たい光を帯びる。

 部屋の温度が、数度下がったような気さえした。


「……あなたには、関係ない」


 拒絶。

 はっきりと、そう告げられた。


「悪い。変なこと聞いた」


 俺は慌てて謝る。

 だが、一度こわばってしまった空気は、元には戻らなかった。


 気まずい沈黙が、俺たちの間に流れる。


 その沈黙を破ったのは、意外にも月宮の方だった。


「……弾けないの」


 ぽつりと、消え入りそうな声で彼女が呟く。


「弾きたくても、弾けない。鍵盤に触れるのが、怖いの」


 彼女は、まるで懺悔でもするかのように、俯いたまま言葉を続けた。

 その声は、震えていた。


 俺は、ただ黙って彼女の言葉に耳を傾ける。

 何かを言うべきではない。今はただ、彼女の心の内を聞くべきだ。そう直感が告げていた。


「ピアノの前に座ると、思い出すから……」


 彼女が何を思い出すのか、俺にはわからない。

 だが、それが彼女にとって、耐え難いほどの苦痛であることだけは、痛いほど伝わってきた。


 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。

 その蒼い瞳は、潤んでいた。


「このピアノ、もうずっと調律してない。きっと、ひどい音が鳴るわ」


 その言葉に、俺はハッとした。

 そうだ。俺には、耳がある。

 調律師だった祖父に鍛えられた、この耳が。


 俺は、閉ざされたピアノの蓋を、じっと見つめた。

 その奥で、たくさんの弦が、今も悲鳴を上げているのがわかる。

 弾かれなくても、ピアノは生きている。そして、苦しんでいる。


 放っておけない。

 月宮のことも、このピアノのことも。


 俺の中で、何かが決まった。

 これは、お節介なんかじゃない。俺にしかできないことだ。


 俺は、コーヒーカップをテーブルに置くと、まっすぐに彼女の目を見た。


「月宮」

「……なに」

「この部屋がどうなろうと、君の勝手だ。ピアノを弾くか弾かないかも、君が決めることだ」


 俺は、一度言葉を切る。

 そして、部屋の奥で静かに佇むグランドピアノを指差した。


「でも……このままじゃ、ピアノが可哀想だろ」


 その言葉に、月宮の体が、びくりと震えた。

 彼女の瞳が、大きく揺れる。

 それは、図星を突かれた人間の顔だった。


 彼女は、ピアノを弾けない自分を責めている。

 そして、そんな自分と同じように、音を奏でられないこのピアノにも、負い目を感じているのだ。


 俺は、それが彼女の心の核心に触れる言葉だと、確信していた。


 反論の言葉を失った彼女に、俺は最後の一押しをする。


「俺が、調律してやろうか?」


 俺の唐突な提案に、彼女は信じられないという顔で、ただ俺を見つめ返すだけだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ