第4話:秘密の夕食デリバリー
月宮の部屋での一件から、一夜明けた。
翌日、学校の教室に入ると、彼女はすでに来ていた。
窓際の席で、静かに本を読んでいる。
その姿は、昨日までの弱々しさが嘘のように、完璧な『氷の姫君』そのものだった。
俺の存在に気づいているはずなのに、一切こちらを見ようとしない。
俺が自分の席に着いても、彼女は読書に没頭したままだ。
昨夜の出来事は、全部夢だったんじゃないか。
そんな気さえしてくる。
俺は、少しだけ寂しさを感じていた。
いや、少しじゃない。かなり、だ。
彼女が無理をしているのは、痛いほどわかった。
時折、本のページをめくる指先が、微かに震えている。
きっと、昨日のことを誰にも知られたくなくて、必死に普段通りを演じているのだろう。
その健気さが、どうしようもなく俺の心をざわつかせた。
放っておけない。
そう思ってしまったら、もう駄目だった。
その日の放課後、俺はスーパーに寄ってからアパートに帰った。
カゴの中には、豚肉、玉ねぎ、キャベツ、そして白米。
自分の部屋のキッチンに立ち、慣れた手つきで調理を始める。
キャベツを千切りにし、玉ねぎを炒め、豚肉にタレを絡めていく。
香ばしい匂いが、狭いワンルームに充満した。
今日の夕食は、生姜焼き定食だ。
もちろん、二人分。
大きめのタッパーにご飯と生姜焼き、千切りキャベツを詰めながら、俺は自嘲気味に呟いた。
「……我ながら、お節介だよな」
頼まれたわけでもないのに、勝手に隣人の夕食まで作っている。
普通に考えれば、ただの迷惑なやつだ。
でも、彼女の部屋の惨状と、インスタントのお粥を無心で食べる姿を思い出したら、行動せずにはいられなかった。
あの生活を続けていれば、またいつ倒れてもおかしくない。
俺は完成した弁当をビニール袋に入れ、自分の部屋を出た。
隣の202号室の前で、深呼吸を一つ。
チャイムを鳴らすか?
いや、顔を合わせたら、また彼女に気を使わせてしまうかもしれない。
俺は、ドアノブにそっとビニール袋を掛けて、静かに立ち去ることにした。
その方が、彼女も受け取りやすいだろう。
そう思って、ドアノブに手を伸ばした、その瞬間だった。
ガチャリ。
目の前のドアが、内側からわずかに開いた。
その隙間から、月宮の蒼い瞳が、驚いたようにこちらを覗いている。
どうやら、俺が廊下に出た物音に気づいたらしい。
「あ……」
「…………」
気まずい沈黙。
彼女は、俺が手に持っているビニール袋と、俺の顔を、交互に見ている。
俺は黙って、タッパーの入った袋を彼女の前に差し出した。
その意図を察したのか、彼女の顔に、驚きと戸惑いが混じった表情が浮かぶ。
無言の時間が、永遠のように感じられた。
やがて、彼女は意を決したように、小さな手で素早く袋を受け取った。
そして、何かを言う間も与えず、
バタン!
勢いよくドアを閉めてしまった。
俺の目の前には、冷たい鉄の扉だけが残される。
「……まあ、受け取ってくれただけ、マシか」
俺は苦笑しながら、自分の部屋に戻った。
こうして、俺と月宮の、奇妙な『秘密の夕食デリバリー』が始まったのだった。