王国法典第九百八条「個人特定識別札常携義務法」
【王国法典 第908条 抜粋】
『すべての国民は、個人特定識別札(通称・紐札)を常時携帯すること。
紐札は個人ID・法違反履歴・魔導使用履歴・通話内容・位置情報を記録・発信する。
紐札未所持・破損・提示拒否は、即座に“自己匿名行為”と認定され、拘束対象となる』
「――これより、“紐札”の交付が始まります。整列、そして静粛に」
兵士の声が通路に響く。
長蛇の列に並ぶ民衆は、皆どこか顔を伏せ、目を合わせようとしない。
交付されるのは、小指ほどの長さの金属製の細札。
紐で首に下げる形式。だがその内部には、微細な魔導石が埋め込まれていた。
記録し、送信する石──“記録石”である。
「これが……自由の首輪か」
ケンスケは遠くからその光景を見つめていた。
数時間後。王都の広場では、すでに複数の「未所持者拘束」が始まっていた。
「そこの君、紐札の提示を」
「いえ……昨日まではまだ強制じゃ……」
「現在時刻午前0時をもって“猶予期間”は終了。未所持は違法。拘束する」
「たった一日で!? そんな法……!」
「ある。第908条、追補令第1項。今日成立した」
ハナはその様子を物陰から見つめながら、眉をひそめる。
「早すぎる……」
「これが“対策”ってやつか」ケンスケが苦く言った。
「“声を上げる前に、首を縛る”のが目的よ。
法が“管理”じゃなくて、“恐怖の予防”になりつつある」
──隠れ家の一室
ハナは手元の紐札を分解していた。
「……この魔導石、通常の記録石と“逆方向”に魔力が流れてる」
「逆……って?」
「普通は“使った人から魔力が出る”。でもこれは、“受信した魔力”を記録してるの」
「つまり……?」
「“近くの人の声や魔力”も、勝手に記録してるってことよ」
ケンスケは絶句した。
「……盗聴機かよ……」
「しかも、札が壊れたり、遠ざけられたりすると“警告信号”が飛ぶわ。
逃げる=即違反認定よ」
「じゃあもう逃げられない……」
「いいえ。ひとつだけ、“記録を改ざんできる術式”が、文献に残ってる」
「マジか!」
「ただし、“使用者の声帯模写”が必要」
「なんでそんな生体認証みたいな仕様なんだよ……!」
──夜。ケンスケ、町を歩く
「……紐札? んなもん持ってねぇよ」
彼は“無識者”として、札をつけずに町を歩いた。
するとすぐ、通りの角で声がかかる。
「そこのあなた、紐札の提示を──」
「俺はこの国の人間じゃない。旅人だ。証拠も記録もない」
一瞬、兵士が戸惑う。
「……では、旅人証明書の提示を」
ケンスケはにやりと笑った。
「その制度、まだ始まってねぇだろ?」
兵士は舌打ちをし、通報だけして立ち去った。
「……ふっ。“法の網目”、まだ全部は塞がってねぇらしい」
──その夜、セイガの訪問
「危険だぞ。無識者のまま動くのは」
「セイガ……来ると思った」
セイガは手に一枚の書類を持っていた。
「これは“旧法草案”の写し。
かつて紐札制度を提案しながら、闇に葬られた法文だ」
「……なんで?」
「内容が、“王族にも紐札を課す”設計だったからだ。
だから今の制度は、“民のみを縛る”形に改ざんされた」
「つまり、最初から“平等のふり”だったわけか」
「“自由”と“平等”は、法の仮面をかぶるとき、よく似て見える。だが“監視される側”だけがそれを知る」
セイガはふたりに向き直る。
「北へ行け。“法が届かない地帯”──そこに、かつて“法を拒否した者たち”が生きている」
「……あんた、完全に味方なのか?」
「違う。私は、“記録を残す者”だ。
だが“歴史が味方するほう”を、選ぶ準備はある」
そして彼は、再び闇へと消えた。




