第七章 すべては恋のために?
颯子は硬直していた。
今なにが起こっているのか、頭が理解することを拒否している。
固まり続ける颯子にかまわず、桜児さまは泣きながら水干の肩に顔をうずめ続けていたが、じきにハッとしたように体を離した。
「ま、真盾どの――」
あ、ようやくばれてくれたか、と颯子はむしろほっとした。
――そうだよね。これだけ抱き着けば、普通は男女の差は分かるよね?
どうもこの姫さまと真盾は――身内としては想像するのがちょっといたたまれないが――とうにわりない仲になっているようでもあるし。
あのですね桜児さま、実はわたくし――と切り出そうとしたとき、桜児がくしゃっと顔を歪め、眦からポロポロと大粒の涙を流しながら訊ねてきた。
「その、はしたないとお思いか? 呆れて言葉もないのか?」
颯子は胸がギューッと締め付けられるような気がした。
可愛い。
あまりにも可愛い。
なんだかもう、この姫君に本気で恋してしまいそうだ。
――真盾の馬鹿! こんな可愛いお姫さまを放って半年もどこを放浪しているんだよ!
心の中で憤りつつ、ぶんぶん頭を横に振り、大急ぎで懐を探って書付を引っ張り出す。
桜児は受け取って目を通すなり、またしても目を潤ませてしまった。
「なんと、病のためにお声が……真盾どの、ご苦労をされたのだなあ。道理ですっかり痩せてしまって、肩など細うなって――」
桜児が打掛の袖口で目元をぬぐう。
「して、今日は御所からの使いと聞いたが、よもやあの公方の恋文を託されてきたのか?」
颯子はできるだけ不本意そうな表情を拵えて頷いてから、託されてきた黒い文箱を渡した。
桜児は眉間に深い縦皴を刻みながら受け取り、薫香を焚き染めた薄様の文を広げてざっと目を走らせるなり、つまらなそうに畳んで箱へと戻してしまった。
「このまま返してくれ。――知らぬこととはいえ、この桜児の相思の殿御に文使いをさせるとは、あの公方血も涙もないわ」
そんなことはありません、と颯子は内心で言い返した。
想いが表情に出てしまったのか、桜児が顔を曇らせる。
「……真盾どの、よもやとは思うが、葛塚の家のためにこの求婚を受けよとお思いなのか?」
とんでもない!
あなたさまはどうぞ純愛を貫いてください!
颯子がぶんぶんと首を横に振ると、桜児はほっとしたように笑った。
「そうさの。約束したものな。真盾どの、桜児のことはかまわず、どうかお家を再興なさって、堂々婿としてこの家に入っておくれ。いついつまでかかってもよい。白髪の媼になろうとも、桜児は誰にも嫁がぬゆえな」
きっぱりと言い切る桜児の笑顔は実に美しかった。
颯子は内心で恐れおののいた。
――嘘、じゃ、真盾は本気で……?
呆然としたまま文箱を抱えて侍廊へ戻ると、猫夜叉丸がやたら豪華な菓子を食っていた。
「おお若君。首尾はどうだった?」
颯子は機械的に首を横に振った。
頭の中が真っ白で上手くものを考えられない。
「そうか。若君でもやはり無理だったか――ああ、そうお気になさるな。公方様は鬼でも蛇でもない。文使いをしくじったところでお怒りなどはせぬよ。ちと――いや、だいぶがっかりするだろうがの」
颯子の気鬱を何と思ったのか、美貌の猿楽役者は気さくな調子で肩を叩きかけ、はっとしたように動きをとめた。
「……?」
見れば美しい白い顔に驚愕の表情を浮かべている。
「わ、若君――」
な、なんでしょう?
無言で念じながら見上げると、猫夜叉丸ははっと顔を逸らし、
「いや、お気になさるな。ささ、そろそろ御所へ戻ろうかの。公方様がお待ちかねじゃろう」
あからさまにごまかした。
颯子は不安になった。
とうとう女だとばれてしまったのだろうか?
その場合――ものすごくまずいような気がする。