王国法典第七十七条「旅立ちに関する事前申請義務」
【王国法典第77条 抜粋】
『いかなる旅であれ、三日前までに所定の「旅立ち届」を提出すること。届出がなき場合は、王国防犯法に基づき“逃亡者”と見なされることがある。』
「……なあ、ハナ。おれたち、本当に冒険者なんだよな?」
「書類の上では、ね」その言葉に、ホウジ・ケンスケは深くため息をついた。
目の前には、王国最大の冒険者ギルド支部──「ミドラ中央窓口」
荘厳な石造りの建物の中に、壮観なまでに並ぶ“受付”の列!列!列!
肩にかけた長剣は、未だ一度も抜かれていない。 だが、彼の腕は疲れ切っていた。ペンを握りすぎて。「旅立ち届」「同行者名簿」「装備申告書」──山のような書類に、青インクの筆記指定。剣より重たい書類束が彼の腰袋を圧迫する。
「まさか旅に出るのに、三日前に申請しないと罪になるなんて……」
「“行政手続きによる行動管理”ってやつよ。王国では民衆の安全のために、何かをするにはまず紙を出すのが基本」
「紙出す前に魔物が出たらどうすんだよ……!」
「黙ってやっちゃうと、今度は“防衛権限超過罪”で捕まるわよ」
「じゃあ見殺しにしろってのか!」
「“正当防衛認定申請書”をその場で書けばセーフ。見殺しじゃなくて、文殺し。」ヌケミ・ハナは、ケンスケの隣で淡々とペンを走らせていた。
灰色のローブに、くすんだ金髪。小柄な魔導士。
その見た目とは裏腹に──彼女は「法典に最も詳しい魔法使い」として、密かにギルド内で有名だった。
「私がいなかったら、あんた、ここまでたどり着けてないわよ?」
「感謝してるけど、根本的に何かがおかしい気がするんだ……」
「ようやく気づいた?」
「この国、剣より書類が強いじゃねえか……!」
ケンスケの冒険者登録は、すでに一週間前に済んでいる。だが、そのときですら「動機記入欄」「長所短所自己評価」「希望勤務地」など──まるで就職面接のような書類地獄に、彼は一度気絶しかけた。
そして今度は旅立ち届だ。
「ちなみに、“未申請旅立ち”って、どんな扱いになるんだ?」
「“逃亡の可能性あり”として、律導官が出張ってくるわね。運が悪ければ“捕縛”されて、記録に一生残る」
「……律導官?」
「法律違反を取り締まる国家直属の法務魔導士。通称“法の番人”。王国法典のすべてを記憶し、違反者には法術で即時対応。──しかも、過去の違反すら掘り起こしてくるの」
「うわあ……もう普通に魔王より怖い……」
そのとき、窓口の奥から、見慣れた職員が顔を出した。
「ホウジ・ケンスケさま、ヌケミ・ハナさま。書類の確認が完了しましたので、お呼びしました」小柄で、真面目そうな眼鏡の青年──ギルド事務職員のササマ・リック。
緊張の面持ちで、手にした一枚の紙を掲げた。
「ただ一点、不備がございました。“旅立ち届”の“目的地記入欄”が空白でして……」
「目的地って……! まだ決まってない冒険はダメなのかよ!?」
「“未定”は記載不可です。“検討中”または“申請中”であれば、仮届け扱いとなりますが、関所通過証明は発行されません」
「出られねぇじゃねえか!!」
彼らの戦いは──まだ剣を抜く前だ。
ペンを握り、紙を埋め、印を押し、ハンコを押す。 王国における冒険とは、まず法という迷宮をくぐり抜けることから始まる。
だがこの時、ケンスケはまだ知らなかった。 この国を縛る法典が、ただの制度ではなく、“魔導の体系そのもの”であるということを──