どうかあなたもご機嫌よう
「ジェイド・フィン・グレイロードの名において、貴様との婚約を破棄する!」
私を庇うように立つ、この国の第一王子、ジェイド様は、大勢の貴族が集まる夜会で声高に宣言した。
何が起こっているの理解できない私の視線は、こんな状況でも堂々としている、ジェイド様の婚約者、アレクシア様に釘付けになる。
アレクシア様はコートリア公爵家の長女で、あらゆる面でその才覚を発揮する、天才令嬢として有名だ。
私は一度だけご挨拶させて頂いた事があるが、その凛とした佇まいや、自信に満ち溢れた言動に、密かな憧れを抱いていた。
そんなアレクシア様が、何故か婚約破棄を宣言されている。一体何故?
「成程、まず一点。わたくし達の婚約は国王陛下がお決めになった事。それを、貴方の一存で破棄する事はできません。次に、正当な理由なく一方的に婚約破棄をするというのなら、我がコートリア公爵家、延いては、派閥全てが王家の敵に回る事になります。それを理解した上での先程の宣言という事でよろしいのですね?」
「そ、それは……」
「とはいえ、聡明なジェイド殿下が、わたくしとの婚約の意味を理解できない筈もありません。それでも、婚約を破棄する、というのですから、相応の理由があるのでしょう。お聞かせ願えますか?」
淡々と、怒るでも、悲しむでもなく、ただ淡々と言葉を連ねるアレクシア様に場の空気は支配された。
それでも、ジェイド様はアレクシア様を糾弾する意思は変わらないようだ。
「理由だと! それは、お前自身が一番わかっているだろ! お前がこの、レア嬢に行った非道の数々! 身に覚えが無いとは言わせないぞ!」
わたし!? な、何故?
あからさまに動揺する私を一瞥し、アレクシア様はクスリと笑った。
「全く身に覚えがありませんわ」
「き、貴様……!」
「わたくしがレア嬢と会話したのは一度だけです。それ以外に接点はありませんわ」
お、覚えて下さっている!? 嬉しい! ではなく、この状況をなんとかしなければ。
「お前が可憐なレア嬢に嫉妬し、嫌がらせを行っていたのだろう!」
「お待ち下さい、ジェイド様! 確かに、嫌がらせを受けた事はありますが、それがアレクシア様だとは——」
「安心してくれ、レア嬢。君の事は必ず私が守る」
ジェイド様は微笑みながら、私の頭を撫でる。
この人は一体何を言っているのだろうか? そもそも、どうして私なんかに構うのだろう?
私は、ただの男爵家の娘で、王子と交流を持つ事自体、本来ならあり得ない筈だ。
以前、夜会でお声をかけられて以来、ジェイド様は度々私にお声をかけて下さる。茶会呼ばれた事もあった。
貧乏貴族の娘を王族の茶会に呼んで、反応を楽しんでいたのだろうか。
ともかく、そんなわけでジェイド様とはお話しする機会が何度かあり、そのせいかわからないが、嫌がらせを受けるようになった。
私のような下級貴族の娘が王太子様と会話していれば、他の御令嬢が不快に思われるのは当然だ。
勿論、その事をジェイド様に相談した事などない。
「わたくしがレア嬢に嫌がらせを。そこまで言うのであれば、当然証拠はあるのですよね?」
「当たり前だ! シンク! ルノア!」
ジェイド様が名を呼ぶと、私の背後から現れた男性と女性がジェイド様の隣に並ぶ。
「俺はその女が取り巻き共に、レア嬢に嫌がらせするよう指示を出す所を見た!」
「私は、貴女がレアさんの飲み物に細工する場を目にしました!」
二人の言葉に、アレクシア様はキョトンとした顔をする。そんな場合ではないのだけれど、初めて見る表情で、可愛らしいと思ってしまったのはナイショだ。
「ふむ。それで、証拠はいつ出てくるのでしょうか?」
「は? だから、この二人が——」
「まさか、その二人の証言が証拠、とは言いませんよね?」
押し黙るジェイド様に、アレクシア様は呆れたように息を吐く。
「仮に、その証言が事実だとして、何故貴方はその場で止めなかったのですか?」
「そ、それは、お前は仮にも公爵家だから……」
「そうですか。では、そちらの貴女。飲み物に細工をしたと仰いましたが、当然、その飲み物は保管されているのですよね? それがあれば、決定的な証拠ですから」
「い、いえ。その飲み物は、レアさんが飲んだので」
飲んだ!? 私、細工のされた飲み物を飲んでいたの!?
「はぁ。呆れて物も言えませんわ。一応聞いておきますが、レアさん、飲み物を飲んで体調を崩された事はありますか?」
「いえ、心当たりはありません」
再び、アレクシア様は溜息を吐き、ジェイド様に向き直る。
「貴方が愚かである事は知っていました。なので、先程の発言を撤回するというのであれば、今日の事は無かった事にして差し上げます。この場にいる皆様にも緘口令を敷きます」
「黙れ! 婚約破棄は撤回しない! 私が妻とする者は私が決める! 私の妻は、未来の王妃は、このレアだ!」
「…………ええ!?」
思わず声を上げてしまった。王妃? 私が? 何故?
「私達は愛し合っている。レアはお前とは違う。本当の私を見て、愛してくれた」
アイシアッテイル? 誰と誰が?
「わかりました。では、ジェイド殿下は正式に、わたくしとの婚約を破棄する、という事でよろしいのですね?」
「そうだ!」
はっ! 呆けている場合では無い! このままでは、私のせいで国が割れてしまう!
「お待ち下さい!」
「レア?」
「アレクシア様! 私はジェイド様を愛してなどおりません! ジェイド様の勘違いです!」
「レア……?」
アレクシア様の前で跪き、懇願する。
「ですので、どうか、お考え直し下さい! ジェイド様の短慮で国を割るなど、あってはなりません!」
「レ、ア……?」
「私はいかなる罰も受けます! ですので、どうか!」
スッ、と頬を柔らかい何かが撫でた。
「顔を上げて下さい、レアさん」
随分と低い位置から聞こえた声に顔を上げると、アレクシア様が膝をついて私の頬に手を添えていた。
「ア、アレクシア様!? お立ち下さい! ドレスが汚れてしまいます!」
「構いません。そんな事より、貴女、今いかなる罰も受ける、と言いましたね?」
「え? あ、はい」
私が頷くと、フッ、とアレクシア様は妖艶な笑みを浮かべ、頬に添えていた手をスルリとずらし顎に添える。
アレクシア様を見上げるように、少し顔を上げさせられ、アレクシア様の御尊顔が近づいてくる。
唇が触れ合う直前、接近は止まった。
「では、わたくしのモノになりなさい」
「へ?」
「貴女は美しい。その容姿も、魂も。貴女が欲しい。選びなさい。わたくしのモノになるか、あの愚物と愛し合うか」
愚物とはジェイド様の事だろうか。それは絶対に嫌だ。
その二つしか選択肢がないのなら、否、他に選択肢があったとしても。
「アレクシア様のモノにして下さい」
「フフ、良い子。では、行くわよ」
どこへ? いいえ、どこでも良い。アレクシア様と一緒なら、地獄であろうとお供させて頂く。
アレクシア様の手を取り立ち上がる。アレクシア様は不敵な笑みを浮かべると、私を横抱きに抱える。
「待て! どこへ行く!」
「もう、こんな国に用はありませんわ。そうね、南国にでも行こうかしら」
ふわりとアレクシア様の体が浮く。アレクシア様の得意とする風魔法だ。
「ああ、それと、一応言っておきますが。ジェイド殿下、貴方が王太子であったのは、わたくしとの婚約があったから。それを破棄なさったのですか、王位継承権一位は弟君になると思いますわ。これからは、弟君を支えられるよう、立派な兄になって下さいね」
アレクシア様なりの御慈悲なのだろうそれは、残念ながらジェイド様には届かなかった。
「き、貴様! 何をしている、お前達! さっさと奴を捕まえろ!」
喚き立てるジェイド様に従う者は一人もいない。
「では、ご機嫌よう、ジェイド殿下。さあ、レア、しっかりつかまっていなさい」
「はい、アレクシア様!」
風を操り窓を開けると、アレクシア様はそこから青空へと飛び立つ。
瞬く間に会場は遠ざかり、満天の星空の元、アレクシア様と二人きりの空の旅が始まる。
「ああ、そうだ。一度我が家に寄るわよ。構わないわね?」
「はい。それは勿論ですが」
「諸々の準備も必要だけれど、先ずはお父様とお母様に挨拶をしなければならないでしょう」
「挨拶、ですか?」
アレクシア様は宝石のような瞳を私に向け、女神すら嫉妬するような、美しく、可憐な笑みを浮かべる。
「新婚旅行に行って来ます、とね」
「〜〜〜〜! アレクシア様!」
ギュッ、と思い切りアレクシア様に抱き着く。アレクシア様は、あらあら、と困ったような、嬉しそうな声を溢す。
一時はどうなる事かと思ったけど、ジェイド様の愚行のおかげで、私は世界で一番幸せな人間になれた。
ありがとうございます。そして、ご機嫌よう、ジェイド様。