第5話:空のタッパーと、心の距離
それから、俺たちの奇妙な日課が始まった。
俺が毎晩、月宮の分の夕食を作って、彼女の部屋のドアノブに掛けておく。
翌朝、俺が家を出ようとすると、自分の部屋のドアの前に、綺麗に洗われた空のタッパーがちょこんと置かれている。
まるで、小動物に餌付けでもしているようだ。
俺たちは、学校では一切言葉を交わさない。
彼女は相変わらず完璧な『氷の姫君』を演じ、俺はその他大勢のクラスメイトの一人として、遠くから彼女を眺めている。
でも、俺たちだけが知っている、この秘密のやりとり。
綺麗に洗われたタッパーが、彼女からの無言の「ありがとう」と「ごちそうさま」のように感じられて、俺は毎朝、少しだけ温かい気持ちになっていた。
そんな日々が、一週間ほど続いたある朝のことだ。
いつものように、ドアの前に置かれたタッパーを拾い上げようと屈んだ、その時。
背後で、ガチャリとドアが開く気配がした。
振り返ると、部屋着姿の月宮が、気まずそうに立っていた。
休日の朝だからか、いつもより少し眠そうだ。
「……あの」
彼女が、この一週間で初めて、俺を呼び止めた。
「どうした?」
「これ……」
そう言って、彼女が俺の前に差し出したのは、数枚の千円札だった。
おそらく、食費ということなのだろう。
「お金、払います。迷惑、かけられないから」
その言葉と態度は、どこか頑なで、俺との間に見えない壁を作ろうとしているように感じられた。
彼女なりの、プライドの保ち方なのかもしれない。
でも、俺はそれを素直に受け取る気にはなれなかった。
俺は彼女の申し出を、穏やかに、しかしきっぱりと断ることにした。
「いらないよ、そんなの」
「でも……」
「迷惑じゃない。俺が好きでやってるだけだから」
俺がそう言うと、彼女は困ったように眉をひそめる。
その表情は、学校で見せる鉄壁のポーカーフェイスとは全く違って、年相応の幼さが滲んでいた。
可愛いな、と不意に思ってしまった。
俺は、彼女を安心させるように、少しだけ笑いかける。
「どうしてもお礼がしたいって言うなら、一つだけお願いがある」
「……なに?」
身構えるように、彼女の蒼い瞳が俺を見つめる。
「美味しく食べてくれるのが、一番の礼だよ」
俺の言葉に、月宮は大きく目を見開いた。
そして、何か言いたそうに口を小さく開いたり閉じたりを繰り返した後、結局何も言えずに、また顔を赤くして部屋に戻っていってしまった。
バタン、と閉まったドア。
相変わらず、コミュニケーションは不器用なままだ。
でも、去っていく彼女の背中からは、これまでの頑なさが、ほんの少しだけ和らいで見えた。
俺と彼女の心の距離が、空になったタッパーと同じように、少しだけ軽くなったような気がした。