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三位一体の問題点他

 いわゆる三位一体は神を父、子、聖霊に三分割しそれぞれを本質を同じくする位格であると言っている。私の解釈では子に父があり、父が子にあるという主張がこれでは上手く成り立たないのではないかと考える。すなわち父と子が同本質であるというのは、水面と水滴のような喩えに感じられる。それこそ私には水面に満ちる水もそこから取った水滴も本質は水であるというナンセンスな主張に聞こえる。

 本質のことを神性と表現するのであれば、三位一体の神性には典拠がない。つまり私にとって神性とは父と子によって生じ父から子へと流れる聖霊によって保証されるものであるから、「父は神である」「子は神である」「聖霊は神である」というのは違和感があり、「父と子は神である」「聖霊は彼らから来る霊である」の方が正当性があるように受け取れる。反対の「神は父である」「神は子である」「神は聖霊である」というのも問題があり、「神は父(子を内在する)であり独り子がある」「神である父は聖霊を持ち、約2000年前に神の子であるイエス・キリストに相続された」という方が適切であるように思える。

 言うなれば人間に子があることが神に子があることの証左である。人間の場合は子に子が生まれる場合があるが、神の場合はカノニカルに定まると言っても良い。また人間が物を所有することが神が聖霊を持つことの証左である。これも人間の場合は物と言っても千差万別だが、神の聖霊の場合はカノニカルに定まる。ここで、神の霊は一つの対象であるがさまざまな側面を有することが言えて、父と子の関係のように聖霊を持つ者が真の意味でクリスチャンである。

 三位一体の問題点は前述の「相続」の点でも言えて、有名なダビデ王を無視している。イエス・キリストは正しくダビデの子孫として現れたのであり、かつてイスラエル全土は彼の家とその庭であったから、ダビデの子として王位を超える神位というものを約2000年前の死と復活において父であるヤハウェから受け取った。

 理論化された神学には致命的な欠陥があって何より歴史的な背景を持っていない。すなわちイエス・キリストの父はイエス・キリストの神であり、それはいわゆる聖書に言及されるアブラハム・イサク・ヤコブの神である。父と子は確かに永遠の関係であろう、ただし子は預言を通じて「メシア」としてユダヤ人の間で知られ、死と復活を経験している。この意味で父と子の関係は天地創造から死と復活、現在に至るまで発展している。

 そもそもの話で神という言葉の中に現れる三者が永遠の関係であるというのは私には可笑しく聞こえ、人間が言及する限り「神」は言葉であり、言葉は「神の言葉」に帰せられる。人間が認識する限りでは子は神の認識の限界であることを示唆していて、認識されうる真理としての神は子でしかない。つまり父を位格という言葉に押し込めるのは不可能である。

 言い換えるのであればただ「真理の主はある」ということである。

 私にとってイエス・キリストの死と復活は真理を超越している。人間は死ねば通常死んだままであるが、それを許されなかった唯一の事例が正しくキリストの場合である。真理は永遠であるから、ここに十字架に付けられた一人の人間イエスの死という業に対する報いが一人の人間の命ではなく無限の人間の命なのである。

 イエス・キリストは無限に相当する命を受けて蘇った人の子であり神の子である。その過程で神の右の座まで高められるに至った。彼が赦すのであれば人間は天国で永遠の命を受けることができ,赦さないのであれば地獄で永遠に苦しむ。その意味で本当のキリストを信じるという業は重大で、信仰は一朝一夕に獲得されうるほど軽んじられるものではない。その人の人生と関係がない信仰には価値がなく、古代から現代にかけて価値ある信仰は失われた。

 特にラテン教父として知られる人々の言葉は信用に値しない。アタナシオスもアウグスティヌスもその他大勢の人物の語る言葉はギリシャ哲学を下敷きにしていて、真理には程遠い。何よりソクラテスやプラトン、アリストテレスを真に教会の人間が信用することはあり得ない。

 彼らはまたイエス・キリストは神性と人性を有するというが、神の子であり人の子であるというので十分である。人間でありながら神としての性質を有するというのではなく、天地創造に先立つ神の子が人の子となり三十代の半ばで神の右の座まで高められたというのが正確である。それゆえキリストは紀元30年頃に戴冠した2020歳代の王であると言える。

 イエス・キリストとその本当の信者であるクリスチャンとの関係は神と神学者でも律法と律法学者のそれでもなく、主と僕でありそれは神と僕の関係とも言える。紀元前以来ユダヤ人はヤハウェを主としたが、約2000年前に主題が切り替わって以来主は完全にキリストであり、全地はキリストのものになるからである。このことは神の王国の到来などとして知られているが、かつてのローマ帝国は神の王国などではなく、現在欧米始め世界各地にある国々も神とは何ら関係がない。

 イエス・キリストは神の王国の王であるからローマ皇帝がキリストを信じるというのは無理があり、彼らの人生が真理と関係ありその命が神の王国のうちにあるとは考え難い。いわゆるキリスト教で皇帝が召集したとされる公会議にはいずれも正当性がなく、その参加者が神の王国の人間であるということは疑わしい。この意味で現代の教会は無意味であるかそもそも教会は最早存在しない。

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