第3話:温かいお粥と、小さな一歩
「どうして、私の部屋に……いるの」
氷のように冷たい声と、射抜くような蒼い瞳。
ベッドの上で体を起こした月宮響は、全身で俺を拒絶していた。
どう説明すればいい?
昨夜から物音がしなくて心配で、様子を見に来たら、お前が玄関で倒れていたんだ――。
事実をそのまま伝えれば、彼女のプライドを酷く傷つけることになるだろう。
ただでさえ、このゴミ屋敷のような部屋を見られたのだ。これ以上、彼女の心を追い詰めたくはなかった。
「……隣の、音無だ」
「知ってる」
俺が名乗ると、彼女は短くそう答えた。
知っていたのか。まあ、クラスメイトだしな。
「昨日の夜、すごい音がしたから……。で、今日もお前、学校休んでたし。もしかして、何かあったのかと思って」
俺は必死に言葉を選びながら、不器用に説明を続ける。
「チャイムを鳴らしても返事がなくて……ドアノブを回したら、鍵が開いてたんだ。それで、玄関で……君が倒れてた」
そこまで言うと、月宮はバツが悪そうに顔を伏せた。
自分の失態を突きつけられたと感じたのかもしれない。
部屋に、重苦しい沈黙が落ちる。
「……もう、大丈夫だから。出ていって」
絞り出すような声だった。
まだ顔色も悪いし、声にも力がない。
こんな状態で一人にしておけるわけがなかった。
「いや、でも……」
「出ていって!」
叫ぶような声に、俺は思わず口をつぐむ。
これ以上ここにいれば、彼女をさらに苛立たせるだけだろう。
「……わかった。でも、何か食べるものくらいは」
「いらない!」
頑なな拒絶。
だが、その時だった。
ぐぅぅぅ……。
静まり返った部屋に、盛大な腹の虫の音が響き渡った。
音の発生源は、言うまでもなく月宮だ。
「…………」
「…………」
彼女は、顔から火が出そうなくらい真っ赤になって、さらに深く顔をうつむけてしまった。
長いプラチナブロンドの髪が、その表情を隠している。
さすがに、少しだけ不憫に思えた。
俺は、この気まずい空気を払拭するように、わざと明るい声を出した。
「よし、何か作るから待ってろ!」
「え……ちょっ、待って!」
彼女の制止も聞かず、俺はキッチンへと向かう。
もちろん、そこもリビングに負けず劣らずの惨状だった。
シンクには汚れた食器が積み重なり、調理スペースなんてものは存在しない。
それでも、俺はめげずに棚や冷蔵庫を漁った。
幸いにも、未開封のインスタントのお粥と、ミネラルウォーターのペットボトルを発見する。
「これなら……」
一番マシそうな小鍋を念入りに洗い、手早くお粥の準備を始める。
ほどなくして、コトコトと優しい音と共に、湯気が立ち上った。
お盆代わりになりそうな雑誌の上に、器によそったお粥とレンゲを乗せ、ベッドサイドまで運ぶ。
月宮は、呆然とした顔で俺の行動を見ていた。
「ほら、熱いから気をつけろよ」
「……なんで」
「え?」
「なんで、こんなことするの……。迷惑だって、言ってるのに」
その声は、震えていた。
警戒しながらも、どこか助けを求めているような、そんな響きがあった。
「迷惑だなんて思ってない。腹が減ってるやつがいたら、飯を食わせる。ただそれだけだ」
俺はぶっきらぼうにそう言うと、器を彼女の前に置いた。
「食べたら、俺は帰るから。ちゃんと食べろよ」
その言葉が効いたのか、月宮はしばらくためらった後、おそるおそるレンゲを手に取った。
そして、ふーふーと息を吹きかけて冷ましながら、一口、お粥を口に運ぶ。
もぐ、もぐ……。
小さな口が、ゆっくりと動く。
そして、また一口、もう一口と、無心で食べ進めていく。
よほど空腹だったのだろう。その姿は、学校で見せる完璧な彼女とは程遠い、ただの腹を空かせた一人の少女だった。
あっという間に器が空になる頃には、彼女の白い頬に、わずかに血の気が戻っていた。
「……ごちそうさま」
「おう。じゃあ、俺はこれで」
役目は果たした。
俺は空になった器を受け取り、部屋を出ていこうとドアに向かう。
その時だった。
「あの……」
背後から、か細い声で呼び止められた。
振り返ると、月宮がベッドの上で正座したまま、こちらを見ている。
「月宮……響」
ぽつりと、彼女はそう告げた。
それは、かろうじて聞き取れるくらいの、小さな声だった。
でも、確かに俺の耳に届いた。
拒絶と警戒に満ちていた彼女が、初めて見せた、雪解けの兆し。
俺は、少しだけ口元を緩めて、頷いた。
「知ってる。俺は音無奏。よろしくな、月宮」
彼女は何も答えず、ただこくりと小さく頷くだけだった。
その仕草が、なぜか俺の胸を強く打った。