第1話:静寂はSOSのサイン
昨夜の衝撃的な静寂から、一夜が明けた。
結局、あれから隣室からは物音一つ聞こえてこない。
いつもなら、朝の身支度の音や、バタバタと家を出ていく気配が伝わってくるのに。
今日に限っては、まるで無人の部屋のように静まり返っている。
学校を休むのだろうか。
それとも、昨日のあの音の後、何か……。
嫌な考えが頭をよぎり、俺はそれを振り払うように首を振った。
「……考えすぎか」
俺はただの隣人で、クラスメイトだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
彼女がどうしていようと、俺には関係のないことのはずだ。
そう自分に言い聞かせ、俺はいつも通りに家を出た。
だが、学校に着いても、月宮の姿はなかった。
ホームルームが始まっても、彼女の席は空いたまま。担任が「月宮は体調不良で休みだ」と告げた時、クラスのあちこちから心配そうな声が上がった。
俺も、安堵と不安が入り混じった、複雑な気持ちでその言葉を聞いていた。
とりあえず、最悪の事態にはなっていないらしい。
でも、やっぱり昨日のことがあったからだろうか。
授業中も、壁一枚隔てた隣のことが気になって、全く集中できなかった。
「よぉ、奏。今日のお前、なんか変だぞ」
昼休み、弁当を広げていると、親友の風間隼人が声をかけてきた。
サッカー部のエースで、クラスの人気者。明るく社交的な隼人は、俺とは正反対のタイプだが、なぜか中学からの付き合いだ。
「そうか? いつも通りだと思うけど」
「嘘つけ。授業中、ずっと窓の外見てただろ。さては悩み事か? この俺が聞いてやるぜ」
ニシシ、と悪戯っぽく笑う隼人。
こいつに話せば、少しは気が楽になるのかもしれない。
だが、隣の部屋から聞こえるピアノの音のこと、そして昨夜の異変のこと。
何より、学校で見せる完璧な『氷の姫君』のプライベートな話を、俺が勝手にするわけにはいかなかった。
「……別に、何でもないよ」
「そっかよ。まあ、何かあったらいつでも言えよな」
隼人はそれ以上追及することなく、自分の弁当の唐揚げを俺の白米の上に乗せてきた。
こいつの、こういうさりげない優しさが、今は少しだけ胸に痛い。
結局、その日一日、俺は上の空のまま過ごした。
放課後、急ぐようにアパートへ帰る。
自分の部屋の鍵を開け、中に入る。
しん……と静まり返った廊下。
壁に耳を当ててみるが、やはり隣からは何の音も聞こえてこない。
体調不良で寝ているだけだ。
そう思うことにした。
俺は夕食を作り、食べ、風呂に入り、宿題を片付けた。
時計の針は、とっくに夜の九時を回っている。
それでも、隣は静寂に包まれたままだった。
さすがに、おかしい。
体調が悪いなら、なおさら何か物音くらい聞こえてきてもいいはずだ。
まさか、昨日の夜からずっと、あのまま……?
そこまで考えた時、俺の不安は頂点に達した。
「……っ!」
いてもたってもいられず、俺は部屋を飛び出した。
隣の部屋、『202号室』のドアの前へ。
インターホンのボタンに指を伸ばすが、寸前でためらってしまう。
もし、ただ寝ているだけだったら?
迷惑な隣人だと思われるだけだ。
でも、もしも……。
もしも、何かあったんだとしたら。
俺は意を決して、チャイムを鳴らした。
ピンポーン。
静かな廊下に、間抜けな音が響く。
だが、中からの応答はない。
もう一度、今度は少し強く、長く押す。
ピンポーン、ピンポーン。
それでも、返事はなかった。
ドアの向こうは、死んだように静かだ。
どうする? 管理会社に連絡するか?
いや、それだと大袈裟すぎるかもしれない。
俺は焦りのあまり、ほとんど無意識に、ドアノブに手をかけていた。
ダメ元で、ゆっくりと回してみる。
ガチャリ。
……え?
あっさりと、ドアノブが回った。
鍵が、かかっていない。
背筋が、ぞくりと凍りつくのを感じた。
これは、絶対に普通じゃない。
俺は唾を飲み込み、恐る恐るドアを押し開けた。
「月宮……?」
薄暗い玄関。
そのたたきに、見慣れた制服姿の少女が、くずおれるようにして倒れていた。
血の気の引いた、真っ白な顔。
苦しげに繰り返される、浅い呼吸。
「おい、月宮っ! しっかりしろ!」
俺は彼女の名前を呼びながら駆け寄り、その肩に触れる。
氷のように、冷たい。
おい、嘘だろ……?
俺の頭の中も、彼女の肌と同じように、真っ白になっていた。