第二章 しゃべらなければどうにななるはず!
厨にクワイの籠を預け、七瀬がくみ上げてくれた井戸水で足の泥を洗ってから、颯子は急いで母屋の寝殿に向かった。
殆どなんの調度もないがらんと広い板の間に入れば、奥に据えられた縁のすり切れた薄縁の上に色の醒めた藍色の直垂姿の父の山鶉公照が胡座して、膝に広げた書状を呼んではがっくり肩を落としていた。
母はと見れば、蔀戸からの光が差し込む窓辺に片膝を立てて坐り、いつものようにせっせと手を動かして竹かごを編んでいた。父の隣に座っていないのは窓辺のほうがよく陽が入るからだろう。
この竹籠編みも山鶉家累代の北の方さまの誰もがやってきた仕事である。
ちなみに、寝殿造にお住まいなさる御公家様の正妻が「北の方」と呼ばれるのは、本来、母屋の北側の対の屋に住まうことが多いからだが、山鶉家においてその名称に実態は伴っていない。無駄に広大な屋敷の維持が七人の家人ではどうにもならないため、こじんまりした一族郎党みなすべて母屋に集住している。
名ばかりの北の方さまは熟練の職人の手つきできびきびと竹籠を編んでいたが、入口に立つ颯子に気付くと、顔をあげて眉をしかめた。
「姫さん、早くお入り。陰になるだろう。冬は日が短いんだからね」
「あ、すみません」
颯子は慌てて入った。
「すまないね、急に呼んで。あの虚けが出て行ってしまってから庭のほうも忙しなかろうに。どうだね、今年のクワイは」
「なかなか良いできです。去年より十籠ばかり多くとれるかも」
「そうかい。それならせいぜい精を出して籠を編まなくちゃね」
「お母さま、余分の実入りがありましたら、来年はひとつ蓮根を試してみません? 大層いい値で売れると曾祖母様の日記に書いてありました」
「それはいい案だね。そろそろ姫さんの輿入れ支度もしなくちゃならないし、余分の実入りは幾らあったっていい」
「あらいやですわお母さま。まだ通う殿御もおりませんのに」
「姫さんは殿に似て可愛らしいからね。きっとすぐ見つかるさ。でも、蓮根はどんな籠に入れて売るものなのかね?」
「それもきっと御文庫の日記を漁れば――」
どちらも仕事熱心な性質の母子が色恋話とまぜこぜにしつつ熱心に仕事の話を始める。姫に似て可愛らしい父の公照が慌てて口を挟んだ。
「北の方も姫さんも、作物の話はちっと後にしないかい? 今ここに大変な報せがあるのだから」
「ああ、そうでした」
北の方がはっとわれに返る。
颯子はいぶかった。
この時期の山鶉家にとって、最大の収入源である池のクワイの収穫と販売以上に大切な用事など存在しないはずだ。
--もしかして真盾が見つかったのかな?
一瞬そう思いかけたが、それにしては両親とも暗い顔をしている。
颯子は青ざめた。
「お父様、まさか真盾が――」
「そうなのじゃ」
と、公照は沈鬱な声で応えた。
「死んだのですか?」
「死んでおらん」
「いっそはっきり死んだと分かれば多少はましだったのだがな!」と、職務怠慢に厳しい北の方が血も涙もない台詞を吐く。
「じゃ、一体何があったのです?」
「御所から文が届いたのじゃ。今月の晦日に何たらという猿楽者を招いて能の会を催すゆえ、雅楽頭さんとこの若さんも必ず寄越すようにと」
「え――」
いきなり告げられたなじみのない単語に颯子は混乱した。
颯子の人生の大半はクワイとか筍とか甜瓜とか鶏糞とか、そういう感じの単語で彩られている。たぶん、同じくらいの家格の公家の家はどこだってそんなものだろう。猿楽者を招いて能の会? どこの京の話だ?
「お父様、その御所って」
「むろん、公方様のお住まいなさるいわゆる花の御所じゃ。帝の宮ではないぞ?」
実は今の京には二つの中心がある。
帝の住まう宮と、「公方さま」と呼ばれる征東大将軍、入鹿賀昭光の住まう御所である。
「公方様が真盾を?」
颯子はいぶかった。
「でもお父様、その招きになんの不都合がございますの? 将軍家にお仕えする責務があるのは武家だけでしょう? 山鶉家は混じりっけなしの公家なんですから、お仕えすべきはあくまで帝のみ。公方様が何を言おうとうっちゃっておけばいいじゃないですか」
昨今の京で裕福なのは圧倒的に武家である。山鶉家みたいな縁戚に一人も武士のいない公家は大抵どこも困窮している。しかし、これだけ困窮していようと、公家は一応公家なのだ。宮から賜る位階の上では大して高位ではない征東大将軍に従う義務はない。
「うむ。できるならそうしたいのだがのう――」
公照が口を濁した。
颯子はイラッとした。
「お父様、はっきり仰ってください。真盾がどうしても御所に上がらなけりゃならない理由がありますの?」
「うむ。それがあるのじゃ」
「実はな姫さん、若さんがとんでもないところで目撃されてしまったのだ」と、北の方が怒りをこめた声で言う。「どうもあの虚けは錫白の関を抜けて東国へ向かったようでな、滅びたもうた南朝の帝の末裔の綸旨をたずさえ、このごろ公方様に弓引こうとしているらしい東国の武士どもに届けに走ったのではないかと、御所からこう疑われているようなのだ」
「じゃ、招きを断ったら?」
「若さんは家運再興を求めて討幕に走った。そう思われてこの家もどう裁かれるか分からん」
「そんな――」
颯子は絶句した。
「家運再興を掛けて南朝さまの綸旨を手に入れて東国の反乱勢に届けるなんて、そんな難しいこと、あの真盾に考えられるわけないじゃありませんか!」
「この父だってもちろんそうは思うがのう」と、公照が肩を落とした。「うちの若さんは馬鹿だからそんな馬鹿なことはできやせんと御所に答えるわけにもいかぬ」
「若さんは根木川の河原で洛中の悪たれどもを率いて他所の御屋敷の柿を盗んだり、そんなことばかりしていたからな、御所から見れば何かできそうな馬鹿に見えたのかもしれぬ」と、北の方も沈鬱に応える。
「そこでな姫や」
父が猫なで声を出した。
颯子は嫌な予感がした。
「お父様、まさか――」
「うむ」
公照は頷くなり、ところどころ塗りの禿げた盾烏帽子の先端を床に打ち付けるようにして頭を低めた。
「頼む姫さん! この通りじゃ! あの馬鹿の代わりに一日だけ御所にあがってくれい!」




