第6話:二つの顔と、一つの秘密
月宮との奇妙な関係が始まってから、二週間が過ぎた。
俺の夕食デリバリーはすっかり定着し、彼女が空腹で行き倒れる心配は、ひとまずなくなった。
学校での俺たちの関係は、相変わらずだ。
彼女は『氷の姫君』。俺は『ただのクラスメイト』。
廊下ですれ違っても、目が合うことすらない。
だが、俺だけが知っている。
彼女が、ほんの少しずつ変わり始めていることを。
「なぁ奏、聞いたか? 月宮さんの噂」
昼休み。
いつものように屋上で隼人と弁当を広げていると、彼がそんな話を切り出してきた。
「噂? なんのだよ」
「なんでも、最近少しだけ雰囲気が柔らかくなったって、女子の間で話題らしいぜ」
隼人がニヤニヤしながら、からかうように俺の肩を小突く。
「前は、話しかけても完璧な笑顔でスルーって感じだったのが、最近はちゃんと『うん』とか『そうなんだ』とか、相槌を打ってくれるようになったんだと」
「へぇ……」
俺は、興味のないフリをしながら相槌を打つ。
だが、内心では驚きと、ほんの少しの喜びを感じていた。
俺の夕食が、彼女の心に何か良い影響を与えているのだろうか。
もしそうだとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「ま、俺たち男子からすりゃ、相変わらず高嶺の花だけどな。笑ったとこ、誰も見たことないらしいし」
隼人のその言葉に、俺は思わず箸を止めそうになった。
――笑ったとこ、誰も見たことない。
俺の脳裏に、昨夜の光景が鮮やかに蘇る。
昨日の夕食は、俺の得意料理の一つであるハンバーグだった。
いつものようにドアノブに掛けようとしたら、ちょうど彼女がゴミを捨てに出てくるところで鉢合わせてしまった。
気まずい沈黙の後、彼女は「……あの、よかったら」と、俺を部屋に招き入れたのだ。
中に入ると、そこは俺が初めて見た時とは別世界のように、綺麗に片付いていた。
まだ少しぎこちない空気が流れる中、二人でテーブルを挟んでハンバーグを食べる。
一口食べた彼女は、蒼い瞳をまん丸に見開いて、ぽつりと呟いた。
「……美味しい」
その素直な感想が嬉しくて、俺はつい、出来心で言ってしまったのだ。
「だろ? 俺の特製デミグラスソースだからな」と。
もちろん、ただの市販のソースにケチャップとウスターソースを混ぜただけだ。
すると彼女は、こてん、と不思議そうに首を傾げた。
「でみぐらすそーす……?」
まさかの、デミグラスソースを知らないという事実。
聞けば、彼女は幼い頃から徹底した食事管理をされていて、いわゆる家庭料理というものをほとんど食べたことがないらしかった。
その世間知らずっぷりに、俺は思わず吹き出してしまった。
すると彼女は、俺に笑われたのが不満だったのか、少しだけ頬を膨らませて、
「……なにがおかしいの」
と、拗ねたように言った。
その仕草が、普段の完璧な彼女からは想像もつかないほど子供っぽくて、愛らしくて。
俺は、彼女が笑った顔を、はっきりと見た。
口元に手を当てて、はにかむように、でも確かに、「ふふっ」と花が咲くように笑ったのだ。
「――奏? おい、奏ってば!」
隼人の声で、俺はハッと我に返る。
どうやら、思い出に浸るあまり、完全に意識が飛んでいたらしい。
「あ、ああ、悪い。何だっけ?」
「何だっけ? じゃねーよ。お前、最近マジで変だぞ。月宮さんの話になると、すぐ心ここにあらずって感じだし」
隼人の鋭い視線が、俺を射抜く。
こいつには、何もかもお見通しなのかもしれない。
「まさかお前……本気で氷の姫君を狙ってんのか?」
「ばっ、違う! そんなわけないだろ!」
俺は慌てて否定する。
だが、動揺を隠しきれていないのは自分でもわかった。
学校での完璧な『氷の姫君』としての月宮。
そして、俺の前だけで見せる、無防備で、少しポンコツな素顔の月宮。
そのどちらもが月宮響なのだと理解し、彼女の本当の姿を知っているのは世界で俺だけだという事実に、特別な感情が芽生え始めている。
それは、もはや否定しようのない事実だった。
誰にも言えない、たった一つの秘密。
その秘密の重さと甘さが、俺の心を少しずつ、確実に蝕んでいくのを感じていた。