プロローグ
壁の向こうから、またピアノの音が聞こえてくる。
俺、音無奏が一人暮らしをするこのアパートは、防音なんて洒落た設備はない。だから、隣室の生活音が聞こえてくるのは日常茶飯事だ。
だけど、この音は違う。
それは生活音と呼ぶには、あまりにも切実で、狂気に満ちていた。
最初は、ただ上手いだけだと思った。
超絶技巧、とでも言うのだろうか。素人が聞いてもわかるレベルで、指が鍵盤の上を滑るように動いているのが想像できる。
でも、毎晩のようにその演奏を聴かされるうちに、俺は気づいてしまった。
これは、演奏じゃない。悲鳴だ。
ピアノ調律師だった祖父に育てられた俺には、絶対音感なんていう、ちょっとだけ特殊な耳がある。だから、わかってしまうのだ。
一つ一つの音が、正しい音階から僅かに、絶妙に、狂っていること。
和音が、本来響き合うはずの音を拒絶し、不快な唸りを上げていること。
そして何より、このグランドピアノ自体が、限界を超えた張力で締め上げられた弦の悲鳴を、必死に訴えかけていることを。
まるで、弾き手の剥き出しになった感情が、そのまま音になったかのようだ。
怒り、悲しみ、絶望。そんな負の感情の奔流が、壁を突き破って俺の鼓膜を叩く。
この音の主は、月宮響。
俺と同じ高校二年生で、隣の部屋に住むクラスメイトだ。
彼女がこのアパートに越してきたのは、半年前。
その日から、俺の夜はこの不協和音と共にある。
†
「きゃー! 月宮さーん!」
「今日も綺麗すぎます……!」
翌日の昼休み。
廊下を歩いていると、人だかりの中心にいる月宮の姿が目に入った。
長く、陽の光を反射して輝くプラチナブロンドの髪。
日本人離れした、人形のように整った顔立ち。
そして、全てを見透かすような、吸い込まれそうなほど深い蒼い瞳。
男子生徒たちが取り囲む中、彼女は完璧な笑みを浮かべて、誰をも寄せ付けないオーラを放っている。
その姿は、まさしく『氷の姫君』という彼女のあだ名にふさわしかった。
「月宮さん、今日の放課後、よかったらお茶でも……」
「ごめんなさい。今日はこの後、用事があるの」
当たり障りのない、完璧な返答。
その声は、鈴が鳴るように澄んでいて、昨夜の狂乱的なピアノの音を奏でた人物と同一だとは、到底信じられなかった。
本当に、あの音を奏でているのは彼女なのか……?
俺は、彼女と目が合わないようにそっとその場を離れる。
昼間の完璧な彼女と、夜の壊れかけた彼女。そのあまりにも大きなギャップに、俺は強い違和感と、奇妙な胸騒ぎを覚えていた。
その胸騒ぎは、その日の夜、現実のものとなる。
いつものように始まった、隣室からのピアノの音。
だが、今夜はいつもと明らかに違った。
激しい。
これまで以上に、荒れ狂っている。
鍵盤を叩きつける音は、もはや音楽ではなく、ただの暴力的な破壊音だ。
まるで、何かに耐えきれなくなったかのような、最後の叫び。
そして――。
ガシャァァァンッ!!
全ての弦が一度に断ち切られたかのような、凄まじい轟音がアパート中に響き渡った。
それを最後に、ピアノの音は、ぷっつりと途絶えた。
いつもなら、力尽きるように静かになっていくのに。
今夜はあまりにも、突然すぎた。
壁の向こうの、完全な静寂。
それが何よりも恐ろしくて、俺の胸に、これまで感じたことのない嫌な予感が広がっていった。