冤罪処刑の寸前に周囲が慌て始めましたが、もう来世に期待しますので構わないでください。
閲覧注意。笑えない話です。
4/30 日間総合二位、短編部門一位、カテゴリ一位でした。ありがとうございます。
5/1 週間カテゴリ1位でした。ありがとうございます。
5/4 週間総合短編部門3位でした。ありがとうございます。
冷たい地下牢。かび臭い空気と、かびの生えたパン。そして私の足に繋がれ、外れないよう溶接された、鋼鉄の足環。
2年前まで伝説の聖女の再来と持て囃されていた私に、現在与えられている物はこれだけだ。
重犯罪を犯した囚人達の、怨嗟の声や狂った笑い声だけが僅かに聞こえる中、似つかわしくないほど整然とした靴音が近づいてきた。
「偽りの聖女アネモネ、君の処刑執行日が決まった。ちょうど30日後となる」
「……そうですか」
わざわざ王子殿下直々の宣告、痛み入ります。
「ふん……陰気だな。まだ自分は偽者ではないと言いたいのか」
それはもうこれまで、何度も主張してきた事だ。何を言っても誰も話を聞かず、既に処刑執行が決まったという状況で、今更何を言えと。
「今度はだんまりか……相変わらず我々をイライラさせるのが上手いことだ」
「では、一日でも早く処刑なさることですね」
「言われずともするさ、予定通りにな。また会おう、死刑囚アネモネ」
そう吐き捨てた殿下は、来た時と同じく整然とした歩調で、地下牢から去っていった。
「…………疲れた」
砕かれ、曲げられてまともに動かせなくなった手足。足りない食事。そして両親と妹、婚約者だった殿下から浴びせられる罵詈雑言と、有象無象から浴びせられる絶えない嘲笑。
もう、疲れた。何もかもどうでもいい。
「来世では、もっと平凡で、温かな人生を送りたいな……贅沢は、言わない、から……」
最後の祈りは、自分の為だけに捧げると、心に誓っていた。
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「……ネモネ。アネモネ。いつまで寝ているの?」
「うん……?あれ、ここは……?」
私の部屋……?いや、違う。ここはもう私の部屋ではない。私の部屋と呼べるものは、今や地下牢にあるはずだ。
なぜ再び、ここに?……これは、夢だろうか?
「寝ぼけて居るわね。さあ、早く身支度を整えて。朝ご飯を食べましょう」
声の主は、私に対して呆れたような笑顔を見せた後、向かいの部屋へ入っていった。
「……お母さま?」
あれは、確かにお母さまだ。でも、あんなに優しいお顔だっただろうか。
地下牢に繋げられるまでは、優しかった気がする、けども。
……そうだ、思い出した。これは、2年前の記憶だ。聖女の力に目覚める直前の、他愛のない朝の出来事。そして私はこの後、家族みんなで教会へお祈りしに行くことになって……お祈り中に、神様の声が教会中に響き渡るんだ。
『汝、我に代りて世界を守護せん』
――と。そして私を中心に光が集まって……聖女としての力、すなわち【加護】を得る。使命感を得て、王子様と婚約できた私は、ちょっと浮かれていたっけな。
その一年後、妹の謀によって、偽物の聖女として処刑されるとも知らずに。
……夢の中でなら、やり直すことも出来るのかしら。
例えば今後二度と教会に行かず、屋敷で留守番をする手もある。妹こそが真の聖女だと、最初から告白してしまうのも良い。そうすれば、私は聖女であることをひた隠し、一人の貴族令嬢としての人生を全う出来るだろう。
「ふふふっ……」
そうだとしたら、なんと虚しい。
それで?夢の中で破滅を避けて、聖女じゃない人生を全うして、幸せになってどうするの?
御免だわ。私は夢で幸せになろうだなんて思わない。たとえ失敗した人生だったとしても、その結果から逃げたりはしない。
私は決めた。夢から覚めるまで、一度なぞった破滅の道をもう一度なぞり直す。
死ぬ時は、最後まで聖女として死ぬ。
そして正面から人生と向き合い、潔く来世を迎えると。
「……そろそろダリアも起きる頃のはずね。急いで、下に降りないと」
私は髪の毛を梳かすべく、化粧台の前に座った。
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「……なんだ、今のは」
その日の目覚めは、最悪の一言だった。聖女を騙った稀代の詐欺師にして、彼の元婚約者だったおぞましい娘が、夢に出たからだ。
だが、それにしては奇妙な夢だった。妙に鮮明で、生々しく、違和感を覚えるほど仔細に思い出すことが出来た。自分が普段見る夢でさえ、ここまで鮮明だったことは無いのに。
「まさか今更になって、罪悪感を覚えてるのではあるまいな」
犯罪者とはいえ、元婚約者である。一時は本気で愛していた時期もあった。彼女が、妹の力を利用して聖女を騙ったと知るまではだが。
処刑執行まで、残り29日。夢に見るほどまだ彼女を意識しているという事実は、彼にとってあまり好ましいことではなかった。なぜならば、彼は彼女の妹であり、真の聖女であるダリアとの結婚が控えていたからだ。
「ふん……未練、か」
処刑が確定した以上、アネモネが死に値する罪人である事実は動かない。それを分かっていても、彼はアネモネをもっと憎みたかった。自分を騙し、国を騙し、家族をも裏切ったあの女の死を、心から望んだ上で処刑したかった。
そのために、彼はわざわざ地下牢に通うことを決意するほどであった。
だが、その決意は残念ながら不発に終わることになる。地下牢の入り口で面会を申し出ると、番兵が首を横に振ったからだ。
「残念ですが、面会をしても意味が無いと思われます」
「何故だ?」
「昨晩より、食事を取らずに眠り続けています。今朝も朝食を摂るよう怒鳴りつけ、水を頭にかけたりもしましたが、一向に反応がないのです」
「おい、処刑の前に死んだのではあるまいな」
「い、いえ、脈は確かにございます。しかしあのまま意識が戻らないとなると、もう先は長くないかと……」
もしかしたら、彼女を追い詰め過ぎたばかりに、体よりも先に心が死んでしまったのだろうか。……いや、だったらなんだというのだ。悔やみ切って自ら心を殺したというのなら、むしろ望ましいではないか。
「大罪を犯したあの女は、処刑して首を晒さねばならん。自然死など許さぬ。すぐに医者を手配し、無理やりにでも延命させろ。ひと月保たせれば、それでいい」
「はっ」
そう命じた王子は、その足で自室のテラスへと向かった。そこでは彼が愛する、真の聖女ダリアが昼の食事を共にすべく、待機している。アネモネの事を大層心配していたから、よく寝ていたとでも伝えてやらねばならない。
だが、そんな杞憂は不要だった。聖女ダリアは全て知っていたのである。
「ギルフォード様……私、夢を見ました。お姉様が、神託を受ける日の夢を。あれはきっと、お姉様の命が尽きようとしているのだと思います」
「……そうか、君も彼女の夢を見たのか」
「ギルフォード様も?」
「ああ。あの夢は、私の中にある彼女への未練から見たのだと思っていたが……命が尽きる前に、夢の形で皆の前に現れたのだと考えることも、出来るかもしれないな」
聖女の目が、涙を浮かべながら笑みを象った。
「そうですか……では我々も、夢で見たお姉様を思い、その最期を看取りましょう」
「そうだな」
自分達は、心から繋がっている。結ばれるべくして結ばれた、真のパートナーだと、この時の二人はそう確信していた。
だが今のやり取りで、決定的な齟齬が発生していることに、まだ二人とも気付いていない。気付いたところで、もはや手遅れではあったのだが。
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「今の神々しい光は……もしや!?」
「お母様。今はっきりと神の声が聞こえました。汝、我に代りて世界を守護せん……と」
「信じられん……!アネモネ!お前は我が家の誇りだ!」
教会で神託を受けた私は、それはそれは嬉しかった。秀でた学力がある訳でもなく、何の取り柄もない私が、ただ神に選ばれただけで人生が華やかになったと思い込んだ。
その数日後、すぐに殿下との婚約が王家から打診され、私は幸せの絶頂へと誘われた。
……と、今はそう演じねばならなかった。目の前にいる父親は、その誇らしい娘を裸で鞭打ちにするよう命じた張本人だというのに。
「ん?どうかしたか、アネモネ」
「何でもありません、父上」
夢と言っても走馬灯とは異なり、私の意思で動き、話せる以上はそれらしく振る舞わねばならない。それは想像していたよりも、ずっと強い忍耐と我慢を必要とした。
赤の他人が見れば、まるで大衆小説のシーンをなぞっているかのような、誰もが羨む幸福な時間に映るだろう。しかし今の私にとっては、その全てが苦痛の元凶であり、呪っても呪いきれない、忌まわしい記憶に他ならなかった。
今すぐに真実を吐いて、滅茶苦茶にしてやりたい。どうせ死ぬなら、好きに生きてから死にたい。このまま逃げ出して、辺境で静かに暮らす余生を過ごしたい。そんな衝動に駆られそうになる。
でもそれは、私の人生を否定するものだ。過ぎた過去はやり直せないし、やり直せないからこそ尊く、そして時に無価値なものとなる。事実、私の人生はそうして、無価値なものになった。
或いはこの夢は、神様が下さった最後の慈悲かもしれない。無駄にすれば、神罰が下るかもしれない。しかし、聖女になって唯一私を裏切らなかったのは、皮肉にも姿を一度も見せなかった、神様だけなのだ。
ならば最低限の礼儀として、お贈り頂いた聖女の任を、寝てる間も最後まで尽くすべきだ。
「おめでとうございます、お姉様」
「ありがとう、ダリア」
「……ずるい。ずるいわ。私にだって、出来るのに」
そう。貴方はこの日から、ずっと私に成り代わろうとしてきたのよね。
「…………神様」
神様。
私は最期まで、貴方を愛すると誓います。
貴方の愛に報いると誓います。
だから、お願いします。神様。
私に、どうか平穏な来世を。
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「ちっ……!今日も寝たフリか」
その日、番兵の機嫌は最悪だった。それもこれも、何故か連日こんな女の夢を見るためであった。
昨日の昼、彼女の容態を診た医者は、特に致命的な異常は無さそうだと診断した。手足は問題なく折れ曲がっているし、身体を流れる魔力量も致命的な減少は見られない。ひと月程度なら、ギリギリ保つでしょう。
要するにこの偽物の聖女は、寝たフリを続けているのです。診断中は本当に寝ているようですが、明日はいつも通りに対処して構いません。
……それが、医師の診察結果だった。
「おい、起きろ詐欺師野郎!!」
彼は汚れたバケツに溜まった雨水を、女の顔に浴びせかけた。服が濡れて、その奥の肢体が透けて見えたが、女は寝息を立て続けている。情欲よりも、苛立ちのほうが上回った。
そこだけは汚れていない顔を見て、ふと昨日の診察を思い出した。奇妙なことに、血液検査のための針が、上手く通らなかった。そればかりか栄養剤を流し込む点滴でさえ、彼女の身体には一切通らなかった。
痩せ過ぎて、血管が細くなったためだろうと医師は言っていた。番兵もまた、その結論に十分納得していた。
だが、何故か違和感を感じる。しかし長年この仕事をしてきたが、その違和感とやらが仕事の役に立ったことは無い。無視するに限るだろう。
「おい!死なれても迷惑なんだよ!ちゃんと喰っとけ!」
番兵は腐りかけのパンを女の顔に投げつけると、その結果を確認せずに牢の入口へと戻っていった。
汚いパンは、先ほどの汚水に浸されたことでさらに汚れ、食用に耐えうるものではなくなっている。
だが、その美しい女の顔は――
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聖女としての生活は、私が想像していたものを遥かに超えて多忙だった。
一日の半分を神への祈りに捧げ、残りの半分は社会奉仕に使われる。
平民に救いの声を届け、時に配給を直接行うことで、聖女を囲う国の威信を高めていく。聖女は神の代理人である以上に、国の所有物であり、道具でもあった。
「大丈夫か、アネモネ」
「ギルフォード殿下……はい、大丈夫です」
大丈夫な訳が無い。睡眠時間は一日三時間取れれば良い方だし、屋敷で休む日には婚約者である第一王子が欠かさずやってくるので、少しも気が抜けない。そんな毎日を過ごして、消耗しないはずが無かった。
でも、この時の私は、それで当然だと信じていたのだ。
「私は、聖女なのですから。少しでも多くの人のために、働きませんと」
心から、そう信じていたから。
「ギルフォード様!」
ダリアの甲高い声が、屋敷内に響く。今の私には金切り声にしか聞こえないが、年頃の男子にすれば甘えた声に聞こえるだろう。
「おお、ダリア殿か。今日も愛らしく、元気だな」
「ありがとうございます!聞いてください!一昨日の昼に一所懸命お祈りしていたら、次の日に雨が降ってくれたんです!」
「うん?……そうか」
「お陰で花壇のお花さん達も元気になりました!」
なんでもないかのような、妹からの無邪気な報告。一昨日といえば、山火事の鎮火をするために、終日祈とうを命じられていた日だ。同じ日に、妹も祈っていたというのだ。それも、昼間に少しだけ。
「それは良かったな。草花もさぞ喜んだことだろう」
偶然だろう。この時は殿下もそう感じていたはずだ。
「えへへ」
それから少しずつ、違和感が生じないような頻度と話題から、妹は殿下にささやかな実績報告を重ねていった。
「王妃様がご病気と姉から聞いたので、私も良くなりますようにとお祈りしました」
――不治の病とされていた難病で、私が一週間祈り続けた翌日だった。
「ギルフォード様、見てください!私も魔法が使えるようになりました!」
――障壁魔法だった。私の加護に少し似た、攻撃を弾く防御魔法。
「私、この国だけじゃなくて、この世界全てが平和になればって思うんです。この世から魔獣がいなくなれば、きっとそんな世界がやってきますよね」
――聖女となって一年経った私が、国民に向けてメッセージを送った一ヶ月後のことだった。私のメッセージは……この国の民が、等しく幸福になれますように。
まるでダリアの方が、広く慈悲深い心を持つかのような。
それをダリアは、ギルフォード殿下と両親、そして沢山の友人達に対して、それらしく吹聴し、振る舞ってきたのだ。
少しずつ。少しずつ。
私ではなく、妹のほうが本物ではないかと、疑心を抱けるように。
妹の方が優れているかのように。
必死で働く私の横で、後出しで手札を出し続けた。
「アネモネ、ダリアの言っていたことは本当か?」
「あの時の光……もしかしたら、ダリアから放たれていたのかもしれないわ……」
「アネモネ、ダリアが――」
「ダリアに比べて――」
両親さえも私を疑い始めた頃、意気消沈する私に対して、ダリアが放った言葉が忘れられない。
「私が神に選ばれるべきだったのよ、お姉様」
いつしか、ダリアの方が聖女だったら良かったのにと、周りが考えるようになった頃。
「アネモネ、最近加護の力が弱まっているぞ。近隣の村々から、魔獣が畑を荒らしているとの苦情が上がっている」
「申し訳ありません……」
「ふん……ダリアが祈れば、一日で解決するかもしれんな」
「そ、そんなことは」
私の言葉は、騎士の鎧によって掻き消された。
「申し上げます!ダリア様が城下町で、魔獣に襲われました!」
「なんだと!?」
「で、ですが、その魔獣を聖なる光とともに、障壁で弾き返したのです!!ダリア様はご無事です!!」
「え……」
「それは本当か!?」
「はっ!皆を助けてほしいと神に祈ったところ、不思議な力が湧いてきたとのことです!流石はダリア様ですな!」
攻撃してきた魔獣を弾き返した?もしそれが本当だとしたら、それは聖女の力では無く、ただ強いだけの障壁魔法だ。
神様の加護はそういうものではない。聖女である私にはすぐ分かった。
これはダリアの策謀だ。多分、魔法力を高めるアクセサリーや、閃光魔法を封じただけの魔法具を、友人から借り入れたのだろう。如何にも聖女らしくなるように、演出しただけだ。
しかしそれを、彼女は公衆の面前でやってのけたのだ。民からすれば、聖女アネモネの怠慢によって入り込んだ魔獣を、その妹ダリアが排除したようにしか見えなかったことだろう。
「殿下、これは――」
「おい、アネモネ」
そして、それは私に対して疑念を抱いてきた者たちからすれば、決定打と成りうる事件だった。
「貴様、この私を謀っていたのか……!」
その日から、私は地下牢に入れられ、偽りの聖女として虐げられる日々が始まった。
そこで人としての全て、女としての全てを、奪われ続けることになるのだ。
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「なんなのよ、あれは……!不愉快だわ!!」
テラスにてギルフォードを待つダリアの形相は、真の聖女らしからぬ険しさだった。あの目障りな姉の処刑が決まり、真の意味で勝者となることが確定した日から、毎日あの女の夢を見せられている。
そしてその光景全てに覚えがあった。
「わが姉ながら、なんと女々しい……!今更私にあんな光景を見せて、後悔の念でも浮かべさせようとでも言うの?」
真の聖女ダリアの策謀は、非常に周到かつ慎重だった。当時まだ13歳だった自分には、まだ顔立ちに幼さが残っていた。そしてそれを、ダリア自身が自覚していた。
ならば無邪気さを前面に出しつつ、間隔を開けて大きな成果を主張し続ければ、周りは自分の方を信じ始める。急ぎ過ぎなければ、楽に勝てるだろう。そう確信していた。
皮肉な話だが、アネモネの美貌は二年前から聖女として完成していた。その聖女の実妹であり、同時に未熟でもあったダリアの主張は、子供らしくもある種の真実味を帯びていたのである。
それにしても……と、ダリアは思う。一年という長期にわたる策謀も、夢という形で一晩でまとめて見せられると、実に露骨なものに感じられる。あれでは自分が姉を蹴落としたと見られても、無理は無いだろう。
「でも、夢は夢よ。一度見た光景を何度見せられた所で、現実は変わらない。変わらないのよ、お姉様」
そう、こんなのは無駄な足掻きだ。嘲笑によって歪められた唇は三日月を描き、地下牢で汚され続けている姉を見下し続けていた。
だが彼女は、自身が既に致命傷を負っていることに、気付いていなかった。
「ダリア……」
「ギルフォード様!」
地下牢から戻ってきたギルフォードを、満面の笑みでお迎えするダリア。その清らかで美しい笑顔は――
「神に選ばれていないとは、どういう意味だ?」
一瞬にして凍り付いた。
――数刻前。その日の朝もギルフォードは、地下牢へ向かっていた。死体のような顔色をした番兵を押し退けて、無理矢理アネモネの牢へと向かった。
そこには全く手を付けられていない腐ったパンと、汚水によって汚されたアネモネがいた。
「こ、これはどういう訳だ……!?」
そのアネモネの顔は、いや肢体は、一切汚れていなかった。一度汚れたのであろう服はそのままなので、この番兵が清拭したとは思えない。これまで行ったこともない。
にも関わらず、一切汚れていなかった。かつて彼が怒りのまま砕き、へし折った手足以外は。
「……か……加護です」
番兵の顔色は、眼前に魔王を迎えたかのようだった。ギルフォードもまた、同様だった。
「これは、聖女の加護です……!この方が、きっと本物なのです……!あ、あの夢は……あの夢は、聖女様の呪いに違いありません……!」
「夢だと!?待て、まさか、お前も視ているのか!?アネモネの夢を!?」
ギルフォードは誤解していたのだ。夢を見ているのは、自分と愛するダリアだけだと。
番兵は誤解していたのだ。偽りの聖女が夢に出るのは、自分が職務に対し、不満を持っているからだと。
そして真の聖女ダリアは誤解していたのだ――
「ダリア様が……ダリア様こそ、神に選ばれていない、偽りの聖女だったとしたら!!我々はどうなるのですか!?アネモネ様を虐げ、嬲り続けてきた我々の未来は!?」
見知らぬ他人が、真実を知るはずが無いのだと。
アネモネが紡ぐ半生の夢を、国民全員が視ていたのだと判明するまで、そう長い時間は掛からなかった。
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地下牢での陰惨な生活は、聖女として勤めていた頃よりも辛く、そして痛かった。
最初に怒り狂った殿下によって、手足を粉々に砕かれた。
女としての尊厳を奪うべく、重犯罪者どもと同じ牢に投げ込まれた。
意味の無い拷問と、答えありきの尋問。
全ては騙されたことへの怒りと悲しみ、そして失望を埋めるための逃避であり、娯楽だった。
私はそれらの全てから逃げずに、もう一度受け続けた。
何度も、何日も、休み無く。
その夢は非常に長く、まるで本当に同じだけの時間が流れているかのようだった。
そして、ついにあの日が来た。
「偽りの聖女アネモネ、君の処刑執行日が決まった。ちょうど30日後となる」
「……そうですか」
「ふん……陰気だな。まだ自分は偽者ではないと言いたいのか」
いいえ、もうその必要もありません。もはや私が望むのは、聖女としての最期のみ。
「今度はだんまりか……相変わらず我々をイライラさせるのが上手いことだ」
「では、一日でも早く処刑なさることですね」
「言われずともするさ、予定通りにな。また会おう、死刑囚アネモネ」
そう吐き捨てた殿下は、来た時と同じく整然とした歩調で、地下牢から去っていった。
「…………疲れた」
でも、ようやく終わった。満足だ。
やはり私は間違っていなかった。
この世界は……。
「この世界は……守護するに値しないわ……!どいつもこいつも、地獄に堕ちてしまえば良いッ……!!」
でも神様、私は復讐に走りませんでした。
夢の中でも、ちゃんと聖女として頑張りました。
だから……だから、せめて……。
「来世では、もっと平凡で、温かな人生を送りたいな……贅沢は、言わない、から……」
最後の祈りは、自分の為だけに捧げると、心に誓っていた。
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真の聖女は、ダリアではなく、アネモネ。その事に国民が気付いたのは、彼女が眠りについてからおよそ3日後のこと。
凄惨な夢を視た全国民が城へと押し寄せ、地下牢に繋がれているだろう聖女を救おうとした。勇気ある騎士団もまた聖女アネモネを救おうと、地下牢へと走った。
だが、聖女アネモネは眠ったまま動かなかった。否、動かせなかった。まるで何かに護られているかのように、如何なる干渉をも受け付けず、汚水で汚れてボロボロになった布切れを纏ったまま、眠る彼女に触ることすら出来なかったのだ。
その有り様はとても国民に見せられるものではなく、国は真の聖女アネモネを保護しているとの名目で、地下牢に置き続けた。その決断が国民のさらなる怒りを買い、後に歴史上最大規模の内乱へと発展することとなる。
一方で姉を陥れ、王子を騙し、国を存亡の危機に晒す元凶となった妹ダリアは、アネモネの処刑予定日に断頭台へ立たされ、その短い生涯を終えることとなった。そしてその一年後、心身ともに衰弱したギルフォードも、後を追った。
アネモネの祝福を目の前にしながら、それを信じずに妹ダリアの言葉を鵜呑みにした両親も、同じ日に絞首刑に処された。
だが恐らくダリアとその一家にとって、処刑はむしろ救いだったに違いない。何故ならば処刑されるその日まで、凌辱と拷問だけの一年間をさらに濃縮した夢を、およそひと月もの間、強制的に視せられ続けたからだ。ダリアはこれから訪れる残酷な未来に絶望し、両親は最期の瞬間まで謝罪と後悔を叫び続けていたという。
そして、その救いすら無く、戦う力も無い人々は、聖女の凄惨な半生を直視したことで絶望し、国を去っていった。
聖女の加護も得られなくなった国は衰退し、多くの魔獣が入り込み、数少ない国民達も土に還っていった。
それでもアネモネは、眠り続けていた。
国が形を失い、地下牢へ繋がる出入り口すら風化したあとも、彼女だけは美しい形を残したまま。
何年も、何十年も。何百年も。
まるで、神が彼女を守護しているかのように。
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「――以上が、約1500年前に滅んだ、ルイン王国の歴史よ。王城は今年の遠足で寄るから、ちゃんと復習しておいてね。明日はその後に興されたドリム王国について、30ページから……ん?」
……シーンと教室が静まり返っていた。少し、授業の内容が過激すぎたかしら。ああっ!泣いてる子までいるじゃない!?
「ぜ……先生……!アネモネさん、がわいぞうだよぉ……助けてあげようよぉ……!」
「だ、大丈夫よ!神様は本気で頑張ってる人を見捨てたりしないわよ!」
「でもぉ!」
「本当よー!50年ほど前に地下牢が掘り起こされたんだけど、聖女アネモネの姿がなかったの。きっとどこかで目を覚まして、地上に出たに違いないわ」
「ほ、ほんと?」
「ええ!だから皆も、神様から怒られないように、お勉強頑張りましょうね!」
元気よく返事をする小さな生徒たちを見て、私の心はとても温かなものに満たされた。
さあ、明日の授業のための資料を整理しないといけない。今日は定時に上がれるかしら。そろそろ腰も曲がってきたし、夫のためにも引退した方が良いかもしれないわね。
「はあー……生きるのって、いつの時代も大変だわ。安易に平穏な来世がどーこーと、言うもんじゃないわねぇ」
50年前のあの日、私は永い眠りから目を覚ました。地下牢どころか着ていた服も全部風化してて、全裸だったことには唖然としてしまった。
そして一番驚いたのは、全裸のまま地下牢から地上へ這い出た時、目の前に番兵……ではなく、今の夫が居たこと。ええ、ばっちり全部見られたわね。今となっては笑い話だけど。
「神様。私、後悔していることがあります。夢の中とはいえ、世界の人々に向けて、呪いの言葉を吐いてしまったことを」
今の私には、私を慕う生徒たちがいる。私を愛してくれる夫がいる。そんな彼らが今生きているのは、私が呪うままに世界が滅びずに済んだからだ。
私を救ってくれた彼らのために、残りの人生を捧げてあげたい。それが、愛するということだと思うから。
「……それに、私のせいで――」
「あの、アリア先生!」
「あら?まだ帰ってなかったのね。どうしたの?」
「えっと……結局、聖女様の加護って、どんな力だったんですか?」
「あらいけない、すっかり抜けていたわ!明日の授業で補足しなくちゃね!」
「もし良かったら、今少し教えてもらえませんか?」
「ええ、良いわよ。聖女の加護、その本質は魔獣の侵入を防いだり、病気を治すことではないの。その力の本質は――」
――聖女が愛する人を護り、癒し、悪意ある脅威を遠ざけて、干渉させない力。
「だから聖女を虐げて、愛されなくなった王国は、誰からも護られなくなって、滅びたのよ」
「そっかー……」
「どうしたの?」
「ううん。聖女様が生まれる前は、誰が国を護ってたのかなって思っただけ」
「え……?」
「きっと今みたいに、皆の力で護ってたんだろうね。ありがとう、アリア先生!」
軽い足音を立てながら走り去っていく女の子を見て、私は一筋の涙を流した。
それは私の中に残っていた、小さなトゲだった。
私が国を滅ぼしたんだという、後悔と自責の念。
それをあの子が、そっと優しく抜いてくれたようだった。
「……汝、世界を愛せん」
無意識に口から出た言葉は、私が最期の眠りにつく時まで、胸に残り続けた。
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嗚呼、世界よ。
※感想欄にて真実の一端が見られます。