第六章 意外な熱愛発覚
一刻後――
颯子はなぜか猫夜叉丸と同乗して借り物の牛車に揺られていた。上等の牛を使っているせいか、家の車よりも揺れが乏しい。
すぐそばに端麗すぎる顔があるために、颯子は心臓がばくばくして仕方がなかった。
――はああ、綺麗だなあ……
黙っていると完璧に美女だ。
青みを帯びた瞼を伏せた横顔にひたすら見惚れていると、猿楽役者が瞼をあげ、にっと朱唇の両端をもちあげて笑った。
「若君よ、吾の顔がお好きか?」
こくこくと頷くと笑われる。
「それは嬉しい。吾にとってこの顔は商売道具ゆえな、いかに氷のお心と名高い六条大納言の姫君とて、この吾が使いをするとなれば文のやり取りくらいは応じてくださると思うていたのだがのう――」
猫夜叉丸は情けなさそうに眉尻をさげた。
そんな表情をしても十分に美しい猿楽役者を見ていると、颯子は急に不安になってきた。
――この文使いを門前払いするお姫さまが、私なんか本当に気に入ってくださるのかなあ?
颯子が今向かっているのは、六条通りに面する大納言家のお屋敷である。
猫夜叉丸の語るところによれば、公方様はこの六条大納言家の姫君である葛塚の桜児さまに、もうずいぶん長いこと報われぬ片恋をしているのだという。
ちなみに公方様に北の方はいないらしい。
今日ずっと空いていたあの几帳の席は、来るかもしれない桜児さまのために支度されていたものだったらしい。
――あの公方様を袖にし続けるなんて、一体どういう姫君なんだろう?
六条大納言家は山鶉家よりだいぶ家格が高いため、颯子はそちらの姫君とは一面識もない。怖ろしくはにかみ屋なのか、はたまた武家が御嫌いなのか、他に思う相手がいるのか――そういうお相手に、公方様はもうずっと恋し続けているのだ。
――一途な方なんだなあ。
そう思うと胸がぎゅっと痛んだ。
やがて牛車が滑らかに止まった――本来この止り方が正しいのだろう。
「若さん、どうぞお降りくだされ」
よく躾けられた御所の侍が外から簾を開けてくれる。
降り立った先に見えたのは、御所のそれよりやや小ぶりな小ぎれいな四脚門だった。
六条大納言家のお屋敷は、やはり山鶉家ほどには困窮していないらしい。
格が違うとはいえ同じ公家なのになぜこれほどの差があるのか――
その差はひとえに、所有する荘園の立地に起因する。
大納言家や左右大臣家といった上級公家は、今もって京の近くに荘や牧を有しているため、そちらからの収益が確実に届いているのだ。
翻って山鶉家みたいな中流公家の荘園は遠方にあるため、世が完全に治まっているとはいいがたい現状では収益が全く届いてこない。おかげでみんなそろって副業に勤しんでいるわけだ。
――今もこういう暮らしをしている公家もあるんだなあ……
表門を護る青侍に猫夜叉丸がてきぱきと取次を頼む傍ら、颯子はしみじみとした感慨に打たれていた。
同じ公家といってもこの邸は別世界だ。
こんなお邸で生まれ育った桜児さまというのは、本当にどういう姫君なんだろう?
「――若君、奥へ取り次いでくれるそうじゃ。侍廊でしばし待つぞ」
こちらの廊もふき晒しだった。
かじかむ手をこすり合わせながら待つことしばし、じきに華やかな白地に赤の花柄の小袖をまとった女房が現れた。
「山鶉の若君だけは入られよ。姫さまがお会いするそうじゃ」
颯子はこくこくと頷いた。
案内役の女房の後に従って東の対の屋に入る。
そこはきちんと人が住めるよう手入れがされていた。
廊はぴかぴか光っているし蔀戸も破れていない。
雨漏りなんかも当然全くしなそうだ。
「こちらじゃ」
やがて導き入れられたのはさほど広からぬ板の間だった。
白地に黒い菱紋を連ねた落ち着きのある几帳が立てられている。
その向こうに人のいる気配があった。
「――姫さま、若君をお連れ申した」
「そうか。そなたは下がれ」
几帳の向こうから権高そうな女の声が応える。
女房は黙って下がっていった。
颯子はハタと困った。
--ええと……どうしよう?
どうやったらこの状況で、「私は声が出ません」と記した書付を手渡せるのか?
いっそ声を出してしまおうか? もしあちらが十二、三歳の稚児だと思っているのだとしたら、高い声だってそんなに不思議ではないはずだ。
――よし、やろう。大丈夫だ。六条大納言家のお姫さまが、山鶉家のバカ息子の年齢なんか知っているはずがない!
颯子が覚悟を固めてぐっと拳を握りしめたとき、不意に内側から几帳がめくられたかと思うと、何やら赤っぽい塊が勢いよく飛び出してきた。
「……――真盾どの! わが夫! お逢いしたかったぞ……!」
――え、えええええ!
颯子は内心で絶叫した。
几帳の中から飛び出してきたのは、白い小袖に濃い紅色の打掛を重ね、つややかな黒髪を背に裁いた妙齢の姫君だった。
白く豊かな頬とつぶらな黒い眸。
ぱっと目を惹く紅牡丹みたいに華やかな姫である。
その姫が、黒い眸を潤ませながら、後ずさり損ねた颯子にしっかと抱き着き、肩に頬を擦りつけながら泣きじゃくり始めた。
「ああ、真盾どの、真盾どの。半年もどうしておいで下さらなかった? この桜児がどんなに心細かったことか……」