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第五章 思いがけない文使い 

 ひたすらどきどきしているうちに芝居が終わってしまった。

「公方様ご退出――」

 声に一歩先んじて桟敷の一同がざっとひれ伏す。颯子も慌てて倣いながら、がっかりしつつもほっとしていた。



  ――公方様がこっちを見ていたなんて、たぶん気のせいだったんだろう。



 あとはもう帰るだけだ。

 晴れ晴れとした寂しさを感じながら立ち上がったとき、

「申し山鶉の若様――」

 背後からふいに声をかけられて、颯子はぎょっとした。

 慌てて振り返ると、さっきの案内の老爺が、見るからに申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「公方様がお召しじゃ。母屋へおいでくだされ」



 ――ええええええ!



 颯子は内心で悲鳴をあげた。

 まさかのまさか、本当に、公方様は私に――山鶉家の若さんに一目惚れしてしまったのだろうか?



 --あ、それとも、もしかして謀反の疑いのほう?



 どっちがどれだけより悪いのか、颯子には分からなかった。




 案内の老爺に導かれるまままたしても長い廊を歩いて母屋の奥へと向かう。

 敷居の外で老爺が足を止め、平伏して朗々と呼ばわる。

「公方様、山鶉の若君を御連れいたしました」

「入れ」

 奥から戻った声はなるほど公方様のものだった。

 さっきの全く覇気のないダルっとした声よりは多少ましな気がする。

 しかし、恋に浮かれて弾んでいるというほどでもない。



 --これはやっぱり謀反疑いのほうかな……?


 

 そう思うなり恐怖を感じた。

 今なら本当に声を出そうとしても出てくれなそうだ。

「――若君、お入りなされ」

 敷居の外で硬直してしまった颯子を老爺が背後から促す。

 颯子はぎくしゃくした動きでどうにか室内へ入った。


 途端にうわああ、と叫んでのけぞりそうになった。



 ――な、何この空間。美形の密度が高すぎて怖い!



 室内で待ち受けていたのは当然公方様だった。

 奥に敷かれた薄縁の上に、相変わらずダルっとしたやる気のなさそうな姿勢で趺坐(あぐら)をかいている。

 そして、もう一人、公方様と向き合う姿勢で、真っ白い水干に盾烏帽子、黒髪をさばいたとてつもない美形の生き物が片膝を立てて坐っているのだった。身なりは童形の男のそれだが、顔かたちは完全に美女だ。



 --あ、この人、さっきの女猿楽だ。



 それにしたってものすごい美形である。

 冴え冴えとしたうりざね顔の美貌から目を離せずにいると、


「ほほう、これはまた愛らしい」


 目の前の美形が、思いもかけず低く艶やかな男の声で言った。

「公方様、よき文使いを見つけられましたなあ。この猫夜叉丸に目もくれぬ姫となると、こういう山路のツボすみれみたいな美童をお好みかもしれぬ」

「であろう?」

 公方様が得意げに応じ、呆然と立ち尽くす颯子にようやく目をくれた。

「そなた、なぜ黙っておる? この儂が誰だが分からんのか?」

「若君、こちらは公方様じゃ」と、美女にしか見えない猿楽者――名前は猫夜叉丸というらしい――が言い添え、すらりと立ち上がって下座へとさがった。

「おい猫、お前は好きに坐せ」

「公方様、そうはいかぬ。困窮したりとはいえ殿上人の若君を、どうして猿楽者の下座に坐らせられようか。ささ、若君、御前へ。案じなさるな、公方様は稚児好みではい。端麗(きらきら)しいまでの美童であった五年前のこの猫夜叉にも指一本触れなかったほどじゃ。吾はてっきりこのお方はどこかお悪いのかと思った」

「黙れ猫。亡き父の寵童に手を出すほどこの昭光も節操なしではないわ。そなた、山鶉の、ああ――名は何と申す?」

 正面から訊ねられて颯子は硬直した。


 

 ――ああ、そうだ。こういうときのための書付があるんだった。



 ようやくに非常手段を思い出し、懐を探って自筆の結び文を引っ張り出して差し出す。

 公方様は怪訝そうに眉をよせながらも受け取り、文を解いてざっと目を走らせた。

「ほほう、長らく病で寝付いていたためにいまだに声が出ぬ、と。それは難儀であったなあ」

 声からは少しも疑っている様子はうかがえなかった。

 颯子はこくこくと頷いた。

「名は、山鶉の真盾――と。筆跡も美々しいの。そなたが書いたのか?」

 もちろんですとも公方様!

 内心でだけそう応じつつ、颯子は満面の笑顔で頷いた。

 公方様は一瞬目を瞠り、不意に声を立てて笑った。

「そなた、実に愛らしいなあ! 猫の申す通り、そなたのように愛らしい文使いであれば、あの氷のごとき姫のお心も少しは溶けるやもしれぬ」

 目を輝かせて熱く語る公方様の顔には恋の情熱が燃えていた。


 颯子はがっかりした。

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